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雲と風  作者: 広海智


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天慶陰陽物語 第三

  陰陽師(おんようし)賀茂保憲(かものやすのり)菅原朝臣(すがわらあそん)御廟(ごびょう)(まい)(ものがたり) 第三


          一


 菅原道真は、大宰府まで訪ねてきた二男の景行(かげつら)に対し、自分亡き後、遺骨を背負って諸国を遍歴し、遺骨が自ずから重くなったところを墓所とするよう頼んだという。景行は言われたことを実行し、延長四年、常陸介として常陸国に赴任した際、真壁郡は真壁郷(まかべごう)羽鳥村(はとりむら)で遺骨が重くなったので、そこに墓所を築いた。その折、景行に協力したのが、当時の常陸大掾源護と羽鳥村に服織営所を持つ平良兼だったという。しかし三年後の延長七年、景行は弟達とともに遺骨を下総国豊田郡大生郷に埋葬し直し、御廟天神社を建てたらしい。景勝地たる飯沼(いいぬま)の島に移したのだと聞くが、そこは将門の本拠地たる鎌輪営所に極近い。延長八年までは将門の父、良将(よしもち)も存命であり、その辺りの繋がりも勘繰れてしまう。そんなことも語りながら、保憲は三十六禽を急がせた。未の時になったので、現れた時刻の魔物は羊、雁、鷹の三体だが、羊には姿を消させ、保憲と晴明は鷹に乗り、茂樹は雁に乗せて、空を飛んでいる。すぐ後ろに乗っている晴明は、保憲を守るように周囲を警戒している気配だ。

(頼もしさと危うさが同居してるおまえの魅力を、どう表現したらいいんだろうな……)

 正直、晴明の口吸いの相手が他にもいたら、自分の心は曇ってしまうだろう。

(でも、まだこの地におまえを留める訳にはいかないんだよ)

 葛葉――紫苑の真意や、国栖の意図を知らなければ、晴明を危険に晒すことになりかねない――。

「おまえ、平将門と会ったことはあるのか」

 不意に背後から晴明が問うてきた。間近から耳元へ響いた声は緊張を帯びている。

「残念ながら、まだだ」

 保憲は小さく首を横に振った。会えるものなら会おうと機会を探ってきたが、常陸介藤原維幾が将門とは距離を置いている様子で、保憲を含む常陸国司の官人達を関わらせようとしないのだ。昨年十一月五日に良兼らに対する追捕官符が下された後も、維幾は将門からの共闘の誘いを躱し続けている。

「話に聞く限りじゃ、情に厚く戦術に優れた武夫(もののふ)らしいけれどな」

 収集してきた評判を告げた保憲に、隣を飛ぶ雁の背で茂樹が肩を竦めた。

「その情の厚さと戦術の高さを、平真樹と源護の領地争いに大いに利用されたとしか見えませんね」

「将門自身も叔父達と領地争いをしてる」

 保憲は注釈を加える。

「良将から将門へ相続されるべき領地や利権を、良正(よしまさ)達が横取りしようとしたらしい」

都人(みやこびと)だろうが武夫だろうが、親族で相争うのは同じなんですね」

 呆れ顔をした茂樹に、晴明が低い声で言った。

「結局、何を、誰を、命に換えても守りたいかというだけの話だ」

「おまえに掛かれば、物事は何でも単純になっていいな」

 茂樹は呆れ顔のまま返す。

「少なくとも、おれは自分の命が一番大事だけどな」

 この二人は仲が悪いのだろうか。保憲は咳払いをして口を挟んだ。

「都人は命を奪うところまではしない。穢れを嫌うからね。けれど武夫にとっては、命の奪い合いも暮らしの中にある。そこが大きく違うところだろうな」

 見解を述べてから、保憲は鷹の首を軽く叩き、雁にも目で合図を送った。冬景色の眼下に飯沼が迫ってきていた。


            ◇


 飯沼は下総国の豊田郡と猿島郡の郡境にあり、衣川に注ぎ込む大きく細長い沼だ。蛇が多いことで知られ、大蛇(おろち)が棲むとの言い伝えもあり、蛇沼(へびぬま)とも呼ばれている。御廟天神社は、その東側の畔近く、岸とは僅かな浅瀬で隔てられた小さな島にある。大部分が木々に覆われた島で、北北東に尾を向けた勾玉(まがたま)の形をしているが、南の丸い頭の部分の上は平らにならされて、真ん中に本社(ほんしゃ)幣殿(へいでん)が建てられている。島全体が神域らしく、鳥居が設けられているのは浅瀬の波打ち際だ。

(平将門の二つの本拠地の丁度真ん中とも言えるこの地に何故、と伺えるかな……?)

