Actually,I can be.
憧れは、遠い。
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/Actually,I can be.
「やっば、雨だ」
前触れもなく降り出した強い雨に、傘を持っていない私は兎に角何処か屋根のある場所へ入らなければと走り出す。家まではまだまだ遠い。このまま走って帰ったらバケツの水を頭から被るくらいずぶ濡れになるだろう。いくらなんでもそれは御免である。
テスト前最後の金曜日とあって鞄の中は教科書やノートで一杯で、肩から下げたスクールバッグは邪魔以外の何者でもない。計画的に持って帰らない私が悪いのだけど今更後悔したってどうしようもない。
真っ直ぐな一本道を駆け抜けるが辺りに雨宿り出来そうな場所は中々見当たらない。左手には畑や住宅や駐車場、右手には車道を挟んで山が広がっている。これだから田舎はいけないんだ。半年間通学し続けている道であるはずなのに、何処かに雨宿り出来そうな場所はないかと思考を巡らせても一向に思い付く気配すらしない。
そうこうしているうちに雨足は強まりどんどんと私のワイシャツを濡らしていく。肌にぴったりとくっつく感覚が気持ち悪い。湿度が高くじめじめしていて、走ると直ぐに汗をかくから雨と相まってショートヘアを額や首筋にへばりつかせる。
ああ、早く何処か雨宿り出来る場所を見つけなければ。見つけたら携帯で家に電話して母親に迎えに来てもらおう。しかし――。
左腕に嵌めた茶色い革のベルトの小さな腕時計をちらりと見た。短針は四、長針は十二と一の間を指し示し、細い秒針が六辺りを通過している。丁度四時を回ったところだ。一つ溜め息をつく。母親は早くとも四時半まで仕事のために連絡がつかない。ああもう、お洒落なカフェでもあればいいのに。
駐車場と歩道を隔てるブロック塀を左折すると屋根のあるバス停を発見した。
ああ助かった、と急いで走り込んでから水色のプラスチックで出来たベンチにどかりと座った。既に上半分は雨に打たれて色の変わってしまったスクールバックのチャックを開けてピンクのタオルを引っ張り出した。よかった、タオルはほとんど濡れていない。教科書は少し濡れてふにゃふにゃになっているけれど気にしない、気にしない。
髪を拭いて、体を拭いて、その後にもうすっかり湿ってしまったタオルで鞄を拭いている時だった。
「藤沢さん?」
少し遠くの方から、私の名前を呼ぶ声。へ、と間抜けな声を出してしまう。吃驚して辺りをきょろきょろと見渡すと、ベンチ二つ隔てた向こう側に宮野さんが本を片手に白いベンチに座ってこちらを見ていた。
宮野沙織は私のクラスメイトである。しかし正直に言って私は宮野さんが少し、苦手だった。
私が朝、教室に辿り着くまでにはいつも彼女は自分の席に座っており、一人で本を読んでいる。
クラスの人からは嫌われている訳ではなく、むしろ憧れの念を抱いている人もいる。そしてそれは私も例外ではなかった。背が高く落ち着いており、長い髪はいつもさらさらで、おまけに勉強まで出来る――特に英語が凄い――彼女はとてもじゃないけれど私と同じ高校一年生には見えない。彼女のようになりたいと、密かに憧れていた。そう、憧れていた。それでいて苦手だった。彼女が、というよりも彼女と会話することが。
「み、宮野さん」
裏返った声で言うと、彼女は脇に置いていた鞄持ち、本の間に栞を挟んで立ち上がった。
え、え? なになに?
