月の狐は遠く遥か2-1
ランが、ばさっとレポートの紙束を机に放り投げる。
「とりあえず、興信所に依頼して素行調査してきました」
「犯罪だぞ」
望月みちるへの、二人だけの宣戦布告から三日経った。午前十時、いつもの喫茶店で、二人ともコーヒーを頼んだ。相変わらずゲロ甘そうな味付けで、ランは楽しそうにコーヒーを飲む。
チェーン店だが高級めな種類の店なので、店内ではピアノ系のジャズが流れていて落ち着いた雰囲気だ。
「いや合法です」
紙束に目を通す。レポートには三日分の望月遥香の放課後の行動が記載されている。
「ちゃんと学校の中は探したのか?」
「まあ。結果としては、興信所に依頼しておいて正解だったとだけ」
「なるほど、学校には、望月が好きな人はいなかったわけだ」
少し考えてから、聞いてみた。
「ちなみに、最終的に好きな人がいない場合ってどうするんだ? 俺みたいに自分から能動的に動く患者ならいいけどさ、今回はそうじゃない。ランの治療法じゃ、通り魔的な治療はできないだろう」
「治療が不可能ということはありません。私はコミュ症科医です。ありとあらゆるコミュ症を治す、私はそのために生まれてきた。ただ、……覧には少し負担をかけますが、大丈夫ですか?」
「別にいいけどな。特にやることもねえし」
「良かった。がんばりましょう」
ランが手を握ってきたので、ふにふにと握り返した。
※
作戦会議だ。
興信所の調査によれば、この三日中三日、望月は喫茶店でアルバイトをしている。
「アルバイト……非正規雇用ですか。しかし、それは校則違反という現象なのでは?」
「校則違反? いや、うちの学校はバイト自由だから」
ランは結構大げさに驚いた。
「そんなのあるんですか……凄い、何から何まで私の知っている常識と違う」
そして、その三日のうち、二日、アルバイトの終了後、望月は繁華街の闇に消えた。
「……やる気ねえ調査員だな。それでどこに消えたかを報告するのが仕事だろう。何十万円払ってると思ってるんだ? 俺の金じゃないけど」
「それについては、口頭でクレームを入れましたところ、なんでも純粋に撒かれたそうです」
「は? ……プロだろ? プロが素人に撒かれるの?」
「彼らは警戒のない素人を尾行するのに慣れているだけで、警戒している相手を確実に追跡するプロではありません。そんな特殊能力持ちはもう、政府の特殊部隊とかに行くべきです。それに、私は彼らに三日しか与えていないですから、慎重に動いて、その上で三日で完全追跡しろっていうのは酷です。浮気調査とかは普通一ヶ月単位の仕事ですよ」
「いや言い訳にならんだろそれは。というか意味がわからん。警戒? なんで?」
「単純に何かの偶然で尾行に気づいたか、よほど追いかけられたくない場所に行くのか、あるいは常日頃から背後に警戒しているタイプだと言ってました」
「あ? ……ああ……コミュ症の症状?」
「ええ、おそらく、コミュ症が彼女に極限の警戒を強いています」
ランは一つだけ残したパフェのさくらんぼをガリッと噛んでから、種を紙ナプキンに吐き出した。
「ここからは、私達でやりましょう」
「なんで今種噛んだの?」
「歯が痒いんです。ぐらぐらしてて」
※
二人は作戦会議が終わり次第、解散した。十時半頃だったはずだ。
今は十六時。
夕焼けというには早すぎるが、空の色は朝とは全く違う。集合し直して、二人で、校舎から出ていく望月遥香を望遠カメラでモニタリングしている。
「あの後、結局学校には行きましたか?」
「行った。俺って真面目だなって思うよ」
「そうですか」遅刻を一切度外視している覧の表情を見て、ランは悲しそうな顔を一瞬作った。「良いとも悪いとも言えませんね。覧の病理は一度学校に行った行かないで変わるものではない。休んだり、遅刻したりして、そのことに一切罪悪感がないのが問題なんです」
「そうなんだ。でもさ、学校なんてどうでも良くね? 何がどうなろうと知ったことじゃない。ましてや、唐突にサボったことで、周りからの評価がどうこうなるのは心配するだけムダだ。だって、学校で得られる評価が人生に対して影響を及ぼすことは、無い」
「覧は無敵の人ですねえ。学校なんて行くだけムダ、なのは事実ですからなんとも言えませんが、行くだけムダだと切り捨ててしまえる精神構造はコミュ症なんです。治さないと……きっといつか困ってしまいます」
「だからこうしてランに付き合ってる」
「ま、そうですね。そういうことです」
どうでもいい話はどうでもいいけど、と覧は話題は切り替えた。
「直接追わなくて大丈夫なのか?」
「プロの調査員の尾行を撒く人間を、わざわざ直接追う機会は減らしたほうがいいです」
「ふーん」
「次に向かうところは決まってるんですから、これでいいんですよ」
「確かにな」
「アルバイト先は、前も言いましたが、喫茶店です」
「そうなんだ」
「先回りしましょう」
「わかった」
「……あの、もうちょっと自分の感じたこととかを言ってもらっても大丈夫ですよ」
「自分の感じたことって何?」
※
向かう先は学校から歩いて三十分ほどかかるらしい。念のため駅のトイレで私服に着替えてからランに合流し、歩きながら続きの会話をする。
