プロローグ 心中描写:ソシオパス(コミュ症) と たどり着いた灯り1-1
じーーーーーーーーーー。
奇妙な状況に、俺は困惑した。
まず、ここは満員電車だ。そして、妊婦を見ている。その妊婦というのは、いま俺が席を譲った相手。なぜ見ているかというと、礼も言わずに俺が譲った座席に座ったからだ。確かに俺は席を譲ったとき、無言だった。無言で譲った相手に礼をするのは難しい面もあるだろう。でも会釈くらいほしいんだけど。
……まあ、そこはいい。でも、もう一つ特筆事項があって、だから奇妙な状況になってる。
じーーーーーーーーーー。
見ている。見られている。俺が妊婦のことをじーっと見ているのと同じように、他人が俺のことをじーっと見ている。その他人とは、小学生くらいの女の子だ。
女の子は金髪と白髪の中間の髪色をしている。ふわふわした髪の毛は、プリン味のシロップをかけた綿あめみたいだ。まつげまでふわふわな金色。そして紺色の瞳。ハーフかなにかだろうと思う。明らかに日本人離れした姿で、でも完全な「異人」感はなくて。着てる服だって、多分この路線の私立小学校の制服だし。
……すごいこっち見てくるな。すごい。睨んでいるわけじゃない。ただひたすら、俺の顔になにかついているみたいに見てくる。どこか遠くを見るような無表情で、ガン見だ。
はは、ちょっと笑えるな。
ほら、ラブコメ系でたまに、尾行してる奴らを尾行してる奴ら、みたいなギャグがあるよな。友達の彼氏を見ようと男女でストーキングしてたらその後ろにそいつらの仲を疑ってる探偵気取りが、とかさ。ちょうどそんな感じで、妊婦をじっと見ている俺を、その子がじっと見ている。
まあ、……いいか。どうでもいいので、俺は妊婦を見ながら考え事に戻った。
一つ不思議な事がある。妊婦っていうのは、街を歩いていて恥ずかしくないんだろうか。
だってあれって、要するにエッチしましたよってことだろう。
妊娠するような形式で。
今の社会規範がそれを許容しているというだけで、多分絶対恥ずかしいと思うんだが。
俺だったら恥ずかしい。
俺は妊娠したら外に出れない。
……でも、本当はいいのかもしれないな。妊娠するのは知らないが、子供ができるのは幸せだ。だからそこに至るまでの悪いことを我慢するというのは自然だ。はっきり言って妊婦って気持ち悪いし、誰かが×してくれないかなって思うけど……それでも、責任とか倫理とか正直どうでもいい、俺は幸せなのが一番いいと思う。
俺って案外、結構常識的でバランス取れた思考回路してるよな。
次の駅についた。この駅はターミナル駅で、一気に電車の中が空く。俺の通う高校はもう数駅先だ。だから、十分程度だが、座ることができ――
なかった。
なぜなら、俺を見ていたハーフ小学生が、ずんずん歩いて近づいてきたからだ。
そして周りに配慮した声で叫んだ。
「貴方! そこの貴方です! 聞きなさい!」
「え? なに」
「貴方は心の病気です!」
「そうなんだ」
「でも大丈夫! 安心してください。心の病気……『コミュ症』は……」
そこまで言っていったん言葉を切ると、ハーフ小学生は左胸に片手を当てて無意味に満足げな顔で微笑んだ。
「恋愛成就で治せます!」
「なんて?」
※ たどり着いた灯り ※
二人の出会いから一時間ほど遡る。今、平凡な部屋の平凡なベッドから起き上がったのは、ある一点を除き普通の男子高校生である、藤堂覧だ。
「眠……」
彼は顔を洗うために部屋を出た。
彼が普通でない点とは、「コミュ症」と呼ばれる最新の病気に羅患していることである。
ばちゃちゃちゃちゃ、水を垂れ流し、覧は顔を洗う。彼の自宅は三階建ての11LDKであり、家というよりは洋館に近い。
生まれたときから家が金持ちだったわけではないが、12歳くらいから家族でこの家に引っ越してきた。豪奢な生活に興味がない覧としては、正直どうでもいい。
……この豪華な家も、無感動な性格も、全て、彼のコミュ症に関係するもので、彼は自分のことが、コミュ症ごと嫌いだった。