私の激しい動揺をよそに彼女はすたすたと数歩歩いて私との距離を縮めたかと思うと、なんと隣に腰をかけた。はっきり言って想定外だ。彼女とはそんなに仲が良いわけではないし、何よりわざわざ隣に歩いてやってくる意味が分からない。彼女が座った左隣をとてもじゃないけど見ることが出来なくて、きっと変な顔をしたまま真正面を睨むようにして見ていたのだろう。手に持ったタオルは右手に握ったままで、いやいや鞄を拭いている場合ではない。
戸惑いながらも何とか左を見れば思ったより彼女との距離は近くて、うおっと声を上げそうになるのを何とか我慢する。宮野さんは左隣に鞄を下ろし、手に持っていたペーパーバックを背表紙を上にして膝の上に静かに置いた。
「藤沢さんもこのバスに乗るの?」
綺麗なソプラノが空気を揺らして再び私を動揺させた。
「え! いや、只の雨宿り。このバス全然違う方行くし。家はこっから四十分くらい歩いたとこ」
矢継ぎ早に答えると宮野さんは驚いたようにえっと声を上げた。
「四十分も歩くの?」
「あー……いつもは自転車なんだけどね。今壊れてて。修理中」
何故同い年の、しかもクラスメイトと会話だけなのにこんなにも緊張してしまうのだろうか。私は初対面の人とでも割りと直ぐに仲良くなれる方だと思っているし、実際ほとんど人見知りなんてしない。しかしクラスの中で異彩を放つ宮野沙織とはどうしても馴染めていなかった。彼女は遠すぎて、私が犯してはいけないような気がする。
しかし宮野さんは私の言葉にははっと笑う。
「なんだか藤沢さんらしいなぁ。体力つきそうだね」
「私らしいってどういう意味……」
「そのままだよ」
この会話は私にとって違和感の塊だった。
へえ、宮野さんもこんな風に笑うんだ。冗談も言うんだ。
当然のことを不思議に感じている自分がちょっと面白かった。
――ああ、宮野さんも普通の女の子なんだなぁ。なんて、馬鹿らしいことを考えてみる。
だからと言っていきなり彼女と会話を盛り上げていけるかといえば、それとこれとは全くもって話が違う。憧れの彼女を前に私の緊張は多少は弛んだかもしれないが、それでも尚続いていた。
少しの間私達二人の空間は沈黙が占領し、私の額からはじめじめとした暑さからくるのとは違う、嫌な汗が滲み出てきた。顔がかっかと火照って妙に呼吸がしづらい。何か、何か話さなければ。宮野さんはここからバスに乗るの、とか聞いてみようか? いや、『藤沢さん“も”ここからバスに乗るの?』と言ったのだから彼女はここから乗るのだ。そんなこと聞かなくても分かる。例え尋ねたとしても発展性が無さすぎて直ぐに会話が終了してしまう。ええと……――。
焦る私の目に、彼女の膝の上のペーパーバックが映る。
「――本、好きなの?」
余り考えないうちにするりと言葉が出た。
「……え?」
不思議そうな表情を浮かべる宮野さんを見て、激しい後悔の念が襲ってきた。
ああ、話題の選択を間違えた。殆ど本なんて読まない私がそんなこと聞いてどうするのよ。
それでも宮野さんは一瞬で表情を穏やかなものに変えてから、すき、と小さく頷いた。その一言に私の胸は大袈裟なくらいに揺れた。どきどきと五月蝿い私の心拍は、少しだけ弱まった雨の柔らかな音に包まれて、大丈夫、彼女には聞こえない。
「藤沢さんは本嫌いなの?」
「いや、そんなことはないんだけど。殆ど読まないなぁ」
平静を装って会話を続ける。
「それは、何て言う本?」
宮野さんは、ああと声を漏らして、白くて柔らかそうな手でそっとペーパーバックを持ち上げ、ひっくり返してから表紙を私に見せた。
まず目に飛び込んできたのは中央に大きく書かれたカラフルなABCという三つのアルファベット。表紙には日本語は見当たらず、全て英語で書かれており見たこともない単語もあったがなんとなく察しがついた。
「アガサ・クリスティ?」
表紙の半分より上の部分に筆記体のアルファベットがならんでいるが、恐らくそれが著者名であり『アガサ・クリスティ』と読むことが出来るのであろう。私には読めないけれど。
それにしても、これは――。
「ねぇ、もしかしてこれ、洋書?」
「うん、そう」
彼女は何でもないように頷いてからぱらぱらとページを捲った。紙上に印刷されているのは、英語、英語、英語。こんなものを読むことなんて可能なのか。思わずううっと唸ってしまう。憧れは、遠い。
「これ読めるの? 難しくないの?」
「多分、藤沢さんが思ってるよりは難しくないよ。私も最初は読めなかったけど、段々分かるようになってきた」
宮野さんはふふっと笑う。
「え、じゃあ家に洋書が沢山あるとか?」
「私はそんなに持ってないけど、母がね」
そう言う宮野さんはやはり私とは住む世界の違う特別な人間のように思えたが、先程までのように敬遠する必要はないのかもしれないと感じ始めていた。彼女は遠いんだなと改めて実感させられたが、同時に彼女に少しだけ近付けたような気がする。
「私は英語苦手だから、絶対に無理」
