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廊下は静かなのだから、三人が走る足音と恐怖に乱れた呼吸音だけが響く。
「あ!」
足元は不安定なスリッパ履きなのだ、足を滑らせた淳子が転ぶ。
「淳子!」
大樹がそんな彼女に飛びついて助けおこそうとしたそのとき、天窓のはめられたガラスがカタリと鳴った。
……カタカタ、カタカタ
水に落とした一滴のインクが広がってゆくように、窓を鳴らす音が廊下の静寂をかき消してゆく。その中に混じる小さな声……
『こ~わや、こわや、小輪谷団地の鬼ぃは……』
淳子が頭を抱え込んで耳をふさぐ。
「いや、いやぁぁぁぁ!」
「淳子、しっかりしろ、逃げるんだ!」
大樹はそんな彼女の両手首を掴んで開かせ、その瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「大丈夫だ、キミのことは俺が守る」
窓なりがさらに大きく、細かく鳴る。まるで大樹の言葉をあざ笑うかのように。
『お父さん、大嫌い』
廊下の一番奥、図書室の窓が砕ける音が廊下に響いた。
『嫌い嫌い、大嫌い』
パン、パン!と……今度は図書館の隣、多目的教室の窓がいっせいに割れる。
『八重樫先生も嫌い。お父さんを返してよ』
廊下の向こうから、ガラス窓を砕きながら何かがやってくる。目を凝らしても見えない空気色の、だが確かに質感を持つものが歩く足音が冷たい床を伝って、ペタリペタリと聞こえてくる。
「淳子、立て!」
大気が淳子の手を思い切り引いた瞬間、彼女の足に頼りなく張り付いていたスリッパの片方が脱げて飛んだ。
「あ」
淳子は無意識のうちに手を伸ばしたが、届くわけがない。大樹は開いていた昇降口から淳子を引きずって飛び出す。
そこにはすでに敷島が待ち構えていて、二人が出てきたと同時に引き戸を思い切りの力で叩き付けるようにして閉じた。
鍵の束を取り出し、ガチャリと鍵をかける。
「さあ、どうだ!」
何かがドアをバアンとたたいたがそれっきり、窓ガラスが割れることも、ドアがこじ開けられることもなく……あたりには静寂が戻った。
「たぶん、『本体』から離れすぎたせいだろう」
敷島は二人のほうを振り向きながら言った。
「つまり、あの小石自体が鬼をとどめておく入れ物であり、鬼の本体でもあるのだろう」
二人が恐怖で引きつる呼吸を取り戻そうと地面にへたり込んでいるのをみて、敷島は口調を厳しくした。
「おいおい、安心してへばっている場合じゃないぞ。あの鬼が本体に戻る前に、できればもっと遠くへ逃げたい」
「わかった」
大樹は淳子の手を引いてよろりと立ち上がる。
すでに夕日は校舎の向こうへ沈み、夕日は東の空から広がる夜の色に押されて西の天空のわずかを茜色に染める程度の力しか残っていないようだった。もはや中庭にも陽光よりも闇の色のほうが濃く漂い、特に校舎が黒々と影を落とすあたりは夜の気配に支配されている。
「一気に駆け抜けるぞ」
走り出した三人ではあったが、その足が中央付近で止まる。
真っ先に足を止めたのは淳子で、後の二人はそれにつられて立ち止まっただけだ。
「どうした?」
大樹が優しい声で聞くが、淳子は首を振って中庭の隅を指差すばかり……足元は怯えに震えて、もう一歩も進めないといった感じだ。
「怖いなら目を閉じていれば良い、俺がちゃんと手を引いてやるから、ほら」
それでも淳子は大樹の背後を指差すことをやめず、恐怖に乾ききった唇をやっとの思いで動かして、声を絞り出した。
「植……草……先生……」
ここは特に闇深い校舎の影の中、大樹が振り向けばその闇の根源である校舎の足元に、ぽつんと置かれた井戸が、さらに暗く映る。
井戸の蓋が動いていた。カタカタ、ガタガタと音を立てて、まるで内側から誰かが突き上げているかのように小さく跳ねている。
「ダメだ、淳子、みるな!」
大樹が叫んだときにはすでに時遅く、重たいはずの鉄の蓋はまるで紙でできているかのように軽々と吹き飛んで、数メートル離れたブロック敷きの上に落ちた。
「ひいっ!」
座り込もうとする淳子に駆け寄り、これを引き立たせる。
「早く、ここから離れるんだ!」
淳子を守るようにその体を抱えこんだ大樹をあざ笑うかのように、井戸の後ろにある教室の窓が大きな音を立てて砕け散った。
「お父さん、また私を置いていくの?」
割れた窓の隙間からヤヨイが這い出してくる。いや、正確にはヤヨイを抱えた得体の知れないものが這い出してくる。
なぜならヤヨイの足は、まったく地面に触れてさえいなかった。誰かに横抱きされているかのように体を中空に横たえて浮かんでいるのだ。
「そんな、あわてて逃げなくてもさあ、挨拶くらいしていけば?」
『何か』の腕の中から飛び降りたヤヨイは、井戸の傍に立ってその古びたコンクリートの表面をなぞった。
「八重樫先生も、植草先生に会いたいでしょ?」
