たどり着いた灯り1-2
ランはアイスコーヒーの中の氷をがりごり噛んでから答えた。
「はい。ご存知とは思いますが、コミュ症には複数の種類があります。『カクレンボ』に代表される適応障碍型、『アパシー』『マージナルソート』に代表される器質型、『ソシオパス』『サンズノカワ』に代表される人格障碍型。それぞれによって対処法は異なりますが、恋愛が成立した際の感情の起伏は、これらの全てを吹き飛ばして治療することができます」
なるほど。なるほどなるほど。本に書いてある基本通りだ。前半は。
後半は聞いたことがない。恋愛が成立した際の感情の起伏? 寝言?
「そんなの俺聞いたことないけど」
「私しか提唱していませんので」
覧は「マジかこいつ……」という目でランを見た。
「まあ落ち着いて下さい。奇妙に思われるかもしれませんが、コミュ症科医は結構こういう言説が好きなのですよ。ホニャララならばコミュ症を全て解決する。そしてそのホニャララの中には自分の好きな趣味などを入れるのです。
筋肉とか数学とか。
小難しいことばっかり言ってると、人気が出ないので。そして人気が出ないと、仕事が来ないので」
「商売根性汚えな。それとも、将棋の昼飯ネタみたいなもんか?」
「ただ、みんなマジで言ってるんですよ。本当に、楽しいことを心行くまでこなせばコミュ症は吹き飛ぶと思っているんです。私はそこまで頭カラにはできませんが、ある程度真実を含んでいると考えます。そして、ヒトの脳の在り方を揺さぶるために一番手っ取り早いのが恋愛なんです」
「はあ。まあ俺も素人だから、そう言われたらわからないけど」
ランは一つ咳払いをした。
「想い人はいらっしゃいますか?」
「いない」
「だと思いました。ソシオパスは他人に興味を持てないコミュ症ですから」
「……俺、いつ、俺がソシオパス持ちだって言ったっけ」
「言ってないです。私はコミュ症科医なので、人のコミュ症は顔を見ればわかることが多いです。……想い人がいなくても大丈夫です。その場合は、……んん……他人の恋愛を成就させればオーケーです」
「は?」
「貴方の手で、他人の恋愛を成就させるんです。くっつきそうだけどくっつかない二人とか、片方が片方に徹底した片思いの二人とか、殺し合いたいほど憎悪してるけど心の中では惹かれ合ってる二人とか」
そんなの現代日本にいるのか?
「それでどうやって俺のコミュ症が治るんだ」
「眼前で恋愛を目撃したドキドキが、直接経験するよりは弱くても、プラスの作用になります。まあともかくドキドキがいいんですよ。これ、私が出版した本で、過去の患者の治療記録です」
差し出されたタブレットには電子書籍アプリの画面が映っている。
無味乾燥な文体で、A君とかCさんとか言った仮名の人々が、好きな人と結ばれた結果、コミュ症の症状が軽快した例がいくつかあがっていた。
しばらく考えた。
「まあ、話はわかった。周りのくっつきそうでくっつかないカップルをくっつけて、俺もドキドキすればソシオパスが治るんだな。やってみる価値はあるかもしれない。どうせ時間と金は有り余ってるし、暇だから」
ちょうどいい機会だと覧は思った。公認心理師の面談は受けたことがあるものの、コミュ症科医に関わったことはない。彼女を知った際のネットニュースの受け売りだが、ブランシェの評判は非常にいい。母性を感じるとか何とか。コミュ症科医とはどういうものなのか、見極めるのにちょうどいい。
……既に物凄く胡散臭いが。
「はい。やりましょう」
「ちなみにさ、昔カウンセリングに通ってたことがあったけど、全くよくなってる気がしなくて、それで飽きてやめたんだ」
「はい。はい。……公認心理師や臨床心理士はコミュ症に関しては不得手なところもありますからね」
「今度は本当に治るの?」
「治ります。私は天才です。私を信じて下さい」
「じゃあそれとは別の問題」
「なんでしょう」
「自慢じゃないけど俺、学校で一人も知り合いがいないぞ。会話する程度の仲の人間すらいない。まじでアンタッチャブルな感じだ。まともな人間関係を持ってない。『他人に対する関与』がそもそも不可能だ」