 保憲は菅原道真の気配を探りつつ、二体の魔物を舞い降りさせていった。

 島に人影は見当たらない。けれど荒れた様子はなく、本社と幣殿周りの落ち葉も掃き清められている形跡がある。まだ気配の感じられない中、茂樹は口も利かず、神経を尖らせている。晴明も同様だが、茂樹よりもっと広範囲を警戒しているようだ。平将門の勢力地だという意識もしているのだろう。

「とにかく御挨拶申し上げようか」

 保憲は失礼にならないよう、鳥居近くの浅瀬に鷹を着地させて、羽毛に沿って背を滑り下り、雁もすぐ傍にばしゃりと着地させた。

「魔物は残しておいてくれ」

 晴明が鷹から下りながら囁いてきた。保憲はいつも、必要ない魔物に姿を消させるが、残しておけということだ。魔物は戦力になるが、反面、襲撃を受けて消されると保憲の力を大きく奪い去ってしまう諸刃の剣。そこまで知っている上での晴明の助言である。

「分かった」

 保憲は頷いて魔物二体を待機させ、島に上がって鳥居を潜ると、木々の間を通り抜け、ならされた部分に入った。晴明、茂樹も続いてくる。

「……いらっしゃる」

 保憲は小さく呟いた。重々しくも穏やかな気配が本社のほうから感じられる。ちらと振り向けば茂樹が強張った顔をしている。晴明のほうは、もう何度も菅原朝臣と会っているせいか、厳しい顔つきながらも落ち着いているので安心だ。

「お久し振りでございます」

 保憲は幣殿前で御廟の主へ拝礼した。

「一年振りか」

 木々の間を吹き渡る風に紛れて声は聞こえたが、姿は見えない。昼間から現れるほどのことでもないという意向らしい。晴明が「一年振り」という言葉に鋭く反応したが無視して、保憲は菅原朝臣に応じた。

「御存知でいらっしゃいましたか。昨年は常陸国に陰陽師として赴任致しましたので、御挨拶に伺ったのですが、お声も聞けず、味気なく思っておりました」

「そうそう話しかけていては、有り難みがなかろうて」

 怨霊は好々爺のように軽口を叩いた。 

「では、こたびは何故お声をお聞かせ下さいましたか」

 保憲が尋ねると、低い笑いが島中に響いた。

「狙い通りであろうに敢えて問うか。ならば答えよう。今上、そして忠平にわが意を知らせるためよ。そこな天文生らを通じてな」

「都で直にお伝えになれるでしょうに、何故わざわざこちらで?」

「わしが現れては、それだけで怪異となる。今上は弱過ぎるゆえ、摂政として仕える忠平の苦労が増そう。今はそれを避けたいのだ」

 やはり、菅原道真は藤原忠平に対して寛大だ。

「では、どのような意であるか、お教え頂きたく。平将門と、何か関わりがあるのでしょうか」

 恭しく問うた保憲に、島中の木々が葉をざわめかせた。

「分からぬか? この地におれば、日々感じておろう!」

 怨霊の声は先ほどまでと打って変わって低く重く響き渡る。

「以前にも言うたはず! 東国の動きに気をつけ、西国にも気を配れと! 朝廷の威を以て国々を正しく治めさせよ! わが意はそれに尽きる!」

 轟と風が吹き荒んで一瞬後、怨霊の気配は消えた。

「……叱られてしまったな」

 ふうと息をついた保憲に、晴明が怒った顔で迫ってきた。

「一年前、独りでここへ来たのか」

「御挨拶は大切だろう。礼を失するほうが恐ろしいと、おれは思うが」

 当然の理を保憲が説いても、晴明は納得しない。両目を吊り上げたまま、両手で保憲の領元を掴み、腹の底から絞り出すような声で訴えてきた。

「頼むから、そういう無謀はするな。頼むから」

(別に、おれにとっては無謀でも何でもないんだけれど)

 反論を口には出さず、優しい言葉を探そうとした保憲は、魔物達から伝わってきた気配に、背後を振り向いた。ほぼ同時に、晴明が保憲の領元から両手を離し、逆に背に庇うように、そこへ立っている。その肩越しに、保憲は鳥居がある側を凝視した。人が一人、木々の間を登ってくる足音が、研ぎ澄ました耳に聞こえる。魔物二体は、神域に入る新たな存在に対して、毛を逆立てる気配をさせた。二体の魔物と目を合わせながら、つまり彼らが見えながら、怖じることなく傍を通って鳥居を潜ってきた者。

