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このとき、大樹はとある恐ろしいことに気づいてしまった。いや、偶然なのだと思いたい、なにしろ、普段なら気にもとめないようなささいな、本当に取り留めない彼の服装に対する違和感だけなのだから。
その男は、白いカッターシャツに紺色のスラックスを履いている。大人の男が職場に着て行くには少しだらしない、大きめの白いカッターシャツをざっくりと着込んだ姿が、『信者』を思わせる。
男は窓の外に顔を向けたまま、大樹に向かって言葉を向けた。
「困るんですよねえ、私も妻が迎えに来てくれてるので、もう帰りたいんですよ」
「奥さんが?」
「ええ、ほら、ああしてもう三十分も、あそこに立っているんですよ」
大樹は男が指差すほうを見るが、そこには夜の闇をおしとどめるガラス窓があるばかりで、室内からの灯りを受けて反射する表面に大樹と男の顔が映りこんでいる他には人の気配すら感じられない。
「ああ、高坂先生はウチのに会うのは初めてでしたっけ、ちょっと挨拶させましょうか」
男が手招きすると、その窓がカラカラと音を立てて開いた。
「いや、挨拶とかいらないんで」
腰を後ろに引いて後ずさろうとする大樹の手を、男ががっしりと掴んで引っ張る。
「逃げないでくださいよ」
「いや、本当に、挨拶してもらう義理とかないんで」
口ではおどけながらも、頬を引きつらせた大樹は、開ききった窓から視線をはずすことができずにいる。窓枠に、ずるりと手をかけた闇色の『何か』から顔を背けることができない。
窓の外にあるのは、確かに『闇』だ。それは夜になると街灯の明かりを避けて小輪谷団地のあちこちに張り付く、何の変哲ないただの夜の欠片だ。
それは階段の踊り場の隅に、植え込みの下に、または駐車した車の車体の下にねっとりとうずくまってこちらをうかがう闇の気配、それがちょうど人間の形に切り取られて動いているのだ。
ずるっと胴体を窓枠の上に這いのぼらせて、闇は職員室の中に入り込んできた。
事務員の男は大樹の耳元で囁く。
「一年前に大病を患ったせいでちょっと姿はなくしてしまいましたがね、昔の妻は、そりゃあ私にはもったいないくらいの美人だったんですよ」
大樹は悲鳴を上げることすらできず、ずるりと床の上にすべり落ちた影を見守るしかなかった。
影は髪の長い女なのだろうか、首の細さが見えずに胴体からにゅっと頭部が生えているような曖昧な形をしている。胴は細くて華奢な老婦人を思わせるが、そこから生えた手足は頼りないほどに細くて、それを這うように動かす姿が虫を思わせた。
息を飲んで、身をすくめた大樹の耳に聞こえてきたのは、鬼呼び歌……
「ああ、みんな挨拶がしたいのかな。『ヤヨイ様』のお父様に」
男に引きずられて、大樹は窓際へと連れてこられた。床を這いずり回っていた『なにか』の影は、まるで甘えるように男の体に巻き付いて揺れる。
「よしよし、ヤスコ、少し大人しくしておいで」
開け放たれた窓際に押し付けられるようにして大樹が見たものは、ふわりと校庭を歩く白い上着に紺色の半ズボンをはいた少年の姿だった。彼は片手を掲げ、踊るような足取りでこちらに向かって歩いてくる。掲げた手の上に乗っているのは『闇』……手首から先が見えないほど深い闇がうねうねとおぞましく身をよじっている。
彼だけではない、校庭を覆う闇の中にふわり、ふわりといくつも浮かび上がる純白のブラウス、それがゆらゆらと揺れているのは、大樹に向かってゆっくりと歩み寄ってきているからなのだ。
男もいる女もいる、子供もいる老人もいる、人間もいる……人間ではない何かも。
