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それから数分の後、大樹と淳子は音楽室にたどり着いていた。
ここは校門から一番近い教室でもある。追ってくるヤヨイの気配はまだないが、それも時間の問題だろう。
大樹は部屋の隅にあった大太鼓の陰に淳子を押し込み、その両肩を掴んだ。
「いいかい、俺とヤヨイが戦いはじめた気配がしたら、ここをでて学校からできるだけ遠くへ逃げろ」
淳子が震えながら大樹を見上げる。
「戻ってきてくれるよね」
しかし大樹はそれに答えず、淳子の両肩を手放そうとした。
「ダメ!」
淳子はその手をつなぎとめて、指を絡ませる。
「お願い、あなたも生きて帰ってくるって約束して」
「それはどうだろう」
苦々しい声だった。
「俺にはサヤカがついている、と思いたいが、さっきからあれだけ恐ろしい目にあっても風すら吹かないじゃないか。もしかして、キミを愛してしまった俺への罰かもな」
「じゃあ、一緒に逃げて! 鬼頭さんが私たちを見失っているいまなら、きっと逃げられる!」
「それは甘いよ、相手はバケモノだよ」
「だって、その作戦って、大樹さんが囮になるって事でしょう?」
「ちがうよ、あんなバケモノでも、あれは俺の娘だ。俺は、父親としての責任を果たしに行くだけだ」
「私への責任は? あなたを好きになってしまった私への責任はないの?」
「もちろん、ある。だからこそ、キミを守りたい」
大樹が淳子の額にキスを落とした。きっとこれが最後のキスになるだろうと、ただ悲しく唇を肌に沿わせ、彼女の生え際の匂いを吸い込む。
「愛してるよ、淳子。でも、俺たちはまだ付き合っているだけの……他人の関係だから」
「そうね、あの子はあなたの娘さんだもの、ね」
「ごめん。キミを好きになってゴメン」
震える唇が額から離れる寂寥感に耐えかねて、淳子は上ずった声をあげた。
「ねえ!」
「なに?」
「私も、愛していた」
「そうか」
後は何も言わず、大樹は淳子を突き飛ばすようにして大太鼓の奥へと隠してやった。
そして自分は音楽室を飛び出す。階段を飛び上がるように二階へ上がり、わざと大きな足音を立ててその廊下を走り回る。
「さあこい、ヤヨイ!」
廊下の遠くから、かすれるように歌う鬼呼び歌が聞こえてきた。
(そうだ、こっちだ、こっちに来い!)
大樹はこぶしを固め、壁を叩いてドンと音を鳴らした。歌声が笑い声に変わる。
「うふふ、うふふふ、鬼さんこちら、のつもり?」
廊下の一番奥に、ふわりとヤヨイの姿が浮かび上がった、と思うまもなく、その姿が弾丸のように大樹めがけて飛んでくる。
大樹は大きく身を翻して階段へと向かった。階段の手すりに飛び乗り、下まで一気に滑り降りる。摩擦で尻がちりっと焦げるような気がした。
「お父さ~ん、どこ行くの~」
ヤヨイはすでに階段中ほどの踊り場に浮かんで大樹を見下ろしている。
「く!」
大樹は自分の右手にある音楽室のドアをチラリとだけ見やった。
あそこに淳子が隠れていることを気どらせてはいけない。わざとらしくならないように気遣いながら目をそらし、一階の廊下を見渡す。
すでに日は落ちきったか、廊下は暗くて一番向こうは闇の底に沈んでいるように見えた。まるで井戸のそこを覗いているような不快感に胃がざわめく。
廊下の中ほどにひとつだけぼんやりと光を落としているのは職員室のドアだ。何の確証もないが、人のいるあの部屋にさえたどり着けばなんとかなるような、そんな気がした。
ぐうっと膝を落とし、徒競走のスタートを切るように腰を落としながら、大樹はつぶやく。
「サヤカ、もしもそこにいるなら、俺ではなく淳子を守ってやってくれ」
そよ、と吹いた風が大樹の前髪をかきあげて囁いた。
『そんなにあの人が好き?』
「ああ、好きだ」
『そう……』
風がごうっと音を立てて強い追い風に変わった。大樹は膝のばねを思い切りたわませてスタートを切る。
「あははは、まってよ、お父さん」
背中のすぐ後ろにヤヨイの声を感じたが、これは却って好都合だ。大樹を追うことに夢中になっているうちは淳子の所在に気を配る余裕も無いだろう。
突風に背中を押されながら長い廊下を駆け抜け、大樹は職員室に飛び込んだとたん、背後に感じていたヤヨイの気配がすうっと消える。
「振り切ったか?」
見回せば、職員室はひどく静かだ。二人ほどいた教師はすでに帰ったらしく、いるのは鍵束を寄越したあの事務員が一人だけ。
彼はだだっ広い職員室の一番端の席に座って、静かに微笑んでいた。
「おや、用事は済んだんですか、ならば鍵の返却を」
その声はあまりに普通すぎて、毒気を抜かれた大樹は立ち尽くす。
強い恐怖に晒されていた人間がいきなり日常という静寂の中に投げ出されたのだ、大樹の混乱は半端ではない。
「え、あ?」
「鍵は? 返しに来てくれたんじゃないんですか?」
片手を差し出すこの男には、あれだけの騒動が何一つ聞こえなかったのだろうか。向かいの校舎とはいえ、あれだけのガラスが割れた音も、中庭で井戸の蓋がブロック敷きの上に転がった音も?
事務員の顔からは柔和な笑顔が消えていたけれど、それは何の裏もなく自分の言葉に答えもせずに突っ立っている大樹に対する苛立ちであるようだった。不機嫌そうに片手を突き出す。
「鍵!」
「あ、え? すみません、鍵を持っているのは俺じゃない」
「そうですか、困ったなあ」
男はため息をひとつついて、窓に向かって顔を向けた。
そこには誰もいないというのに、男の表情は再び柔和な――まるで愛するものに向けるような幸せそうな笑みを浮かべ、おどけたように肩をすくめてまで見せる。まるで窓の外からのぞきこんでいる『だれか』に見せ付けるように。