「英語を学校で習う科目だと考えるから難しくなるんじゃないかな。英語も言語だからね」
宮野さんは優しく微笑んでそう言うが私には到底理解出来そうにもない。大体英語は中学生の頃から大の苦手で、どんなに一生懸命勉強しても掴み所が見つからなくてテストではいつも平均点には届かなかった。出来ない、と思うとそれは苦手だ、に変わりあっという間に嫌いだ、に到達した。高校に入ってもそれは変化することはなく、むしろさらに毛嫌いするようになってしまった。
「ううん、よくわからない。そういうものなのかな」
困ってそう言うと、宮野さんは両手で長い髪を一旦一纏めにかき集めてから、それを左の肩に流した。首筋には少しだけ汗が滲んでいる。
それから、そうだなぁと呟いて綺麗ににこりと笑った。何となく彼女の瞳はきらきらと輝いているように見える。
「例えば。例えばね、英文の意訳とか見てて、面白いとか思ったことない?」
「…………思い当たらない」
ほんの数秒考えた振りをしたが、考えなくてもそんな経験皆無だった。テストで意訳なんて書いたら点数が引かれていくから、どう考えても日本語にならないような直訳は避けているものの、いつも一つ一つの単語に留意しながら逐語訳していくのが習慣になっている。
宮野さんはより一層瞳を輝かせて楽しそうに笑いながら人差し指をピンと立てて、例えば、ともう一度言った。
「ある曲の題名なんだけどね、『Hard To Say I'm Sorry』っていう曲があるの。意味は、分かる?」
彼女の瞳の力強さに気圧されながらも懸命に頭をフル回転させ考える。
「あー……えーと」
「因みに完全な文に直すと『It is hard for me to say I'm sorry.』だよ」
困惑する私に宮野さんは、流暢な、それでいて私にも聞き取れるようにゆっくりとした発音でヒントを与えてくれた。
ああ、あれだ。
「ああっと……『私にとって、ごめんなさいと言うことは難しいです』……かな?」
「そう、大正解。これに素敵な邦題がついてるの。何だか分かる?」
彼女の質問に対して何か答えなければ、というよりも寧ろ、何か答えたいという感情に押されるようにして思考の海に飛び込む。
普通の訳じゃいけない。素敵な訳、しかもこれは曲の題名なのだから簡潔なものでなくてはいけない。ごめんなさいを言うことは難しい、つまりはどういう意味なのか。
暫くはうんうんと唸っていたがこれっぽっちも閃かず、とうとうギブアップ、と言って白旗を上げた。
その言葉を聞いた宮野さんの紅い唇は再びゆるりと弧を描く。
「この曲の邦題は『素直になれなくて』。ね、ちょっと面白いと思わない?」
――Hard To Say I'm Sorry.
――素直になれなくて。
ちょっと、面白いじゃないか。
彼女の問いかけに返事をするのも忘れて私は心の中でその題名を交互に何度も呟いた。反芻して反復して、頭の中をぐるぐると巡らせていく。
英語を学ぶ、というよりも正に彼女が先程言ったように、言語を学ぶといった感覚。こんな風にテストで回答すれば間違いなく大きな赤いバツ印を入れられるであろうが、それでもこれは彼等が作る模範回答よりもずっと魅力的で美しかった。
「確かに単語も熟語も文法も知らないままに英文は読めないけれど、言葉自体は凄く奥が深くて興味深いものだと思うのよ」
宮野さんは先程までの興奮は鎮めてしまったがそれでも尚無邪気な子供のように弾んだ口調で話す。
「まずは、嫌いだと思うことをやめてみたら? 多分いきなりには難しいけれど、切っ掛けがあればなんてことないわよ。少しだけ、こっち側から歩み寄ってやればいいのよ」
ここまで他人の言葉が響いたことが今まで生きてきた中であっただろうか。ただ単に私がそのような人物と出会うための運を持っていなかっただけなのだろうか。他人からすれば大袈裟に思われるかもしれないが、「単語覚えりゃ英語は読める!」とか「ひたすら構文を覚えろ!」だとかいう、つまらないことばかり言われてきた私にとっては彼女の言葉は一大事件であった。
未だに右手に握ったままだったタオルを更にぎゅっと握りしめる。握り拳の中は湿度が高くて少しだけ不快だったけれど構わず握り続けた。
前を向いて微かに笑う彼女の端整な横顔を身を乗り出すようにしてじっと見つめていると、不意に彼女が動いた。左手の人差し指を口許に当てて、んーと考えるように声を漏らしてからくるりと顔を此方に向ける。
「もうひとつ」
「え?」
突然のことに驚いて右手をぱっと開いて少しだけ体の重心を後ろに傾けた。
「もうひとつ?」
「そう。『Good morning』ってあるじゃない? あれって素敵過ぎると思わない?」
「は?」
訳が分からず馬鹿みたいに顔をしかめるが、彼女はもうこれ以上言うことはない、という風に再び視線を前に戻してしまった。
『Good morning』? 素敵? 一体どのあたりが? おはよう?