一人がひとつ、何がしかの蠢く闇を体にまとわりつかせているのだ。
闇の中に白いブラウスとそれに絡み付く闇、まるで体の一部が闇に食われて欠け落ちたようだ。
「ひいいっ!」
たまらず悲鳴を漏らした大樹の鼻先に、ヤヨイの姿がふわりと舞い降りた。
「ねえ、お父さん、これで分かった?」
「わかるか! わかってたまるか!」
「お父さんは頑固ねえ、ちゃんとあの人たちをみてよ」
ゆらり、ゆぅらりと体を揺らしながらこちらに向かってくる白いブラウス。誰もが口々に物悲しい節をつけて尾に呼び歌を口ずさんでおり、その合唱が地のうめき声のように低くを這って流れる。
葬列に似て物悲しい。
「逆にお前は、これが本当に正しいと思っているのか?」
大樹は顔のすぐ前に浮かんだヤヨイの顔をきゅうっと睨み付けたのだが、彼女はそんなことさえ意に介しない様子で「ひゃはは」とけたたましく笑った。
「正しいことだよ、お父さん、みんな私に感謝してくれてる、それって、正しいことでしょう?」
「バカをいうな、あんなバケモノを作り出すことのどこが正しいって言うんだ!」
「じゃあ、お父さんは正しいことをしたの?」
「う……」
「遊び気分で反魂ごっこを考えて、そのせいで自分も鬼になって、お母さんまで鬼としてこの世に呼び戻して、それが正しいことなの?」
「知らなかったんだ……鬼を作るということが、こんなことだとは」
「知らなかったで済ましちゃうの? 私が鬼の子に生まれちゃったことも、知らなかったですませちゃうの?」
ヤヨイはふっと、ひどく悲しそうな顔をした。
「ねえ、お父さん、私が鬼の子なんかじゃなかったら……普通の女の子だったら、お父さんは私を愛してくれた?」
大樹は首を横に振る。敵意がない事を示そうと両手を広げてヤヨイに差し向ける。それから、しっかりと彼女の顔を見据えて言った。
「いまからでも遅くない、普通の女の子になればいいじゃないか」
「どうやって?」
「俺はキミに対して、ちゃんと父親としての責任を取る。いっしょに暮らそう、ヤヨイ」
「もう遅いよ、お父さん」
「遅くなんかない、キミに必要なのは親の愛情というものだ。淳子も、ちゃんと説明すればキミを受け入れてくれるだろう、ちゃんと親子として、三人で暮らそう」
ヤヨイの顔が――サヤカによく似たおかっぱの童顔が憎々しげに歯を食いしばり、鼻の頭に皺をよせた。
「そう、お父さんはお母さんじゃなくて、八重樫先生を選ぶんだ?」
「違うぞ! 別にサヤカのことがどうでも良いというわけじゃない、ただ、いま生きて、俺の傍にいるのは……」
「もういい、お父さんなんか死んじゃえ!」
ヤヨイが片手を挙げると、信者たちがいっせいに鬼呼び歌を歌いだした。
闇が蠢く。
「ばいばい、お父さん」
ヤヨイが手を振り下ろしたそのとき、風の中から声が聞こえた。
『ねえ、もう終わりにしよう』
優しい声、そして吹いた風は春のそよ風のように儚い……というのに、ヤヨイの首が胴体から離れ、宙に舞う。首を失った胴体からは血が噴き出し、いままで彼女の体を支えていた力さえも失って、大きく揺らめきながら地面へと落ちた。
ヤヨイの体を中心に、わずかに風がつむじをまいて、消える。
大樹は、それを見ている自分も首を落とされたことを知っていた。視界がひどく傾いているのは、切り離された首が胴体から噴き出す血潮に耐え切れずにゆっくりと滑り落ちているせいなのだ。
薄れゆく意識の中、愛する女の名前を呼ぼうと唇が動く。
「……」
その声は誰にも聞こえず、ただ吹き過ぎる風にさらわれて消えた。
高坂 大樹の意識は、そこで全て、途切れた……