「玉を呼んでも?」

 茂樹が小声で問うてきたが、保憲は首を横に振った。ここは菅原朝臣の神域。物怪や魔物に侵させる無礼は許されない。そして、そこまで恐れるべき相手でもなさそうだ。

「この足音、恐らく武夫だ」

 保憲は晴明と茂樹に囁いた。田夫などとは異なる、しっかりと土を踏み締める半靴(ほうか)の足音。半靴は騎乗用に(かのくつ)を簡略化した(くつ)だ。微かに、毛抜形太刀(けぬきがたたち)が鞘の中で鳴る音、複数の矢が胡簶の中で鳴る音も耳に拾える。物怪でも怨霊でも鬼でもない、たった一人の直人(ただびと)なら、自分や晴明の敵ではないーー。

「おや、先客か」

 明るい声とともに、武夫は木の間から現れた。狩衣を纏っており、若々しさと落ち着きを兼ね備えた物腰から、三十代半ばほどに見える。眉は濃く、目つきは鋭いが、笑顔には愛嬌があり、所作には気品も感じられる。ふと、どこかで見た顔のような気がしたが、知り合いの都人にこんな風貌の男はいない。それよりも、この武夫の姿が示唆することは。

(まさか……)

 狩衣は、晴明や茂樹が着ている布衣と同じ作りだが、麻や葛から作られた布ではなく、蚕の繭から作られた絹で仕立てられ、紋が織り込まれ、裏地もある点が異なる。即ち、この武夫は財力があるのだ。

(延喜三年、菅原朝臣が没したその同じ年に生まれたと聞くが)

 そうだとすれば、今年三十六歳。

「わたしは常陸国司の陰陽師賀茂保憲」

 保憲は名乗り、確かめる。

「あなたはもしや、相馬小二郎(そうまのこじろう)殿でいらっしゃいますか」

 武夫は複雑そうに笑った。

「都人であれば、瀧口小二郎(たきぐちのこじろう)と呼ばれるかと思ったが」

 清涼殿の庭を警衛するため、その東北の御溝水の落ち口ーー瀧口(たきぐち)近くの渡殿(わたどの)に詰める武者(むさ)は、やはり瀧口と呼ばれ、詰め所は瀧口陣(たきぐちのぢん)と呼び習わされている。瀧口は蔵人所に属し、定員は十人。帝の御船(みふね)供奉(ぐぶ)したり、御使(みつかい)の御用をしたり、お庭に木を植えたりといった仕事もする。その瀧口として仕えつつ、衛門佐(えもんのすけ)衛門大尉(えもんのたいじょう)衛門少尉(えもんのしょうじょう)に任じられることを望んだが叶わなかったと噂されている、平将門。

「まあ、おれとしては相馬(そうま)と呼ばれるほうが好みだから、あんたはよく分かっているよ」

 将門は気さくに言い、歩を進めてきた。下総国の相馬郡(そうまのこおり)は将門の母親の(さと)。彼はそこで育ったため、仮名として用いられるのだ。

 保憲は警戒を解かない晴明の肩に手を置いて、前に出た。

「こちらへは、よくいらっしゃるのですか?」

 問えば、将門は保憲達の傍を通り過ぎて幣殿へ向かいつつ頷いた。

「ああ。菅原景行朝臣や菅原兼茂朝臣とは懇意にさせて頂いていたからな」

「菅原兼茂朝臣とは、今だに交流を?」

 保憲が重ねた問いに、すぐには答えず、将門は幣殿と、その奥の本社に向かって拝礼した。そよ風が吹き、島に生えた松や杉、椿や(なぎ)(ひいらぎ)、樟、(ゆづりは)などが穏やかに葉を鳴らす。拝礼を終えた将門は、保憲達を振り向いて告げた。

「菅原兼茂朝臣からは、この御廟天神社や三郎天神社(さぶろうてんじんしゃ)をお守りするよう、頼まれているな」

「三郎天神社とは?」

 初耳の社について保憲は尋ねた。

「知りたいなら、ついて来な」

 将門は気軽に誘ってくる。

「まあ、ここほど立派にはできておらんから、拍子抜けするかもしれんがな」

 後は勝手にしろとばかり、将門はさっさと木々の間を下っていく。保憲は晴明、茂樹と視線を交わし、その後について行った。

 鳥居を出た将門は、二体の魔物を笑顔で見遣りながら浅瀬を渡り、岸辺の松に繋いでいた馬に跨る。その轡を取ったのち、自らも繋いでいた馬を解いて跨った水干姿の従者(ずさ)が一人と、騎乗したまま待っていた狩衣姿の武夫が一人。二人とも、鳥居を出る保憲達を鋭い眼差しで見てきた。

