心中描写:キツネツキ(コミュ症)
私は優れている!!!!!!!!!!!!!!!!
私は優れている。
他のすべての存在は私が搾取するための果実に過ぎない、
私が施しを与え私が奪い私が犯す。
それがなぜかといえば私が優れているからであり、私は優れているから私が優れているそれ以上前の論理は存在しない。教室を見るたびに思う、こいつらは私より劣っており管理しなければならないと。管理されることこそ私より明確に劣った彼らにとっての喜びだ!
なぜ劣っている存在は管理されなければならないのか。
それは世界を変更しないためだ。
世界は常により悪い方向へ向かうようになっている。本来、人類は基本的にハッピーエンドを望む。古来より人類は何度も危機に瀕し、その度にその危機に対して勝ってきた。その危機の際、ハッピーエンドを望まない人間がいたとしたら、人類は自ずからアポトーシスで燻される細胞のように滅亡されていただろう。だが、そうはなっておらず人はハッピーエンドを望む。そうやって人類種はこれまでの悠久の時を自然界の中で勝ち残ってきたのだ。
だが、世界は悪くなるばかりだ……。
悲しい……とても悲しい……。
人間の全員がハッピーエンドを望んでいるのに、現実の世界はハッピーエンドばかりではない。それは、世界とははじめから悪くなる方向に向かって流れ落ち続ける滝のようなものだからだ。滝の中にいれば心が歪むこともあるだろう。あるいは自ら滝の下に落ちたいと思うものもいるかもしれない。そいつらは殺してしまったほうがいいかもしれない。だが、実際のところは彼らも最初からそうだったわけではないはずだ。
世界は常に我々を侵略し続けている。常により悪くなる方向性に向かい続けている。
だが私は私に対する侵略を許さない。
許すべきではない。
許してはならない。
私は現実と戦う。戦わなくてはならない。私を侵略させてはならない。私は私でなければならない。他の誰でもあってはならない。「私は誰だ?」……迷ってはならない!!!!
現実が私を侵略することはあってはならない。他人が私を侵略することはあってはならない。何もされなければ侵略されてしまうが避けなければならない。行動を起こさなくてはならない。言うなら時空間に対する抵抗活動をしなくてはならない。それは運動能力を示すことでなければならない。それは知能を示すことでなければならない。そしてそれは未だ見ぬさらなる能力でなければならない。能力を示し、他者を管理する資格を見せなければならない。そして、法律を守らなければならない。倫理を守らなければならない。人に迷惑をかけてはならない。人に迷惑をかけるとは、私が迷惑をかけられるということを許容することだということを理解しなければならない。そして実践しなければならない。自分が自分であるという思い違いは社会の退廃を導く。
なぜなら、人はハッピーエンドを望むからだ。
つまり、悲劇を望む人間を間引き、教養小説を望む人間のみを残し、彼らを鍛えることでようやく、世界は変更されずに済む。これは私の戦いである。優れた私の戦いである。
ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。号令をかける。
「起立、礼」
私は椅子に座った。座った瞬間から世界は変わらない。私が優れ続ければ、世界は永遠に変わらない。
自分が失われない。私は今日も、望月遥香だ。




