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月の狐は遠く遥か2-5

 小声で囁きあう。


 二人は、店の裏の更衣室兼ロッカー室に忍び込み、望月遥香のロッカーを探していた。


「手早く行きますよ」


 言葉通り、ランの手際は見事だった。まず、ロッカーのネームタグに名前をつけている店員とつけていない店員が混在しているが、その中にあって一撃で正確に望月のロッカーを探り当てる。


「多分ここだと思います」


「多分ってなに。いやまあなんとなくわかるけど」


 ランが耳をロッカーに当てて、手さぐりでダイヤル式の施錠を何度かくるくる回すと、扉は簡単に開いた。中に入っているのは、藤堂達の通っている学校の制服だ。


 彼女の言う通り、ここが望月のロッカーらしい。


 名無しのロッカーのうち半分のロッカーには名前のシールが貼ってあった。そして残った二つのロッカーは、綺麗なものが一つ、汚いものが一つ。

 望月が綺麗なものを好むというのはなんとなくわかる気がした。教室の掃除とかきっちりやっているし。


「今更だが、凄い犯罪感出てきたな。捕まったらただで済まんぞ」


「コミュ症を治すほうが大事です」


「流石に悪い気がしてきた。大体、監視カメラとかは大丈夫なの」


「カメラは一つ見つけてしっかり対応しました」


「対応って何?」


 ロッカーの中には、制服のほか、鞄が二つ入っていた。片方は望月が使っているスクールバッグだ。ぴかぴか光りすぎない革。もう一つは、


「……リュックサック? でかい。圧倒的にでかいです」


「山登りが趣味なのかな?」


「手触りはごつごつしてますね。……開けますよ」


 声をかけてからリュックを開けようとするラン。

 純粋に考えれば、この中に、この喫茶店の後の用事に必要なものが入っているのだろう。素性に大きく迫る機会だ。


 しかし、びくりと反応し、ランは手を止めた。


「足音だ」声の調子を極限まで落とす。


「マジ?」


「望月遥香のものです」


「なんでわかるの」


 覧には一切音は聞こえなかった。


 そこからのランは早かった。数度望月の荷物をがさごそやった後、ロッカーを閉め、全て元通りにした。「こっちです、覧」「マジかよ」ランに促されたのは、空きロッカーの一つ。そこそこ広めで、入っても入りきるとは思うが、進んで入りたいとはとても思わない。だが、リターンとデメリットを考えれば仕方がない。従って、その中に入る。


「って待て」


 覧は頭を高速回転させた。このロッカー、網状の通気穴の目が粗すぎる。普通に入ったら外から顔が見えてしまう。

 仕方なく、膝からロッカーに入り、足を折りたたんで膝で立つことにした。


 流石に無理がある態勢で、膝とかが痛い……。


(だいじょうぶです?)


 足を折りたたむと、ランと大体同じくらいの身長になるらしい。目と目で見つめあったまま、両手を覧の頭の後ろに突き出す格好になっているランは、こちらの首筋に文字を書く。

 ある程度くすぐったいが、我慢できないレベルではない。読み取れない文字もあるが、脳内で補完する。


(だいじょうぶだ)


 覧も、相手の背中に文字を書いて意思疎通する。

 全然大丈夫ではないのだが、大丈夫と言っておくほうがよいだろう。

 幼い子供に心配そうな顔をされると、強がりを言いたくなるものだと知った。


(きます)


 背中の感触を解読し、息を潜める。誰かが来るだけなら、望月遥香とは言い切れないなとぼんやり思う。だが、こつっこつっと特徴的な靴音がして、その上深く長い呼吸が独特の息遣いで、ここでようやく「これは望月遥香だ」と、覧にもわかった。


 最小限の呼吸を、震えながらする。すると、ランはびくびく身じろぎした。


「ぁっ……」(みみ、いき、かけないで)


(すまん)


 相手の心臓のドキドキが伝わってくる。

 体温はやけに高い。

 髪の毛からはシャンプーの匂いがする。


 人によっては思いっきりかぎたくなるのかもしれないが、覧にとってはここまで密着すると匂いがきつすぎてあまり嬉しくない……ような、良い匂いのような。


 体からは匂いはない。ほんの少しだけ人間の体臭がするだけだ。


(ひとのにおいをかぐな、なぐりますよ)


(すまん)


 バカなやりとりをしつつ、じっと待つ。


 しばらくすると、部屋の中を一周りしたらしき足音は、諦めて部屋から出ていった。


「もういいんじゃないか」


(しずかに。います。すこしはなれたばしょ)


(ほんとに?)