「大丈夫。私のデータは無敵です」にこりと微笑みながら言った。
「いやお前想像ついてないだろ。学校に行って一日誰とも話さない日のほうが多いな。私語だけじゃなく、体育だので必要な会話も含む」
「大丈夫、私のデータは無敵です」胸に当てた手をゆるく握って上目遣いで言った。
「だから」
「無敵です」
「そうなんだ。わかった」
もうどうでもよくなったので了解の返事をした。
※
喫茶店からの帰り道、駅までの短い道をちんたら歩きながら、ランは、覧について質問した。
「率直に聞きますが、親御様との仲はお悪いですね」
「ホントに率直だな? まあそうだな。ちなみに、なんで?」
「貴方のその制服は一駅先の高校ですね。偏差値は5×程度、ある程度勉強している生徒が行く学校です。にも関わらず、覧はこうやって私と学校をサボって平然としていて、その上誰かに連絡する気配はありません。ではなにか親御様の身に何か事情があるのか? しかし、そのシャツはちゃんとアイロンがかかっている。よほどの几帳面な人間でなければ、男の高校生で自分のシャツにアイロンをかける人間はいないでしょう。親が勝手に洗濯して、勝手にアイロンをかけている。少なくとも貴方からはそう見える」
「俺はコミュ症だからな。学校なんていうゴミの山、どうなろうと気にしないだけだ」
「ソシオパスとは社会規範を無視するコミュ症ではありません。むしろ逸脱を嫌う傾向があります。信頼という名のトロフィーを損なうからです」
「……わかったわかった。でもシャツは単に毎回クリーニングに出してるだけだ。仲が悪い相手に……制服を触らせるかよ」
覧は適当に理由を話した。自分の過去を話すことに関して嫌な感情は全く持たない。ほとんど他人事みたいなものだ。
「俺は、親が『十億コイン事件』の犯人なんだよ」
ランが少しだけ反応した。もうちょっと大げさに驚いてくれてもいいのになとぼんやり思う。
十億コイン事件とは、十年弱程度前に起きた窃盗事件だ。
大量の電子通貨が、ある電子通貨事業者から大量に盗まれた。犯人は、どこにでもいる平凡な夫婦(一応妻のほうは元ITエンジニアだったが)。
平凡な夫婦にそんなことができるのかといえばできてしまう。
盗まれた業者が、学生が運営する未熟な電子通貨事業者で、セキュリティがガバガバだったことが一つ。電子通貨という仕組みと存在自体が、超単純にいえば、数学とデータの塊でしかないことがもう一つ。そして、その電子通貨の開発者が、技術的に犯人を追おうと思えば追えたのに、かなり早い段階で、追跡のコストを嫌って諦めたのが最後の一つ。
長くなったが、要は結果、覧の両親は、覧を養いきってなお、家が五百個買えるくらいの金を手に入れた。
事件の直後は、覧の両親は派手に金を使うことはなかった。だが何かにケリがついたのか、しばらくして二人の価値観は――いかれた。
「ふざけんな、人から奪った金で遊んでんじゃねえよ」とキれようにも、奪った十億Z、日本円にして一兆円のおかげで覧はここまで大きくなれた(もちろん全部を使ってってわけじゃない、それなりのごまかしをしてるみたいだ)。
わりとたくさんの人間が頭を下げて、もっとたくさんの人間が電子通貨バブルのなか一文無しになって、さらにたくさんの人間が電子通貨そのものを危険な存在として見るようになって、でもそのおかげで、片方フリーター片方ニート貯金ゼロの夫婦のもと、絶望的な相対的貧困を経験するはずだった覧は、こうして健康な男子高校生になれた。
「そのことを知って以来、まともに働く気も起きないし、まともに努力する気も起きないし、いいことをする気も起きないし、悪いことをする気も起きない。ウィキペディアに事件の記事があるような犯罪者の親を、好きになる理由があるかよ?」
隠すことでもない。つい最近時効成立済み。ケイジは無理でもミンジなら可能らしいがよくわからない。会社はある程度昔になくなっている。要するに、覧のことを裁いてくれる人間はいない。どうでもいい。