「学校、嫌いですか?」
「別に? なんで?」
「……まあそうですよね。好きとか嫌いとかじゃなくて、そもそもそういう好き嫌いが存在しなくなる病理なわけで」
「人を勝手に分析して好き放題言うなよ。一応学校の中なら好きなものと嫌いなものくらいあるぞ」
「興味深いですね。それは是非お聞きしたいです」
「勉強はまあまあ面白いんだが、人とのコミュニケーションが面倒くさい。ダルい」
ランは一度それを聞いてから、慎重に言葉を絞り出した。
「コミュニケーションが面倒くさいのは仕方ないことです」
「なんで。スムーズにすりゃいい。ファックスよりメール。メールよりチャットアプリ。あ、礼儀がどうたらとかありがたいお話はいらないからな」
「それは簡単です。私が考えるに理由は二つ。まず顕示的消費説」
「あ、その話長い?」
「ウェブレンは論文『有閑階級の理論』内で人間は顕示的に消費を行うと論じました。消費とは金銭だけでなく労力も含みます。全ての生物は、有意義すぎず無意義すぎないことを高度化させることで、自分の有能さを示すのです」「長い」「コミュニケーションは人が猿である頃より続けられてきましたしかし狩りに直接関係するものではありません。これはまさに有意義すぎず無意義すぎない行為であり、間違いなく高度化していくものと考えられます。たとえば文章を書く時同じ語尾を繰り返したら小学生の作文と揶揄される」「ねえ長い、長いって」「ように。第二に、戦略説です。生まれつきコミュニケーション力以外が低い人間がある時気づきました。俺はこのままでは群れの中で生き残れない、と。そしてどうするか。コミュニケーションに高度なルールを作り、それに適応できない人間を締め出すようにしたのです。そうすればコミュニケーション力は低いが他が有能で、通常殺し合ったら敗北する相手を強制的に制圧できます」「そうなんだすごい」「ただこれは悪いばかりではなく、全体的に無能だがコミュニケーション力だけはなんとかある人間が生き残れる尺度ができたという考え方もできます。前述したとおりコミュニケーションは群れの維持に必須であり、」
覧は口をふさいで無理やり話を止めた。
「ごめん、マジごめん。俺ダメだ。学者星から来た学者星人と同じ空気を吸ったら死ぬみたいだ」
「平たくいいます。集団内でのコミュニケーションとは法律と同じです。能力がある人間がルールを作って、その中で美味い汁を吸ったりカッコつけたりしてるんです。だからこちらも有用に使ってやればいいだけです。
また、美味い汁を吸うばかりで弱体化した雑魚は群れから引きずり出せば殺せます」
「そうなんだ。少しわかりやすくなった」
「それはなにより」
これ以上眠い話をされては困るので、話題を変える。
「何度も繰り返すみたいだけどさ、校舎の破壊ってあれって本当に冗談で済んでたのか? こっちで用意したものをこっちで破壊しただけってくらいは伝えたほうが良かったんじゃないか。信用されたかどうかは知らないけどさ、この後裁判とかになった時いろいろ変わりそうだ」
「……気付きませんでしたか」
ランは時速四キロメートルで後ろに向かって動く地面を見ながら語った。
「望月みちるも強度の高いコミュ症です。中身までは掴めませんでしたが。望月遥香も含めて、ノイズがかかっているみたいに読みきれません。おそらく、何かあるんです。彼女が、校舎の破壊『なんか』よりも、私を優先して排除しなければならなかった理由が。私はそれを読み取らなければならない。誰であろうと、私の前では治療の対象に過ぎない」
「気付きませんでしたかって気付くわけねえだろ」
そして、思い当たることもなにもない。学校の物理的な破壊よりさらに、ランがコミュ症を治療してまわることを恐れた……? ありえない。
「あるとしたら、やっぱ補助金か? ほら、今回向こうに金額的な損出てないぶん余計。校内のコミュ症が多いほどたくさんお金がもらえる制度を悪用……でもそもそもスクールカウンセラーを置かずにアングラな感じでやってるみたいな感じなのに、そんな公的な制度を使えるのか……?」
助成金詐欺。受給要件をわざと満たすか、あるいは満たしているように見せかけることで、政府から助成金を大量に受け取る方法。ただし覧の高校がこれを甘受しているとするには、冷静に箇条書きをしていくと不自然になる。
補助金の線がないとすれば難しい。別に他の学校からどれだけコミュ症を引き受けるのは勝手だが、治そうとする努力も当然したほうが良いに決まっている。普通に考えれば、コミュニケーション症候群の患者はトラブルメーカー。なんなら、コミュ症科医を三十人くらい置いたって、不祥事のリスクを考えれば安いくらいだ。
「あの場では邪険にしてしまってすみませんでした、そこまで一緒に考えてくれると思わなくて」
治療しないままでコミュ症患者を引き受けることそれ自体が、周囲の教育関係者や地方自治体が望月みちるに対して便宜を図る条件だった? 一体何のために? 地域にとっても、生徒達が健康であるに越したことはないのだから。
「大丈夫。その辺こちらで解決しておきます。……さ、着きますよ」