「気にするな、四郎(しろう)経明(つねあきら)

 将門は鷹揚に二人を宥める。

「常陸国司の陰陽師殿と従者達だ」

「陰陽師殿! 成るほど、それで」

 四郎と呼ばれた武夫が、若い声で感嘆しながら二体の魔物を見遣った。彼にも見えているのだ。

「常陸国司の陰陽師が何ゆえ、ここに?」

 経明と呼ばれた従者は依然、険しい顔を向けてくる。四郎が将門の弟の平将平(たいらのまさひら)、仮名を大葦原四郎(おおあしはらのしろう)、経明が栗栖院常羽御厩別当多治経明と見て間違いないだろう。

「菅原朝臣に御挨拶に参りました。賀茂保憲と申します。以後お見知りおきを」

 微笑んで名乗ると、将平(まさひら)がまた感心した様子で声を上げた。

「やはり、かの賀茂氏の! 賀茂忠行朝臣のお噂はかねがね! 先帝(さきのみかど)に射覆をせよと命じられて、八角形の箱の内に朱の紐で括られている水晶の数珠があることを見事当てて御覧に入れられたとか」

「忠行はわが父です」

 保憲は誇らしく告げた。その話は、忠行自身から聞いたことがある。父は陰陽寮の権威を高めるために行なったと語っていた。

「やはり、そうでしたか!」

 嬉しげな将平の隣で、多治経明が冷ややかに言った。

「確かに、常陸介様が国司の陰陽師に賀茂氏を得たと吹聴されていましたね」

(吹聴されてたのか)

 げんなりとしつつ、保憲は浅瀬を歩いて魔物の鷹に乗った。多治経明には、空中に浮いたように見えるのだろう。御厩別当(みまやのべっとう)は、細い両眼を瞠って保憲を凝視した。その視線を見返しながら、晴明が保憲の後ろに乗ってくる。茂樹も隣の雁に乗った。

「相馬小二郎殿の御厚意に甘えて、三郎天神社まで同道させて頂きます」

 保憲が伝えると、将平も経明も、将門を振り向いた。

「別にいいだろう?」

 将門は肩を竦める。

菅原朝臣道真(すがわらあそんみちざね)公とは、知らぬ仲でもなさそうだからな」

御霊(みたま)とお知り合いとは、さすが陰陽師殿!」

 爽やかに応じたのは将平。対して経明は眉をひそめた。

「常陸国司の官人に、この下総国を歩き回らせるのですか?」

「構わんだろう。次は下総国司の陰陽師になるかもしれんものなあ?」

 将門に笑いかけられて、保憲は苦笑いを返すに留めた。


          二


「三郎天神社は、わたしが通っていた菅原景行様の学問所跡に建てられているのです」

 下馬した将平の説明を聞きながら、保憲は鷹から下りた。御廟天神社から三郎天神社までは十町ほど。魔物の鷹と雁にとっては、舞い上がって舞い降りるだけの近さだった。将門達の馬にとっても、僅かに駆けただけで着く道のりだ。そして、将門が断っていた通り、三郎天神社は、御廟天神社に比べると、ひどく質素な社だった。田と林が連なる中に鳥居があり、社殿があるのみだ。