(なめないでください、けんじゃのびんかんなかんかくを)


 ランの感覚が正しかったらしい。すぐに望月は戻ってきた。


(ふぇいんとだったっぽいな)


 一度引っ掛けを行ってからは正攻法を試すつもりらしく、様々な隠し場所を確認しているらしい物音のあと、一つずつロッカーが開けられていく。

 がちゃ、かちゃ、かちゃ、がちゃ、かちゃ、かちゃ、かちゃ、かちゃ。

 鍵がかかっているロッカーが開かない音と、開ける音と閉める音とが、室内に響く。その音以外は、ランの呼吸音しか聞こえない。あとは、触れ合う肌から、心臓の鼓動の感触がするくらいか。


 ふと思ってしまった。覧の体は、ちょうど手がランの脇腹部分にある体勢だ。急に、くすぐってみたくて、くすぐってみたくて、たまらなくなった。


 ダメだ。我慢できない。くすぐったらどうなるんだろう?


 だが、我慢しなければ……。


 我慢できなかった。


「っっっ! ~~~~~~ッ!!」


 ランの脇腹はとても柔らかく可愛らしい感触がする。もにゅもにゅと揉むようにひっかくたびに、びくんびくんとランの体が跳ねる。まるで動物実験でカエルの筋肉に電撃を通したみたいだ。すごく興奮した。無論、性欲的な意味ではなく、征服欲的な意味だ。欲望が強烈に惹起され、直後に充足されていく。自分の手の中でびくんびくん跳ねる女子小学生は犯罪的に可愛い。脳がズキズキ言って、失神しそうになった。


 が、ランが耳たぶを噛むと、その感情は一瞬で霧散した。


「っッッッ!!」


 いっってえええええ。クソ痛い。千切れるかと思う痛みを、根性で我慢する。

 この野郎、と思った。

 なんてことしやがる、二人で隠れている状況だっていうことを理解しているんだろうか。

 信じられない。


(おこりますよ)


(それはおれのせりふだ)


(は? あとでおせっきょう)


 ぷんすこ怒りながら、器用に爆速で文字をなぞるランを見て、器用な怒り方をするなと思った。


 目の前で、望月の足音が止まった。


(なかみられたらおわるな)


(だいじょぶです、くらいから。それに。わたしもただじゃおわらない)


 覧の限られた聴覚の中で、望月がふっと笑った、ような気がした。


 ぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅ。覧は一瞬何か漏らしたかと思ったが、違う。


(はちみつですかw)


 ハチミツの容器の口が、ロッカーの網状の窓から、ねじ込まれている。目が合った。覗き込む望月遥香はにっこり微笑んでいる。一分かけて、中くらいの容器一本ぶんのハチミツがぶちまけられた。


(うっそだろおまえ)


 びーーーー! そして、何かを引き出すような、あるいは引き裂くような音がした。覧にはその音が何かはっきりわかった。ガムテープだ。ロッカーの中に閉じこもった相手に、ガムテープを持ち出す。何をする気? 決まっている。監禁に比べれば、ハチミツをぶっかける嫌がらせなど可愛いものだ。


(やべえくね?)


 体をなぞって文字を書くたびに、くすぐったいらしくランは身を捩ったが、そんなことを言っている場合ではない。


(やべえって。とっぱ?)


(だめです。このながれでは)


 それはどういう意味でなのか、わからなかったが、覧はその言葉に従う。


 そうやって、ハチミツ臭とガムテープのぺたぺた音の中、永遠にも感じられる五秒程度をやりすごすと、外から声がした。


「むぎー! 何サボってるのー!?」


「……ごめんなさい。急にくらくら目眩がしてしまって」


 バイト仲間か先輩が、望月を呼びに来たようだ。むぎというのは壁のパネルによれば望月のメイドさんコードネーム♪だそうだ。「まじか。休む? いけそう?」「大丈夫、です」ロッカーを見られないようにするためか、望月は一旦ついていく。二つの足音が、遠ざかっていく。


(いま)


「わかってる」


 ロッカーの扉を斜め気味に開けて、十枚程度枚貼られた布のガムテープを、端から破ることで無力化する。覧とランはなんとかハチミツ臭い空間から脱出できた。


 覧はかなりのレベルまで封印が進んでいたロッカーを見て、それなりに恐ろしい気分になった。はっきりわかる。さっきの望月は、「大丈夫だ」と判断したためにこの場所からいなくなったんだと。


