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月の狐は遠く遥か2-4

 意味がわからない。何故金髪のヤンキーがランを殴ったのか、ランはいったい何を考えて大切な方とやらの話を始めたのか。意味がわからないが、考えるより先に、覧はその背後から気付かれないように近づいて、学生鞄で思いっきり金髪の後頭部をぶん殴った。喧嘩慣れはしていそうだが熟練の猛者というわけではないようで、知覚できない後頭部への重打撃によって、「がぉッ」金髪ヤンキーが寝た。


 坊主頭と覧はしばらく見つめ合った。いきなり現れた覧に、三十秒くらい沈黙してから、坊主頭はなんとなく空気を感じ取ったようだ。


「なんか悪い兄ちゃん。今回はこっちが悪いわ。こいつ、たしかに喧嘩っ早いけど、普段はこんな奴じゃねーんだけど。お嬢さん平気そう?」


「……平気なわけねーだろ。あのな、どんだけわけわからんこというムカつくガキだろうと、どんだけ倫理を捨てていようと、小学生の女の子殴っていいって道理があると思うか?」


「だよな、俺もそう思う。逃げるけど、俺のぶんまでその子に謝っといて」


「いや待てや。謝って済む問題じゃねえだろ。おまわり……は使えないけど。路上で喧嘩とかしたことないけど。少なくとも……ただで済ますわけにはいかねえって」


「もうただで済んでないからさ兄ちゃん。後頭部って場合によっちゃ半身不随だから」


「じゃあ次は全身不随だな。お前も一緒だ」


「ぷっ、ソレは勘弁」


「待っれくらさい」


 鼻血をだらだら垂らしながら、ランは立ってよろよろと歩いた。


「なおはらいと、だめです。あと、その患者はわうくないです。悪いのは病気です。私がなおひます。全てなおひます。すべてのコミュ症を、私が治ひます。私にちりょうを、任せて下さい。きっと全部、良くしてみせます。ここまで露骨に病気が見えるということは、絶対に何かが起こります。放置しないで下さい。その人のためにも、放置されてはなりません。患者を前に、市民には通報の義務が――」


 ランの言葉をシカトして、坊主頭は金髪をおぶって走って逃げた。

 めっちゃ足が速い。

 それをランは呆然と見送る。夏休みの最終日、手付かずの宿題の問題集に足が生えて逃げ出したような表情。そのランを見て、覧こそ呆然とした表情になった。


「うーん逃げはえました。流石に追えまえん。大丈夫なんでしょうか……」


「ラン」


「しかし、私はまた間違えてしまったようだ」ぐじぐじと鼻血を拭く。手元からティッシュを取り出して、鼻をかんだ。「これまでも何度かこういうことがあって、そのたびごとに失敗して、今度は少し強めに言ってみたんですが、……一体どうすればよかったんでしょう。ねえ、覧、どう思いますか? さっきの場面を客観的に見た貴方なら、少しわかることもあるはずだ。ドラマや映画ではこういう時のサンプルがないんです」鼻をかんでも、だくだくと鼻血が流れてるのは変わらない。


「お前頭おかしいよ」


「彼は、治さないと……きっと、誰かが悲しい思いをすることに……」


「聞けって。てか、治療とかしたいんならまずは仲良くなってからにしたら」


「コミュ症科医は患者との個人的親交を持つことは推奨されていません。たった一つの例外を除きますが。それは治療者と患者という関係以外を生み出し、悲劇や喜劇を生み出すからです。覧は患者にストーキングされた経験はありますか? 玄関のドアを開けたら、患者が歪んだ笑顔を浮かべていた経験は」


「ストーキングとか(こわ)……そんなことするやつがいるのか。やっぱりコミュ症患者だな」


 ランがぷっ、とツバを吐くと、からころと道路に小さな歯が転がった。歯を吐き出す小学生という絵面にまたちょっと引いた。


「あ、心配いりません。これ乳歯です。地面に叩きつけられた衝撃で折れただけなので。えー、では、……望月遥香の追跡に戻りましょう」


「お前な」


 しばらく考えた。すると、割とどうでも良くなってきた。作文にすると、「仕事をこなそうとして、しくじって、ケガをしただけ」だ。


「……まあいいか。ランがそうしたいのなら、俺には関係ないから」


 ただ、今日はとりあえず仕切り直しということにさせた。



 翌日、また二人はストーキングを始めた。


「もう平気か?」


「平気じゃないです。見て下さい」うにっとほっぺたに指を突っ込んで、自分の歯を見せる。「犬歯が抜けてしまいました。なんだか間抜けで困ります。あと、生え痕がぷにぷにしてむずがゆいです」


「あんまり弄らないでおけよ」


「まあ手では弄らないです」


 ランは唾液の残る自分の指をハンカチでふきふきした。


「できれば、今日でケリをつけたいところですが……」



 試みを繰り返すも、やはり、どうしても尾行には困難が伴った。


 細い路地に入り込み、急に走り出し、唐突に後ろを見て、挙動不審の挙動だが、実際に尾行してるこちらとしては文句も言えない。警戒されている。


 何個目かの曲がり角で、何か疲れが出てきてしまっていたのか、二人は無遠慮に足を踏み出してしまう。


 超能力者か? ちょうどその気の緩みを見計らって、望月は再び素早く振り返った。ぶわっと広がる黒髪が宵闇に紛れ溶け込む。夜道で怪物に会ったらこんな感じの戦慄を覚えるのだろうか。全身の毛が逆立つような感覚を抑えながら、小声で息を漏らし、ランを抱いて身を隠した。