「祭っておられるのは、やはり菅原朝臣ですか?」

 保憲が尋ねると、将平は自分の馬を木に繋ぎながら首を横に振った。

「いえ、景行様です」

「あれ、おれはここも菅原朝臣を祭る社だと父上から聞いたが」

 口を挟んできたのは同じく下馬した将門だ。馬の手綱を、既に下馬している経明に渡しつつ、片眉を上げて弟を見た。

「え? でも、ここには確かに景行様がおられます……」

 将平が驚きながらも主張した。御霊となった景行を見たことがあるのだろう。

「菅原景行朝臣は、しかし、二男でいらっしゃいましたね。三男は菅原兼茂朝臣と記憶しております」

 保憲は事実のみ指摘しておく。

「菅原朝臣は三男でいらっしゃいましたので、三郎天神社という社名に合いますが」

「でも、ここでわたしがお祭りしてきたのは、景行様なのですが……」

 将平が悲しげに呟いた。

「なら、祭神(さいじん)は菅原景行朝臣でいいだろう」

 軽い口調で将門が言う。

「菅原朝臣道真公は闊達でおられようから、社が一つくらい御子息のものになろうとも、お怒りにはならんだろうさ」

「むしろ歓迎なさるでしょう。一族思いの方ですから」

 保憲は口を添えて、将平に微笑みかけた。

「そうですよね!」

 将平は歯を見せ、素直に喜ぶ。三十歳くらいのはずだが、随分と純朴に見える。

「わたしはてっきり、景行様が菅原朝臣の三郎君なのだとばかり思い込んでおりました」

 頭を掻いた将平の向こうで、二頭の馬を木に繋ぎ終えた経明が、顔をしかめて将門に問うた。

「社名はこのままでよいのですか?」

「父上がお決めになられた社名だからなあ」

 将門はのんびりと答える。

「このままでいいのではないか? 菅原景行朝臣にお尋ねしてみてくれ、四郎」

「はい。お会いできた時にお伺いします」

 将平は深く頷いた。将門は笑顔で保憲達を振り向いてくる。

「まあ、そういう訳で、こちらの祭神は菅原景行朝臣となったんだが、それでも参るか?」

「はい、是非とも」

 保憲は、魔物から下りた天文生二人を引き連れて、将門達に続いた。


            ◇


 菅原道真には、複数の妻がいて、二十人以上の子があったと聞く。それゆえ、何番目の子なのか、あやふやになり易かったのだろう。京官として官暦を終えた長男の高視(たかみ)や五男の淳茂(あつもち)は有名だが、地方官から京官に復すことのなかった子息達は、徐々に歴史に埋もれつつある。常陸介であった景行然り、武蔵介であった旧風(もとかぜ)然りだ。存命の兼茂も、京官に復すことがなければ、同じ定めだろう。

「わたしは、景行様から、紀伝(きでん)、詩文、明経(みょうぎょう)明法(みょうぼう)、算道の他に、弓馬も習ったのです」

 将平は、鳥居を潜って社殿へ歩く道すがら、しみじみと語る。学者として知られる菅原朝臣は乗馬も好み、武芸にも秀でていたと聞くので、息子達もそうだったのだろう。

「そう言えば、四郎殿は、何故、御廟天神社には参られなかったのですか?」

 保憲は気になっていたことを問うてみた。将門の伴類たる多治経明が、馬達の見張りをするため参拝を遠慮するのは分からなくもないが、弟たる将平まで鳥居の外で待っていたことが不可解だったのだ。

「正直に申し上げれば」

 将平は神妙な顔になる。

「わたしは、あのお方が恐ろしいのです」

「御霊に会われたことがあるのですね?」

「はい、景行様に連れられて初めて天神塚の社に参った際に。ただただ恐ろしく、震えておりました。以来、どうにも御廟天神社にはお参りできずにおります」

「そう恐ろしいお方ではないがなあ」

 前を行く将門が首を捻った。

(同じように見鬼の力を持ってる兄弟でも、この二人は全然違うな)

 保憲は興味深く二人を見比べる。自分にも姉、妹、弟達がいるが、性格はそれぞれ異なる。兄弟姉妹とは、そういうものなのだろうーー。

「菅原朝臣は素晴らしいお方です」

 多治経明が不意に会話に入ってきた。従者らしく振る舞ってはいるものの、将門の伴類なので、そこまで遜ってはいないようだ。

「おまえは筋金入りの菅原朝臣贔屓だな」

 将門が、ちらと振り向いて苦笑した。

「本当に」

 将平が同意する。

「今日も員経(かずつね)が腹を下したと聞くや否や、兄上の御廟(ごびょう)(もうで)の供を買って出ていましたものね」

 員経とは、将門の内竪(ないじゅ)ーー小姓として聞こえる伊和員経(いわのかずつね)のことだろうか。

「その癖、御廟の神域には入らんのだものなあ」

 将門に揶揄されて、経明は色白の顔を赤らめた。

「それは、今日は、奇っ怪なる魔物どもが鳥居の外にいると小二郎様も四郎殿も仰るので、警戒のために」

「おまえは見えんのに怖がりだなあ」

 笑った将門に、経明は頬を膨らませて言った。

「見えないからこそ、畏れ敬うのです。そして、そのお力に縋りたく思うのです」

「それも正解だろうさ。さて、神前だ」

 将門が空気を変える声音で告げた。

 社殿は小さく、その辺りにある(ほこら)と大差ない。その前で、将門は恭しく拝礼した。将平も経明もそれに倣う。

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