「うええ、べとべとです」


「とんでもねえ目にあったな」


「全くです……脱出を急ぎましょう」



 二人はネットカフェでシャワーを浴びてハチミツを流してから、もう一度喫茶店に戻ってきた。服も新しいものを買った。手早く着替えるために、大きめのファストファッションの服屋で、適当なものを引っ掴んだ。


 微妙に乾ききってない髪の毛に、変な癖がつかないように整えながら、覧はコスプレ喫茶店の看板をもう一度見た。


「まさかあの後戻ることになるとは思わんかった」


「治療のためならなんでもやります。……あと、さっきの。次やったら本当に怒りますからね」


「さっきのって、くすぐりのこと?」


「当たり前です! 死ぬかと思ったんですから! 凄い頑張って音立てないように体よじったんですから!!」


「こわいこわい、どならないで」


「私は嫌なことをやられたら普通に縁を切ります。またやるなら、覧を治療しませんよ」


「それは嫌だな。わかった。もうやめるよ。ごめんな、ラン。でも、ランが可愛くて、くすぐったらどうなるんだろうって思ってしまったんだ」


「そうですか。まあいいですどうでも」


 怒られて、反省した。これからはランが我慢できるギリギリのラインにしておこうと思った。


「さて、ではこれを付けて下さい」


「?」


 何だろうと思って見ると、差し出されたのは骨伝導イヤホンだった。


「なんですか、その顔は。時計を見て下さい。そろそろちょうど、」


 かつ、かつ、という高い足音が響いた。


「望月遥香のアルバイトが終わる時間です」



 ランは、マイクとイヤホン越しに相対しただけで、空気が凍るような感覚を覚えた。


 これはプレッシャー、なのだろうか。


「私が怯えている? コミュ障患者相手に? 馬鹿な」



「お前らは、なんだ?」


 現れた望月遥香は、暗闇の中、赤い瞳でこちらを睨んでいる。ボス敵か何かみたいだ。緊張感などハナからない頭でそう思う。


「数日前から私を尾けていたな? 最初の方は上手かったが、後になって下手になった。手を抜いたか? もうバレているのだからいいと? 私がタダで済ませると思ったのか?」


 覧はしばらく沈黙した。どうしたのだろう。ランからの通信がない。


「答えろ……答えろ」


 ややあってから、ようやくランの言葉が聞こえた。


『貴方に警告がある』「君に警告がある」


「警告?」


 望月は疑うように片目を細めた。


「警告とは何だ」


『貴方の身に危機が迫っている。このままだと後悔することになる』「君の身に危機が迫ってる。このままだと」


「嘘だな」


 望月は遮り、覧の耳を指で指した。



「そのイヤホン、さっきから音が漏れている。誰の指示を受け取っている?」



「それってマジ?」覧は耳に手を当てた。骨伝導イヤホンなのだから、ありえるはずがないのだが、その思い込みはおかしかったのだろうか? 思えばこのイヤホンを他人がつけて他人が音楽を聞いている場面を体験したわけではないし、音漏れだってしてるかもしれない。その場合ちょっと恥ずかしい(笑)


『だめこら、ハッタリです! その銘柄は極小のノイズしか漏れません。一度説明したじゃないですか』


 やられた、そう思った時にはもう遅かった。


「……失敗したな」


 多少不自然な点を見せたとはいえ、大した洞察力だ。


 緊張感が足りなかったのかもしれないなとも思うが。


『チッ。――いかにも。おれはメッセンジャーだ。今の言葉を伝えに来た』「いかにも、俺はメッセンジャーだ。今の言葉を伝えに来た」


「目的を言うつもりはなしか?」


『目的はお前を保護することだ。お前の身を守りたい。俺のボスの意向でもある』誰がボスだ。「目的はお前を保護することだ。君の身を守りたい。このイヤホンの中の人の意向でもある」


「なぜ?」


『勝手な好意で悪いとは思うが、俺がお前のことを好きだからだ』は?「勝手な好意で悪いとは思うが、俺が君のことを好きだからだ」


 望月遥香は深く呼吸した。溜息とは少し違う。深く呼吸することが彼女の癖のようだ。


「声に伝えろ」


「何て?」


「死ね」

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