「……覧は今すごく、やけっぱちな顔してます」
「そうなんだ」
「理解しました。貴方の自己嫌悪に共感しました。いずれまた、詳しくお聞かせください。
……では、また明日」
あっけなくランは会話を打ち切り、駅の改札に消えた。
覧も一本電車がずれるくらいの時間ぶん待ってからそれを追う。電車の窓に鏡のように映った自分が、卑屈っぽく笑っててキモい。
※
翌朝、ランは、覧の学校の最寄り駅から学校までの道の電柱に、片足立ちで背中からよりかかってカッコつけていた。
「遅かったですね。……作戦開始です」
「昨日の話本気なんだなあ。すごい。でもこんなところで棒立ちしてて、よく不登校で補導されなかったな」
同じ高校の生徒達が中心とはいえ、人通りは多い。
「はっ。警察官はかなりの確率でコミュ症ですから、言いくるめるのは簡単です」
「そうなんだすごい」
歩きながら、ランは覧の体に数点のデバイスを装着させた。右耳に付いた、目立たない小さなピンから、ひんやりとした感触がする。
「なにこれ」
「マイクとイヤホンです」
「見りゃわかるけど。ってイヤホン? どれ」
『聞こえますか?』
「そりゃ目の前だから聞こえるけど」
『じゃなくてイヤホンからです。骨伝導タイプのやつで、空気を振動させる音は出ません。形状上、ヘマをしなければなにか聞いてるとはわからないはずなので、常に付けっぱなしでどうぞ。教室では私の指示を受けつつ動いて下さい』
「えっ何作戦ってそういうレベルの話なの」
『私は仕込みがあるのでこれで。みっしょんすたーと!』
ポーズをキメてノリノリで呟いたあと、とてててとランは走って消えた。
※
覧が通う学校は、四十年程度の歴史を持つ私立高校だ。偏差値は平均より少し高め。このくらいの偏差値の学校は生徒をガチガチに縛って勉強させ、進学校を自称することが多いが(そしてカスみたいな進学実績を自慢する)、ここはどちらかといえば自由放任主義の学校。髪を染めてる奴もいれば、授業をサボる奴もいて、スマホ・内職・早弁自由なかわりに、赤点だけは許されない。
とはいえ、自由が許されているからって、別に何か自慢になるものがあるわけではない。スポーツの実績もなければ、東大合格者は五年に一人。
制服はまあかわいいと評判だが、有名デザイナーがデザインしたわけでもない。
『外装は一見普通ですが、廊下は新しくて綺麗ですね。不自然じゃない程度にぴかぴかです』
「最近綺麗にしたらしい。あとは歴史が浅いってとこだ」
『きっとこれから続きますよ。それに、新しいということはいいことです。誰かを想う現代の素人は、古代の名医に容易く勝つんです』
「なんで急に医療の話になったんだろう」
話しながら気になって、覧は高校の廊下の中、きょろきょろとあたりを見回した。
「っていうか、まるで内装を見てるみたいなこと言うな。どこから見てるんだよ。まさかカメラまで付けたのか?」
『望遠鏡で見れるところに常駐してます』
「窓の外のどっかか? うちの教師から文句言われるんじゃねえの」
『いや別のビルですし文句なんて言えませんよ。だいたい教師はかなりの確率でコミュ症ですから、言いくるめるのは簡単です』
「そうなんだ。じゃあそのビルの警備員とかは」
『警備員はかなりの確率でコミュ症ですから、言いくるめるのは簡単です』
「そうなんだ」
覧はスマホに繋げたマイク付きのイヤホンを持って、わざわざイヤホンを耳にはめて(※骨伝導イヤホンは穴に入れず、クリップやピンのようにして耳に装着しているため、耳の穴は空いている)、「そうです私は電話してるだけです」という感を与えつつ廊下を歩いた。
今どきハンズフリーで電話している人間は珍しくなかったが、それでもそういった言い訳なしにランと会話するのはなかなかキツい。
そして、教室前にたどり着く。
『では手はず通りに、私の指示にしたがって会話をお願いします。まず、教室に入り次第「おっはよおおおおお」と大声で叫んで下さい』
絶対いやだ。と思ったがやってみる。
そのくらいで、長く続くコミュ症の苦しみから逃れられるのなら問題ない。