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◇◇◇
結局あのあと、腹を満たす軽食と一緒にビールを買ったのが良くなかったのだ。翌朝、大樹は約束の時間よりも十分おくれで学校に着いた。
職員室には大樹と一緒に4年3組を受け持つ八重樫 淳子がすでに仁王立ちで、腕まで組んで待ち構えていた。
「あなたねえ、約束の時間を守るっていうのは、社会人として最低限のルールなんじゃないの?」
とても小柄な女性だから、どうしても大樹を見上げる形での説教になる。おまけに顔つきもやや童顔で、本人は怒りに満ちた表情をしているつもりなのだろうが、まるで迫力がない。
まるで子供が駄々をこねているようだと、大樹はぼんやりとそんなことを思っていた。
これがさらに彼女の不興を買ったようで、淳子の声がいくぶん甲高くなる。
「ねえ、ちゃんと聞いてます?」
「はあ」
気の抜けた返事を聞いた彼女は眉間を押さえ、首を大きく横に振って言い切った。
「こんな若い子に、植草先生の代わりが務まるとは思えません」
大樹に向かってではない。二人のそばでおろおろと体をゆすりながら事の成り行きを見守っていた校長にだ。
この態度にはさすがの大樹もむっと眉間を曇らせる。
『若い』という意味では、この女教員も大樹と大差ない。先ほど新任でこの学校に来てから三年目だと説明されたのだから、二つほど年上だというだけだ。
それに、化粧の薄い彼女は見た目だけでいうならば大樹よりもずっと年下に見える。くりっと目の大きな童顔と、清楚を絵に描いたようなストレートロングがあいまって、下手をすれば高校生だと言っても通用するかもしれない。
ただ、服装だけは小学校の先生にありがちな安っぽい白のカットソーに紺色のタイトスカートといういでたちで、威厳を見せようというのか腕組みをして胸を張っている姿が、大人の真似をする子供のようなこっけいを感じさせた。
だからなのだ、大樹が眉間の皺をふっと緩めたのは。これがまた淳子の神経を逆なでしたらしい。彼女は大きな目をきゅうっと吊り上げて大樹を見据える。
「何をニヤニヤしてるんですか」
「え、いや、ニヤニヤなんてしていないですよ?」
見かねた校長は立ち上がり、二人の間に割ってはいった。つるりと頭の禿げ上がった人のよさそうな彼には、これ以上の争いが耐えられなかったのだろう。
「いやいや、ね、八重樫先生、そういうこと言わないで、ね」
「でも、校長先生……」
「キミだってひとりだけで植草先生みたいなベテランの代わりなんてできないでしょ」
「まあ、そうですけど……」
淳子は愛くるしい唇を少し尖らせて、ひどく気になることを言い出した。
「『あの事』を彼にも手伝ってもらえと?」
「いやあ、それはまたおいおい、ね、複雑なことだし」
「分かりました……」
二人はなにをか納得した様子であったが、大樹は腑に落ちない。それでも新参者である自分が深く口を出すべき問題ではないという雰囲気だけは悟った。だから所在無く指先をひねりながら校長の次の言葉を待つ。
これが彼を小心者のように見せたのだろう、淳子の口調がいくぶん和らいだ。
「ごめんなさい、別にそこまで怒る必要はなかったわね」
校長が助け舟を出す。
「八重樫先生は、本当はとても優しい先生なんだよ。ただね、ここのところ少し働きすぎで、それで気が立っていただけなんだ、悪気はないんだよ」
「とりあえず校内を案内します、ついてきて」
ひょこりと歩き出した彼女の背中は小さい。小柄な体躯だというせいもあるが、働きすぎだと聞かされた効果もあるだろうか。小さな背中がふいに崩れ落ちてしまいそうな不安にかられて、大樹は彼女を呼び止めた。
「あの、案内ならいらないです。俺は昔ここの生徒だったんで」
淳子は振り向き、少し首を傾げる。
「あら、でも先生として校内を歩いたことはないでしょ。ちゃんとついてらっしゃい」
こういうときに大樹は我を通すを良しとしない。素直に彼女の後ろについて職員室を出る。長い廊下は十年前と変わらず、少しホコリのにおいがした。
「懐かしいな、ここの奥が音楽室だったんですよね」
大樹が言えば、淳子がぴしゃりと返す。
「今は多目的教室になっていますけれどね」
「はあ、そうなんですか」
「図書室も以前は三階にありましたけれど、今は一階に下ろされて蔵書数も大幅に増えましたしね、あなたのいたころとは全然違うんですよ、この学校は」
「ああ、まあ、十年もたっていますしね」
下駄箱からあがってきた少年が「おはようございます」と頓狂な声を出す。それに軽く挨拶を返しながら、大樹はその少年のランドセルの色ばかりを気にしていた。
「白か。俺たちのころは赤か黒しかなかったですよ。いまどきの子はおしゃれですね」
その言葉に淳子が足を止め、大きく振り返る。
「あの、さっきからどうしてそんなに緊張感がないんですか!」
「え、俺ですか?」
「あなた以外に誰がいるんですか!」
「じゃあ逆に聞きますけど、八重樫先生はどうしてそんなにピリピリしているんですか」
「ピリピリなんか……」
「していますよね。俺よりも上位に立とうとして、わざわざ『あなたのいたころとは全然違う』ところを教えてくれたり」
「上位に立とうとなんか……」
「じゃあ、なんなんですか。俺は女性が上司だとかセンパイだとか気にしない性質なんで、そんなに気張る必要はないですよ。もっとも、新人の若造が気に食わないからいじめてやれっていう心積もりなら、こっちにも考えがありますがね」
「そうじゃない、そうじゃないのよ……」
淳子は少し戸惑ったような表情を見せた。なにか言葉をためらうとき特有の、口元に落ち着きがない表情だった。
「あの、あのですね、八つ当たり的だったことは謝ります、でも……」
「でも?」
「私、怖いんです」
予想外の答えに大樹は毒気を抜かれて、「はあ」とマヌケな声を出すしかできなかった。
ところが彼女のほうは真剣らしく、胸の前で固く手を組んでブルブルと体を震わせている。声は小さく、そして、やはり震えていた。
「あの、お願いです、他の先生には言わないでくださいね」
「別に言いませんよ。いったい、何が怖いんですか?」
「鬼が……」
また鬼の話か、と大樹は心のうちで舌を鳴らした。