コミュ症。コミュニケーション症候群とも。正式名称は、「コミュニケーション不全に関する第十七項目から構成される危機、境界域あるいは精神非感染性症候群」であるが、クソ長いので医者も略して呼ぶ。
SNSによって加速していく人々のコミュニケーションによって、かつてとは比べ物にならないほど、まともじゃないけどヤバくもない微妙な精神構造を抱える人間が増えた。対して政府は、コミュ症という、故障でも健常でもない新たな枠組みを作り出すことで対応した。
藤堂覧の所持するコミュ症は「ソシオパス」。さまざまな理由により、後天的に倫理観や情意を失うコミュ症だ。
「いってきまーす」
返事はない。はじめから誰に言ったものでもないから。
幼馴染はいない。妹もいない。姉もいない。親は夫婦同士仲が良いが、覧は親のことが嫌いで、家庭内で完全に孤立している。女友達どころか同性の友達もいない。もはやここまで行くと覧が悪いと言うよりは環境が悪い感じだ。そんな覧の楽しみは、アニメか漫画かスマホのゲームだけ。スマホにBluetoothで繋いだイヤホンから聞こえる音楽とともに、今日はライトノベルを楽しむ。楽しい~。
電車の中はじわじわと人が増えてきた。そして、特に人口の多い駅に止まると、あっという間に車内はぎゅうぎゅう詰めになっていく。
「……」
そこで覧は気づいた。小学生の女の子にめっちゃ見られてることに。そして冒頭に戻る。
「でも大丈夫! 安心してください。心の病気……『コミュ症』は……恋愛成就で治せます!」
※
さっきの女子小学生は、覧と話をしたいという。だから、応じて学校をサボった。
学校の一つ手前の駅で降り、駅前の喫茶店に入る。
目の前に座った彼女は何も考えずアイスコーヒーを頼んでいる。
覧は自分の病気、コミュ症が嫌いだ。それを自分に与えたようである親も嫌いだし、まさにそれを持っている自分もあまり好きではない。だから、突然現れた変な少女に、学校ごとサボってついてきた。向こうから話題が出てきたら、相手の正体も思い出した。
「この前ネットニュースで見たことがあると思った。お前、話題になってた小学生コミュ症科医だろう」
小学生は優しい微笑みを浮かべた。
「知って頂けていて嬉しいです。この見た目だとどうしても舐められますから」
「俺だって完全に舐めてるけどな」
「コミュ症科医」と呼ばれる仕事がある。政府はただコミュ症という名前を作っただけじゃない。コミュ症科医という医者でも素人でもない微妙な立ち位置の立場を作って、コミュ症に対応できる権限の国家資格を作った。
ただ世間の評判はあまり良くない。「ぶっちゃけ、医学部に合格する必要も、研修医になる必要もない、紛い物の医者だ」。そこまで言わせる筋合いはないはずだが、口が悪いバカはそう言う。
「で、俺のコミュ症を治せるって? ブランシェ先生」
「はい」
かつて見たニュースによれば、彼女は12歳にしてコミュ症科医の資格を持つ、有名な天才小学生だ。名前はブランシェ・夕野。だった記憶がある。フランス人ハーフとかなんとか。ブランシェはどばどばとコーヒーにシロップを五個くらい入れて、満足気に飲む。甘いものが好きなのか、ストローに口をつけながら、非常に無邪気な笑顔になった。
世間の評判はともかく、目の前の少女は医者といえば医者だ。自分の病気についても、なにか話が聞けるかもしれない。あと、学校に行くのが面倒くさい。だから、ついてきた。
「その、なんだ、恋愛成就とやらがいいんだな」
「はい。私の理論によれば、そうです。とりあえず私のことはランと呼んでください」
「紛らわしいな……」
「?」
「俺も下の名前が覧っていうから」
ランは大げさに驚いた。そして、キメ顔で言った。
「これは運命ですね、覧」
※
ひとしきり笑ったあと、覧はランの話を聞く態勢に入った。こっちだってただの素人ではない。数年以上自分の病気と付き合っていて、それなりに知識のある素人だ。
「で、恋愛成就でコミュ症が治るって何」