「ッ!!! ……はっ、はっ……」


 やがて、望月は再び歩き出した。その音が、壁越しに聞こえた。


「っはは」


「もがもが」


 覧は笑った。繁華街の一応真ん中で、ランの体を全身で抱きしめ、口を手で押さえながら。


「危ねーなーオイ……見つかるところだった…………ハァ……ハァ……へへ……ハァ、ハァ……流石の俺も少しびっくりした。なぁ、ラン?」


「何にかな?」


「へあ?」


 覧の肩を、通りすがりの警察官ががっしり掴んだ。



「すいません。はい。すいません。ただ本当に誤解で。はい。すいません。確かに言い訳のしようもないです。はい。じゃあ俺はこれで……え。まだだめですか。はいすいません。はい」



「お巡りって本当にうぜえなあ。検察官も含めて全員死なないかな」


 交番での説教は深夜まで及んだ。奇しくも金髪ヤンキーに教えて頂いた交番だった。少女を連れて歩く怪しい変態がいるという通報があったらしい。


 頑なに自分の連絡先を言わないよう頑張ったので、ひたすら長引いた……。


 こっちにはやることがあるというのに。


「ああいう時は自分から帰してほしいって言わないほうが早くすみますよ」


「そうなんだ。でも帰せって言わないとわからなくない?」


 ランが解放しろ解放しろとしつこくいうので解放されたようなもので、こちらは悪くなく、勝手に勘違いしておいて、連絡先を伝えろ、身元引受人を呼べ、とか頭おかしいんじゃないだろうか?


「あの警察官名前覚えたからな。警察手帳見せることすら渋りやがって。法律勉強しろよ。とりあえず匿名で通報してやる。声紋取られないようにボイスチェンジャー使わないと……ったく、俺の何が悪いっていうんだ?」


「私も一報入れておきます。警察には何度もお世話になっているので、覧ほど理不尽に感じてはいませんが、人をロリ扱いしやがって、そこは本当に業腹ですよ。私達はただ望月遥香を尾けていただけで、何も悪いことなどしていな、……あれ……?」


 ランは重大事実に気づいたように固まったが、覧が同じ気付きを得ることはなかった。


「どちらにせよ、今日もダメだったわけだ」


 スマホの時計は既に十二時をまわっている。タクシーで帰るつもりでいるが、終電に間に合うのならダッシュで帰りたい。


「悪かった。ラン、償いなら俺のできる範囲でするよ」


「別に要りませんよ。患者は先生に迷惑をかけるのが仕事です。ではまた来週」


 そう言うと、一人でランは街に消えた。しばらく硬直してから、それを追う。


「待て待て。なんでナチュラルに一人になってんだよ」


 金髪男の台詞じゃないが、夜中に子供一人でぶらぶらするなんてありえないだろう。スマホを使って(馬鹿かお前? 何一人になってるんだ)と打とうとした。


 が、ちょうどその画面に、(タクシーに乗りました:))というメッセージが届いたため、覧もさっさと帰宅することにした。タッチの差で、家まで帰れる電車はなくなっていたので、途中駅まで向かう電車に乗って(つまり、覧の自宅の最寄りより前の駅が終点)、そこからは歩いた。



 週明けの月曜、二人はこの日もコスプレ喫茶に向かった。ランはスマホを何やら弄っている。覧は別のテーブルの別の客をぼんやり見ていた。


「大好きですよ、ご主人様」


 望月とは違う別の茶髪のウェイトレスが、耳元で囁いてから、細い口の容器に入ったハチミツで、パンケーキに絵を書いていく。前半の囁き声はウェイトレスによって違うらしく、観察している限り、望月はただ単に「お疲れ様です」と言うだけだった。


「なあ、今さらだけどさ、」


「なんですか?」


「これって性風俗じゃね?」


 ランは沈黙した。


「性風俗……性的サービスを提供するお店ですか。私はコミュ症科医で、……その筋の人もたくさん診ます。言いたいことはわかりますが、あまり……言っていいこととは思えませんが」


「ちなみに性的サービスって何をするかは知ってる?」


「ちょっと! セクハラですよ。キスですよね。それくらい知ってます」


「わかる。わかる~~~~~~~~。わかる」


「は?」


「5、7、5」


「?」


 スマホ弄りが一段落したらしく、ランは持っている端末を仕舞った。


「覧の指摘はもっともだ。自我の成熟した健康な人間なら、この冗談みたいな空間も健常なやり取りとしてやっていけるのかもしれませんが、コミュ症が、ここで働いて、精神にダメージがないというのは考えづらい」


「ごめん全然そんなつもりなかった」


「今日はちょっと思いきった手を打ちます。私達のスペックでは足りず、回り道を迫られる。だがちんたらやっている時間はない。終わらせますよ今日で。少なくとも、彼女の本性に関しては」



「で、することはこれか」


「しっ、静かに!」

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