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月の狐は遠く遥か2-6

 返ってきたのは、完全なる拒絶だった。


「死ね。死ね。死ね。死ね死ね死ね」


「怖」


「率直に死ね。どういう名目があるのか知らないが、誰が私を助けろと頼んだ? 誰がお前に助けてと頼んだ。他人に干渉し、他人を捻じ曲げようと努力し、それを良いことだと勘違いして、挙句の果てに行き着いた先はストーカーか。お前は何も成さないただの倫理違反・ゴミ野郎だ。存在する価値がない。スカイツリーの屋上から、『私は皆様に御迷惑をおかけしました』と泣き叫びながら飛び降りろ」


 全く反論できない。


「私は、私の生活に対する侵略を許さない」



 望月は言い切った。そして、しばらくの沈黙が響く。


 正直、彼女の言動は、彼女についての普段の印象とは違うもので、面食らった。だが、人間とはそういうものだろう。有名バーチャルライバーユニットが、実は半数同一人物だったというのは有名な話。


 リアルタイムの掛け合いが必要な生放送の場合は、ユニット内で声質の似た代役を立てる。もちろん代役を立てるやり方では台本などの緻密な前準備が必要、必然的に生放送をやりやすい組み合わせは、はじめから演者が違う組み合わせに偏る。


 その回数の偏りを誤魔化すために、台本を作ってフォトジェニックな女の友情を演出し、仲のいい組み合わせとそうでもない組み合わせを演出していく。

 仲のいい相手と数多くコラボをするのは当たり前だから。


 そのへんはおいておいて、だからそう、侵略を許さないと言われても困る。何を言われようとも、自分の病気を治すためにも、無視してつきまとうだけだ。


「相手にするつもりがない顔だな」


「そうかもしれない」


 望月が、長い黒髪を、頭痛をこらえるみたいにして押さえた。


 しかし、すぐにその頭痛は止んだのか、またこちらを見据えてくる。


「ゲームをしないか?」


「ゲーム?」


 歩み寄ってきた彼女に、イヤホンを外される。指示を受けるなという意味か。指で弾くことで、外されたイヤホンを、道路の端に放り投げられる。


「鬼ごっこだ。走って私を捕まえられたらお前の勝ち。これからも好きにつきまとえばいい。何か聞きたいことがあったら教えてやろう。だが、お前の体力がつきるまで私が逃げられたら、私の勝ちだ。二度と付きまとうな」


「あ……?」


 意味不明。覧は硬直した。何この勝負、ノーリスクじゃん。勝ったら協力を得られる。負けても、はいわかったと言って、明日には忘れればいい。


 第一、いくら自分の運動神経が微妙だって、望月の運動神経が抜群だって噂があったって、女に純粋な体力で負けるものか。


「受ける」


 勝ったな。覧は確信した。どういう流れを想定してるのか知らないが、きっとまたすぐなんとかなって、俺の病気も治るだろう、きっと。


「じゃあ、せっかく歩み寄れたことを記念して握手でもするか」


 こちらの言葉に、望月は一切動かない。相手にされてないらしい。ダッシュをかけて手を伸ばす。ひらり、かわされた。


 赤い瞳がぎらぎら光り、まるでこちらを捕食するように輝いた。


「お前が人間のクズであることを教えてやる」



 走る。


 ……追いつかない。


 走る。


 かなり足が速い。おかしい、こんなはずじゃない。全速力の男子に勝てる女子など存在するものか。


 しばらくすると気付く。ルート取りと、ターンが異常に上手い。いつでもひらりと曲がって身をかわせる場所を走って、こちらのトップスピードを避けている。


 くそ。走る。追いつかない。


 走る。追いつかない。


 ひたすらに追いかける。


 望月を追いかけるうち、いつの間にか覧は踏み入れたことのない場所に来ていた。見知らぬ公園の階段を登る。人混みを蹴散らしながら、買い物のときに使う超巨大オフィス街をくぐる。走る。届きそうな気がして手を伸ばすと、一飛びで十メートルほどジャンプして、とんとんとローファーで地面を蹴って、望月がこちらを見据える。追いかける。くそ、死ね。疲れてきたから、だんだん思考の攻撃性が増してきた。超有名な某神社の横を走り抜ける。そのまま住宅街に入り込み、狭い路地裏をもがき進む。上を見れば高速道路が走っている国道をスタミナ切れかけの足で這い回る。地下鉄の駅を何個も見た。地上線の駅も一度見た。


 東京の空の下を数十分以上走って、走っても、走っても、追いつかない。


 くっそ足が速い。一体なんでこんなに足が速いんだろう?

