終
大樹の母親――陽子の病室は小輪谷第一総合病院の4階にある。ここの窓際に立てば小輪谷団地の全景が見える。今日みたいに天気の良い日には、マッチ箱を整然と並べたような建物の間にたっぷりと陽光を含んで真っ白に輝く小都市がはっきりと見えるはずだ。
きっと『義母』は、はめ殺しの窓に顔を押し当ててそれをみている。空ろな目つきで、もういなくなってしまった息子の面影を探そうとしているのかもしれない――。
そう思うと一刻も早く病室へ戻ってやりたくて、淳子は手の中にあるカップを大きく傾けて中に残っていたコーヒーを飲み干した。
ここは病院の一階にある喫茶スペースで、ちょうど午後の回診が始まったこの時間には淳子のように時間をもてあました付き添いの人間が何人か来ており、閑古鳥というほど閑散としているわけでもない。が、混雑というほどに人がいるわけでもなく、店内はほど良い人の気配と、食器の動く音がする程度の静けさが混在しており、ひどく居心地が良い。
淳子の前には敷島が座っており、これはいまだコーヒーの残りをもてあましているようにカップを手の中でもてあそんでは、黒い液体の表面を意味もなく眺めている。
だから淳子は、いまここでしていた会話を終わらせようと言葉を急いだ。
「で、今回のことは記事にはできないと、そういうことですね」
敷島はコーヒーカップから視線を上げて、上目遣いに淳子を眺めた。
「ええ、読者がウチの怪奇話に求めるのはエンターテイメント性ですからね、今回の事件は、さすがにちょっとね」
「親友である、あの人が死んだからですか」
「ああ、それもありますね」
敷島が遠い目をする……そのまぶたの裏には、恨めしそうに天を見上げていた大樹の生首が浮かんでいるのかもしれない。
あの後、校庭の異常に気づいた敷島がかけつけたときには、もうすべてが終わっていた。首と胴体がきれいに切り離された死体が二つと、気を失ってたおれた無数の『信者』と。いや、正気を取り戻した人々は自分が校庭にいる理由さえ亡失していたのだから、もはや『信者』ではなかった。
捜査が難航したのは、こうして関係者が全てを忘れてしまっていたからだ。敷島がここまでの経緯を調査したUSBメモリーも証拠として提出させられ、事件はありがちな『新興宗教による狂気の儀式の結末』ということで始末されたが、真実を知らぬ一般人にそれ以上の真実を知らせる必要はないと敷島は思っている。
怪異の真実など知らなくても、人は生きていける。
「まあ、高坂のお母さんには教えても良いのかなとか、思うときもありますけれどね、彼女だって、俺の話を理解できる状態じゃないでしょう」
「そうですね、暴れるようなことはなくなりましたけど……」
わが子を失った陽子は完全に正気を失ってしまった。この病院に収容されたのはその治療のためだ……というのは建前で、もはや誰も彼女が快復することは無いだろうと思っている。
それでも淳子だけは愛する人の遺した母親を大事に思い、こうして足しげく見舞いに通っているのだという。
「まあ、いいんじゃないすかね、他に記事になりそうな話はいくつかあるし、ボクもこの話は終わりにしたいし」
と、コーヒーを一気に飲み下した後で、彼は伝票を掴んで立ち上がった。
淳子も慌てて席を立とうとするが、敷島はそれをおしとどめて笑う。
「取材費で落とせるって言ったでしょ、気にしないで」
その後で彼は、淳子の腹の辺りに優しい視線を向けた。
「だいぶ目だって来ましたね」
柔らかいスウェット地のワンピースを着た彼女の腹は丸く前にせり出している。
「やっぱり、産むんですね」
「ええ」
「まあ、父親のない子では、苦労することもあるでしょう、何かあったら手伝いますんで、声かけてくださいよ」
敷島は妙に明るく笑って、伝票をひらひらと振って見せた。
「ま、これはご祝儀の第一弾って事で」
きびすを返し、去ってゆく彼の背中を見送って、淳子はゆっくりと席を立った。
回診はもう終わっているだろう、義母の元へ戻ろうとエレベーターに向かう。病室へと入れば、陽子は相変わらず窓越しに見える小輪谷団地を眺めている。
淳子が「何か見えますか、お義母さん」と声をかけると、振り返った彼女の顔はこの上ないほど満面の笑みであった。
「なんだかね、今日あたり、あの子が帰ってくるような気がするのよ」
淳子は否定の言葉を吐かない。さりとて、この義母に同情してウソをつくようなこともしない。
「そうですね、今日はまだ、月齢が浅いから……」
「いつ帰ってくるのかしら、あの子は」
「もうすぐ……もうすぐですよ」
「今度こそ、幸せにおなりなさいよ、サヤカさん」
女はそれさえも否定しない。ただ静かに微笑んで窓の外を眺める。遠く、小さく、整然と並んだ小輪谷の団地群は日の光の中にゆったりとうずくまっていた。
陽子が音程さえも定かではない様子で、何かを口ずさむ。
「こ~わや、こわや、小輪谷団地の鬼ぃは……」
窓に片手をついて微笑んだ女は、薄っすらと開いた唇の間から呪を吐く。
「い~つ、い~つ、還る……」
陽の光を通さぬ建物の影、小輪谷団地の奥深くで何かが蠢く、そんな気配がした。