頭の中は一瞬にしてクエスチョンマークで一杯になってしまったが、彼女の意図する所を理解したくてその平々凡々な朝の挨拶を何度も頭を巡らせた。
そして。
――唐突に気がついた。
『Good morning』 その意味は言わずもがな『おはよう』である。
――『Good morning』その単語を一つずつ直接訳せばその意味は『素敵な朝』である。
何となく、彼女の言いたかったことが分かる気がした。いや、違うのかもしれない。私の推測は間違っているのかもしれない。それでも。何だろう、思わず、ぐらりときた。
『Good morning』と挨拶するたび、そのたびに私たちは素敵な朝を報告し、願っているのかもしれない、何ていうのは私の考えすぎなのか。
今日のこの十数分間の中で英語が好きになったとは流石に言えないが、それでも私の価値観に大きな影響を与えてしまったことは疑いようのない事実だった。ほんの少しでも、歩み寄ってやろうかな、なんて思うことが、私にとっては良い意味で異常であるのだ。
「説明しても共感してくれる人って中々いないんだけどね」
静かに興奮している私の隣で呟くように、独り言のようにそう言う彼女のその横顔は少しだけ淋しそうだった。
「ねぇ!」
堪らず口から出た一言は僅かに力んでいた。
「私に英語の本、貸してもらえないかな」
宮野さんはきょとんとした表情になってしまい、持っていたペーパーバックをゆっくりと軽く持ち上げて、ん? と言う。
「いやいや! それはまだ無理! もっと簡単な……児童書とか」
私が慌てて両手を大きく振ると彼女はペーパーバックを膝の上に戻してから柔らかく顔を綻ばせる。
「分かった。テストが終わったら持っていく」
宮野さんとの些細な約束事に胸を踊らせる私はにやけるのを我慢しながら、ありがとうとお礼を言った。
不意にすっと視線を落とした彼女は、何かを見つけたようにあっと小さく声を上げた。彼女はそのまま左の手を持ち上げて腕時計を見る。
「もう四時半だ。そろそろバスが来るはず……」
「えっまじで?」
慌てて私も時計を見ると丁度長針が六を指し示している。雨はまださあさあと柔らかな音を立てて降り続けており、やむ気配はない。あと数分経ったら母親に連絡しようと鞄からスマートフォンを取り出しておく。
表には出さないように気を付けてはいたものの胸の高鳴りは鎮まってはおらず、スマートフォンを持つ手は傍目からは分からない程度に震えていることが自覚出来た。
「あ、バスが来た」
宮野さんはベンチから少し腰を浮かせて右手側に伸びる長い一本道の遥か遠くを見詰めていた。私もそちらを振り向くと雨に烟る通りの中に小さなバスのような影がぼんやりと浮かび上がってきていた。
視線を宮野さんの方に戻せば彼女は膝の上に置いていたペーパーバックを鞄に入れてからレースの施された水玉の可愛らしいパスケースを取り出していた。鞄のチャックをしっかりと閉めてから彼女はゆっくりと私の方を向く。そして、じっとビー玉のような二つの瞳で私を見つめた。
「藤沢さん」
「な、なに?」
狼狽えながらも続きを促せば、宮野さんは予想だにしない言葉を紡いだ。
「私、貴女に憧れていた」
――え?
「過去形もおかしいわね。憧れている、のよ。だから、友達になりたいなって、ずっと思っていた」
彼女は。彼女は一体何を言っているのだろうか。彼女は私が憧れていて、それでいて少し苦手で――いや、後者についてはもう既に過去のことであるようだが――だから私とは住む世界が違って。そう思っていたのにその彼女本人が、私に憧れている?
「どういう、こと?」
「そのままだよ」
彼女は肩に鞄を掛けて立ち上がりながらそう言った。
「クラスで人気があるし、信頼されてるし、誰にでも友好的だし。藤沢みたいになりたいなって思ってた」
うそ、うそ嘘。本当に?
何か言わなければ。もう少しでバスが到着してしまう。はやく、早く何か言わなければ。
「私も、宮野さんに憧れてた」
宮野さんは一瞬吃驚したように目を大きく見開いたが直ぐに照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「沙織で、いいよ」
背後からバスの低く唸るエンジン音が微かに聞こえてきた。慌てて私も彼女に言う。
「私も! 亜美でいいよ!」
バスはあっという間に私達のいるバス停に滑り込んできて、プシューと音を立てて目の前に止まった。
じゃあね、沙織と言おうとして、喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。ちょっと恥ずかしいけれど、ええい、言ってしまえ!
「シーユーアゲイン! 沙織!」
明らかに片仮名発音の英語で、素敵な言葉を口にする。バスに乗り込もうとしていた彼女は眉を下げてははっと笑ってから流暢な発音で返事をしてくれた。
「See you again. 亜美」
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See you again.
さようなら。
――また会いましょう。
それは、別れの挨拶ではなくて、再会の約束。
/Actually,I can be.
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/ほんとは、ちかい。