 覧だって、別に運動が全くできないわけじゃないのに。

 男と女の体力差だってあるはずなのに。


 どれだけ走っても腕一本ぶんの距離まで近づけない。



 最後、覧は息が持たず、道路に崩れ込むように倒れた。気づけば覧は同じ駅の同じ繁華街に戻ってきていた。頭はまだ行ける行けと主張するが、息が、足が、まわらない。


 望月が踊るように歩いてきて、頭上で囁いた。


「雑魚。ざーこ。ザコザコザコざーこっっ」


「クソが、なめんな」


 鉛のように重い体を無理に立ち上げて、飛びかかるが避けられる。


「クソぁ、クソァああァァアアあ!」


 最後のやる気だった。三十秒程度また走って、最後にはそれを使い果たして終わった。「ぶぇっ」無様な声を出して道路に這いつくばる。

 なぜ女に敗北し這いつくばらなければならない?

 覧は最高にイライラした。


「これでわかっただろう。お前はザコだ。存在する価値がない。二度と私につきまとうな」


 満身創痍の覧を見て、望月が優雅にスカートを翻し頭上に立った。


「なんで追いかけっこで負けただけでそこまで言われなくちゃいけねえんだよコラァ……」


「賭けて、負けたからだ。ましてや、最初に違法行為を仕掛けたのはお前。いくら煽られても煽られ足るまい」


 正論だ。


「約束を履行しろ」


「……」


「約束を履行しろ」ガッと、革靴で頭を踏まれた。


「死ね」


「約束を、履行しろ」


 後頭部に繰り返し打撃が来る。


「わかった。明日から付きまとわない」


 痛みに耐えかねてそう答えた。しばらくの沈黙。反応が気になって上を向く。


「えらいえらい」


 頭を撫でられた。下着をスカートの裾を持って隠しながらしゃがみこんで、さっきまで踏んでいた位置と全く同じ場所を撫でながら、望月は、かすかに微笑んでいる。


 なんだこの、サイコ女は? 頭がおかしいんじゃないか?


「その言葉、信用するぞ」



「げほっ、ごほっ」


 立ち上がれない。文字通りすべてを使い果たした。望月遥香はとっくのとうにスカートを翻して消えた。


 なぜ運動で全力を使い果たしたあとは呼吸する度に胸が痛くなるんだろう。これが切ないっていう気持ちってやつなのだろうか。幼児の頃に家族が家に誰もいないときに感じたことがあったような気がしたが、もはやどんなものだったかも思い出せず、今家に誰もいないときに受けるのは開放感だけだ。


 そんな感じで地面に這いつくばっている覧の目の前に、子供向け革靴の足音を鳴らして現れたのは小学生だった。


「無茶させましたね。申し訳ないです」


「別に無茶ってわけじゃねえよ。クソ。なんで負けたのかな。くそァ! あのカス許さねえ、女のくせにィィィぁ!!」


「ミドルバスケットボール大会ベスト4経験者に張り合うには、こっちもそれ相応の体力が要りますよ」


「何? ミドルバスケットボール? って何?」


「中学生のクラブチームの全国大会です。参加要件は緩く、性別ごとに出場チームが五十くらいなので、『出場イコール全国進出』な大会なんですが、ベスト4ともなるとお忍びの超強豪校エースとかもいるような感じらしく充分箔が付きますね」


「先に言って……」


「中学生の最高だぜ!」


「意味がわからないから」


 ランが、追いかけて来たらしい。


「大丈夫、覧は悪くない。私も悪くない。いつだって悪いのはコミュ症です。現代の法学では責任能力という概念が存在していますが、そんなの間違ってます。全ての人間に全ての害なる行動を引き起こす全ての形質はコミュ症です。そして人を死なせてもコミュ症が悪い。物を盗んでもコミュ症が悪い。あなたは悪くない。なぜならコミュ症こそ人に行動を起こす作用因だからです。治療すればいい。治せば、全て元通り。死んでも、壊れても、全て元通り。人は本来正しい存在です。だから上手く行かなければコミュ症が悪い。だから、私達は悪くない。何が起きても。人が死んでも、私が死んでも、悲しむ人が出てきても、助けられたのに助けなくても、全部私達ではなく、私達のコミュ症が悪いんです。ね?」