何か重いものを引きずる音、これはどこから聞こえているのだろうか……井戸の上を吹いた風に胸が悪くなるような悪臭が混じるのは、何の匂いだろうか……そして、たったいま水から引き上げたものが無数の水滴を垂らしているような……井戸底の水面に落ちる水滴の音が聞こえてくるのは……
井戸のふちに手をかけて這い出してきたのは、元は人間だったのだろうとようやくに判別できるほど崩れきった醜怪な肉の塊であった。
「植草先生っ!」
淳子が悲鳴混じりにその名を呼んだのは、水で膨れ上がった青白い体に張り付いている布切れがその人物が好んで着用していたポロシャツの残骸だと気づいたから。
顔などはむくみきっていて、目がどこにあるのかも定かではない。手の指はすでに腐敗で溶け落ちたらしく、骨がむき出しになっている。生前の好々爺とした面影などどこにもなく、口と思しきあたりから泡交じりのよだれを垂らすそれは……バケモノだった。
ヤヨイが笑う。
「ねえ、お父さん、これ、どう思う?」
「まるでゾンビだな」
「そう、何度実験してもね、私が作るとゾンビになっちゃうの。だから、ユウちゃんを完全に生き返らせることができないの、大事な大事なお友達をゾンビにするわけにはいかないじゃない?」
「ゾンビだろうがタマシイだろうが、鬼だろうが、死者を生き返らせるなんて冒涜的だ!」
「あら、じゃあ、お父さんはなんで反魂ごっこをはじめたの?」
「それは……」
「お母さんは、どうしてあなたを生き返らせたの?」
「……分からない」
「本当に分からないの? お父さん、バカなんだね」
ヤヨイはすっと片手を上げて、傍らにいる見えない『何か』の体を撫でた。
「人が死ぬって、悲しいことだわ。相手が好きな人ならなおさらよね。もう一度会いたい、ずっと傍にいたい、そう思うのはあたりまえよね。そのときに、もしも、人を生き返らせる術を知っていたら、使わないわけがないでしょ」
「キミもそうなのか? その友人の死が悲しくて耐えられなかったんだな」
「あら、私がユウちゃんを生き返らせたいのはね、ずっと一緒にいるためよ。私とユウちゃんが仲良くしていると、大人たちは決まって邪魔をしようとするの、だから、私がユウちゃんを殺したの」
「殺した……」
「そう、あの屋上から突き落として、地面に散らばったユウちゃんは、上からみると真っ赤な花みたいで……キレイだった」
うっとりと目を細めたヤヨイが、顎をわずかに上げて目に見えない『何か』に唇を預ける。年端も行かぬ美しい少女二人が唇を重ねあう幻影が見えるような気がして、大樹は思わず目を覆った。
「やめろ!」
「なにを?」
「間違っている。死んだ人間を生き返らせようなんて、たとえできてもやっちゃいけないことなんだ!」
「お父さんもそういうことを言うのね、植草先生もそうだった」
ヤヨイは無様に揺れる肉塊を憎々しげに睨みつけた。
「教師面して、せーめーりんりとナントカっていうむずかしい話をしてくれたけど、大きなお世話だっていうのよ。だって、私、そんな難しい話は知らないけれど、生き物の生き返らせ方は知ってるもん」
「教師としてじゃない、父親として言うぞ! 死んだ者を生き返らせるなんて事はやめろ!」
「あ、ふ~ん、いまさら父親面ぁ?」
あきれきったように鼻先で笑いながら、ヤヨイは片手を挙げた。
「じゃあ、いらない。お父さんなんかいらない」
『植草先生だったもの』がゆらりと揺れながら両手を振り上げた。幸いに動きは遅い。
「淳子っ!」
放心状態で立っている彼女の体を抱きこんで、大樹は横とびにとんだ。振り下ろされた肉塊の腕は二人が立っていた場所に振り下ろされ、ブロックの模様を砕いて地面にめり込む。
ヤヨイがケラケラと不快な声をあげて笑う。
「よけちゃだめだよ、さっさと死んでよ、お父さん」
その後で顔を敷島に向け、彼が手の中に握りこんでいる和とじの本をじっとりと眺める。
「さて、そっちのおじさんは、それ、返してくれないかなあ。もうお父さんもお母さんも要らない、その本をもっと研究すれば良いだけだもの」
大樹が叫んだ。
「ダメだ、渡すな!」
「分かっているさ!」
敷島は大樹に背を向けて走り出す。長い付き合いのある親友だ、大樹はその行動の意味を正しく理解した。
「淳子、俺たちはこっちだ!」
敷島とは真逆に足を向けて走り出す。
ヤヨイはそんな彼らの背中を見比べながら少し迷う。
「どうしようかな、あの本は欲しいんだけど、お父さんのこともいじめてあげたいし」
ゴウと音を立てて、闇色の風が中庭を吹きぬける。
「ユウちゃん、頭良い! そうだね、本は植草先生にお願いして、私たちはお父さんを追っかけようか」
ヤヨイの体がふわりと宙に浮かぶ。誰かに抱きかかえられでもしたかのように。
肉塊はもそもそとつたなく両足を動かして、敷島のあとを追いはじめた。
「いっくよお、ユウちゃん!」
無邪気に叫ぶヤヨイは年相応に見えなくもない。そう、休日の公園で父親との鬼ごっこを楽しむような無垢さがある。
しかし、この鬼ごっこの決着は『死』である。
それを知っているからこそ、大樹は立ち止まるわけには行かない。淳子の手を引いてただひたすらに、走るのであった。




