2
この少女は、なにかおかしい。もしかしたら闇の中に潜んでいた『モノ』が、人間の姿を借りてここに佇んでいたのではないだろうか。そんな気さえしてくる。
だいたい、こんな夜中に子供が出歩くものだろうか。真っ当な親であればそんなことは許さないだろうし、親の目を盗んで抜け出してきた子にしては態度があまりにも落ち着いている。
まるで暗い夜の中に……闇の中そのものに住み着いているような寛ぎようだ。
その少女が重ね合わせた掌をそっと大樹に差しむけるから、彼は思わず小さな悲鳴をあげた。
「ひっ!」
「大丈夫、怖くない、怖くないよ」
そう言いながら開かれた小さな掌の上に、真っ白い小石があった。他には何もない、ただの小石が、ただ一つだけ。
あまりにも白い小石だ。色だけなら一瞬、雨風によく洗わせた骨のかけらかと思うほどに白い。だが形は少し潰れた丸い形で、それが河原でよく拾える類のただの白い石なのだと大樹もすぐに気づいた。
「これは?」
怪訝そうに聞く大樹に、少女は満面の笑みを返す。
「ユウちゃんだよ」
にぱっと歯茎が見えるほど口を開き、楽しげに目元を輝かせる明るい表情は無邪気すぎるほどだ。これを怪しい夜の中に住むものだと解釈するのは少し大げさすぎるのではないかと、大樹はそう考えて肩の力を抜いた。
「ユウちゃんって、これ、小石だよね」
「ううん、これはね、ユウちゃんの骨なの。だから、たっぷりと月浴みさせてあげなくちゃいけないんだよ」
「ああ、なるほど、おまじないかな?」
「うーん、まあ、似たようなもの?」
もう何も怖くない。目の前にいるのはただの子供だ。
ならば夜歩きを咎めることが最優先だろうと、大樹は再び声音を強めた。
「いけないなあ、確かに君くらいの子にはおまじないはとても大事なもので、俺も昔は子供だったんだから、そういう気持ちも理解できないわけじゃない。でもね、君みたいな子供が夜中に出歩くのは感心しないなあ」
「どうして?」
「うーん……夜出歩くのは……」
あまりどぎつくない理由を、しかし夜を怖がるに十分な言葉を、そう思ったら、次の言葉は勝手に口を突いて出た。
「ほら、鬼に捕まるから」
あまりにも拙いことを言ったものだ、と大樹は苦笑する。幼稚園児ならいざ知らず、小学生の子供相手に鬼だなどと……おとぎ話の一つだと笑われるのがせいぜいだ。
「あ、いや、鬼というのはたとえでね……」
取り繕う言葉を探して戸惑う大樹に、しかし少女はひどく真面目な表情を向ける。
「鬼、ね。鬼は私を捕まえたりしないわよ?」
「いや、だから鬼っていうのは……」
「もしかして変質者さんに私が捕まっちゃうとか心配してる? 大丈夫よ、私は鬼に守られているから」
「そんなわけがないだろう、鬼なんて本当に居るものじゃないよ」
「じゃあ、試してみる?」
少女が無防備に両手を広げる。コンビニの店内から差す白い光に照らされた華奢な体の儚さに、大樹の意識がぐらりと揺れた。
「試すって……」
「どこでもいいからさわってみて、そうしたら鬼が出てくるから」
少女が「ふふ」と挑発的に笑う。
「知ってるよ、おじちゃんみたいな人たちは、小学生の女の子が大好きなんでしょ」
ざわっと風が吹いた。揺らされた街路樹の陰にはねっとりとした闇がうずくまっているが、その塊が生き物に似た気配を放っているような気がして仕方ない。
もっともそんなことは良くあることで、たとえば恐怖映画を見たあとにうっかりと目を閉じると、スクリーンの向こうにいたはずのバケモノの気配を背後に感じたりするではないか。
そういう類のものだろうと自分に言い聞かせて、大樹は植え込みの足元から目をそらす。
「小学生のクセに、おかしなマンガの読み過ぎなんじゃないか。真っ当な大人はキミみたいな子供に欲情したりしない」
「ふ~ん、やせ我慢? それとも鬼が怖い?」
「どっちでもない。俺は真っ当な大人だからキミに興味がない、それだけのことだ」
「え~、つまんないの~」
少女は両耳に届くのではないかというほど大きく唇を引き伸ばして、にやりと笑った。それから、掌の小石をそうっと口元に寄せて優しく囁く。
「ユウちゃんも、このおじさんと遊びたかったよねぇ」
大樹は、自分の脛が恐怖でびっしりと粟立っていることに戸惑った。
目の前にいるのは年端も行かぬ子供ひとり、言動は多少エキセントリックだが、それでもたかが子供である。
ならば何が怖いのか……
(闇だ)
煌々と照る灯りを避けてゴミ箱の裏にたまった真っ黒い闇、コンビニ前にぽつんと置かれたポストの足元に絡み付く夜の闇、少女の足元に描き出された影を黒く染める闇……それらがウゾウゾと尺取虫のように腹をくねらせて蠢動しているような気がしてならない。
この少女はその闇を恐れず、あまつさえ闇の支配者のように堂々と振舞うから恐ろしく見えるのだ。
一刻も早くこの少女をここから追い払ってしまいたいと、大樹は少し震える声で伝えた。
「ともかく、キミみたいな子供が夜中に家から出るもんじゃない。家に帰りなさい」
そのあと、こうも付け加える。
「俺は小輪谷小学校の先生だ。学校に報告するぞ」
少女はくりくりと目玉を輝かせて、伸び上がるような姿勢で大樹の顔を覗きこんだ。
「へえ、先生? 私、小輪谷小に行ってるけど、おじさんをみたことないよ」
「正確には、これから先生になるんだ」
「ああ、植草先生の代わりに来るのね」
少女は再び小石に唇をよせて囁く。
「新人の先生じゃしかたないよね、許してあげようと思うんだけど、ユウちゃんはどう思う?」
どこからどうみても、それはただの小石だ。何かを答えるわけがない。
それでも少女は、まるでその小石が何かを囁き返したかのように微笑んで、くすぐったそうに首をすくめる。
「ふふふふ、そうだね、今日はもう帰ろうか」
大事そうに小石をポケットにしまいこんで、少女はガードレールに両手をかけた。
「送っていくよ、家はどこだ?」
「あそこ」
少女は道を挟んだ向こう側、夜の暗い空に向かって突きあがる小輪谷の団地群を指差した。大樹は少女の指先を追って視線を上げる。
団地の足元を明るく照らす街頭の明かりも、建物の屋上近くまでは届かない。窓のほとんどは明かりを消して、小輪谷団地はすでに眠りの底に沈んでいる。
「先生になるんなら、『俺』って言い方はやめたほうがいいと思うよ」
「あ、おい!」
大樹がガードレールまで視線を落とすと、そこにはもう少女の姿はなかった。
こんな時間になれば通る車すらない車道を、街頭が明るく照らしているというのに、それでもガードレールの間や側溝の蓋の周りに闇はまとわりついている。それは生気を失ったかのようにただのありきたりな闇で、ピクリとも動いたりはしない。
大樹は自分がどこから飛んできたのかわからないどんぐりの一果を握り締めていることに、いまさら気がついてそれを道路の真ん中に投げた。
どんぐりはアスファルトの表面に当たって一度だけ跳ね上がり、ころころと少し転がったあとで、側溝の蓋の隙間から真っ暗い闇の中に落ちて……見えなくなった。