「いや、人を死なせれば遺族の人が流石にキレるだろ」


「キレてもムダですよ。被告人はそもそも悪くないんですから」


「じゃあ、それでもキレたくなるのもコミュ症ってことじゃねえの」


「なるほどー。では治療しなくてはなりません」


「うん、まあいいんじゃない。治せるんだったら、それが一番いいよ。ともかく今回の俺のコミュ症は運動不足らしいからさ、……今度治療してくれ、コミュ症科医」


 半分へばりながら何とか起き上がる覧に、ランは手をふりふり振った。


「別に大丈夫ですよ。彼女の行き先はわかってるので」


「は?」


「これです見て見て」


 差し出されたものを見ると、タブレットに地図とその中の光点が表示されている。光点はじわじわ動いている。


「GPS?」


「はい。想像つきませんでしたか? どうやってここを見つけたとか考えませんでしたか」


「ハイテクストーカーじゃん」


「ハイテクストーカーではありません。コミュ症科医です。コミュ症科医は患者の治療のためありとあらゆる手段を使います」


「あのさ、今日とか昨日とか、それ使えばもっと楽に済んだよね。なんでもっと早く言ってくれなかったの」


「? 覧が張り切っていたので」


 覧は目の前のほっぺたを思いっきりつまんで伸ばした。


「いふぁいいふぁいいふぁい。だって覧が張り切ってるのにくちふぁせふぁいふぁふぁいふぇふか」


 一通り遊んだら解放してやった。

 ばっとランは距離を離して、自分のほっぺたをむにむにし、調子を整える。


「ともかく、覧が頑張ってくれたお蔭で、『執拗なストーカーを一旦振り切ったあと』という感じのはずです。誰かとの約束事があるのなら、安心して現場に向かうでしょう。無論、警戒に警戒を重ねるなら、私だったら仕切り直しにしますが、そこは現実と理想のトレードオフ……GPSは、明らかに、彼女の家ではありえない、繁華街の中を指し示しています」


「まあ役に立ったんならいいや……」


 こちらがへばっているのにも関わらず、ランは歩き出そうとした。


「なあ、せめて水飲ませて?」


 鞄から取り出されたスポーツ飲料が顔面に飛んでくる。飲む。おいしい。


 ランは、しばらくしたあと、周りを見ながら呟いた。


「しかし、この都市はとても綺麗に見えますね。面白いものがたくさんあって、きらきらと光って見える。人も温かい。私は一度治療のために田舎に行ったことがあったんですが、とても冷たい場所でした。人の裏表は激しく、悪意と複雑な情意が渦巻いている。……まあコミュ症患者を生み出すような土地柄の場所にわざわざ行ったからかもしれませんが。都会は温かい、底抜けに。空もとてもきれいだ」


「普通逆だろう」


「私も普通です」



「……望月が消えたのって、本当にこっち方面?」


 街の、特定の通りを深く潜るように歩く。歩けば歩くほど辺りには、マッサージ屋さん(意味深)の看板や、ピンク色で無駄に豪華な外見のホテルが増えていく。


「女子高生がこっちに消えたのって、ただそれだけで何かヤバそうな感じがするけどな」


 正直、情けないことを言うが、夜にこの辺りで歩くのは怖い。ガラの悪い人間に絡まれる可能性がある。

 あいつらはカップルには絡んでいかないが、わりと貧弱な高校生と、女子小学生の二人を、手を出してはいけない資源と捉えるか、興味深い標的と捉えるかは気分次第だろう。いちおう私服で来ているのが唯一の救いか。


「私もそう思います。ですが既に起きたことは、目をそらそうが、背中を向けようが、激昂して殴りかかろうが、眼前に存在し続ける。逃げても、逃げても、逃げても、逃げても、私達を追ってくる。治すしかない。戦って、治すしか、無い」


 こんなところに一人で消えた望月遥香。週に数回以上、こんなところで何をしているのか? 彼女の現在位置はどこにあるのか。


「目的地周辺です。入りましょう」


 その「目的地」を見て、覧は流石に一瞬硬直した。


「入りましょうってお前な」


 目的地の名前は、「ホテル・エクストラムーン」。

 ラブホテルに、恋愛成就もクソもない。

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