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◇◇◇
「ふっ!」
呼吸を飲んで目を見開いた大樹が見たものは、先ほどと少しも変わらない図書室の光景だった。
おかっぱ頭の少女は漆黒の瞳をこちらに向けて立っている。その背後には和とじの本を抱えて立ち尽くす敷島の姿があって、ふと床をみれば淳子が全てをあきらめきったように四肢を投げ出して泣いている。
どうやら大樹が夢想に落ちていたのは、ほんの瞬きするほどの間だったらしい。
ヤヨイがにいっと笑った。
「どう? 思い出した?」
「いや、井戸に落ちた後の記憶が……本当にないんだ」
「あらそう、じゃあやっぱり、お母さんに聞くしかないのかな」
「お母さんって……」
「反魂の術、やったんでしょ、そのときも不十分だったみたいだけど」
大樹の顔に飽きたのか、ヤヨイはうっとりと半眼を閉じて白い小石を顔のまえに引き寄せる。
「私の夢はね、ユウちゃんを完全な『鬼』として生き返らせることなの。いまのユウちゃんも小さくて可愛いけれど、あのころみたいなサラサラの髪の毛も、プニプニの唇も、スベスベの肌もないんだもん。ギューって抱き合うための腕もないんだよ?」
小さく風が吹いた。まるでヤヨイに抗うように、大樹の足元から。
「ほおら、やっぱりお母さん、いるんじゃない。ねえ、完全な反魂の術のやり方、教えてよ」
「何を言っているんだ?」
「ん~、お母さんと話したいの。だからお父さんは黙っててね」
「いや、お母さんって……」
「お父さんには見えないんだね、常識とか、科学的とか、そんな言葉ばっかりで、お母さんのことをウソだって決め付けちゃってるから」
「み……見えるのか?」
「うん。お母さんはすごいよね、お父さんも、私ですらできなかった完全な反魂の術を成功させた。そのうえ、自分も鬼になって何年もお父さんを守ってあげてるの。自分のことをみつけてもくれない、ひどい男なのにね」
「つまり、俺は……」
「井戸に落とされた後の死体から作られた、完全なる鬼……ね」
つむじ風が吹き上がり、叱りつけるようにヤヨイの前髪を揺らす。
「なによ、本当のこと言って、何が悪いのよ」
天井から吹き降ろす風がつむじ風をはじき、ヤヨイの前髪はするりと撫で付けられたように整えられた。
「お母さんなんて大嫌い。いつもお父さんのことばっかりで、会いに来てもくれなかったくせに。たまには母親らしいことしてくれても良いんじゃない? さっさと反魂術の秘密を教えてよっ!」
ヤヨイが足を踏み鳴らすと、風が狂ったように図書室の中に吹き荒れる。重いはずの書棚はぐらりと揺れ、あちこちでバタバタと書物が落ちた。
「あ、それとも、お母さん、あれを怒っているの?」
ヤヨイが耳まで届きそうなほど唇の端を吊り上げる。
「私が生まれるときにワザとお母さんが死ぬように、血管をいくつか食い破ったの、あれを恨んでるの?」
大樹の全身に冷や汗が吹きだす。
「キミがサヤカを殺した……?」
「あれ~、もしかしてお父さんも怒っているの? まさかね。だってお父さん、私が鬼だって信じないんでしょ?」
「そうだ、俺は鬼なんて……」
強い風に翻弄されながらも、敷島が叫ぶ。
「高坂、真実だ! 『真実』をまっすぐ見ろ!」
「おじさん、ちょっとうるさい」
ヤヨイはちょっと片手を挙げただけだ。彼女の手の中で白い小石は光ったようにも見えたが、それは光の加減だと言われてしまえばそれだけのこと。
しかし、背の高い本棚が敷島めがけて倒れこんだ瞬間、大樹はそのすべてが偶然などではないということを確信した。
ヤヨイが片手を挙げたのは合図だ。それに呼応して白い石は光り、そこを仮宿とする鬼を解き放った。鬼は目には見えぬ大きな手をふりあげ、敷島に向けて本棚を引き倒したのだろう。
そうでなければ、敷島に対して決して水平ではなかったあの棚が、まっすぐに彼を押しつぶそうとする理由を『説明できない』。
「敷島ぁ!」
思わず差し伸べた大樹の手の動きに呼応したかのように、斜めの状態で本棚の動きがぴたりと止まった。頭上から無数の書籍が降り注ぐが、敷島はそれを両手で払いのけて棚下から逃げ出す。
大樹がほっと腕の力を抜くと、静止画のように固まっていた本棚は動きを取り戻して床に倒れこんだ。
ホコリが舞い上がる。
「そうか、サヤカ、キミか」
大樹は呆然とした顔でつぶやいたが、ヤヨイにはこれさえも予想しうる出来事だったのだろう、ぺろりと唇を湿らせるように舌なめずりをした。
「そう、お母さん、どうしてもお父さんの味方をするわけね」
彼女が手をかざすと、部屋の真ん中に風柱が上がり、床に落ちていた本を巻き上げた。
「ねえ、お父さん、私、あなたのことも嫌いなの。ずっとずっと、私がいることさえ知らずに幸せに暮らしてきたあなたが、大嫌いなの!」
羽ばたくような音を立てて、無数の本が四方八方へと飛び散る。まるで散弾銃だ。
大樹は目の前に飛んできた何冊かの本を両手で叩き落し、いまだ床に臥せっている淳子に声をかけた。
「淳子、大丈夫か? 立てるか?」
「う、なんとか……」
「敷島! 逃げるぞ!」
大樹はよろめく淳子に肩を貸し、敷島は和とじの本をしっかりと胸に抱えて、三人は薄暗い廊下へと飛び出した。
「ふふ、ふふふふ、鬼ごっこってワケね、いいわ、遊んであげる」
ヤヨイの声は後ろから追ってくるようにも、前から向かってくるようにも思える。いや、人のいない空っぽの教室を共鳴させて、まるで学校そのものがヤヨイの声帯の中に在るみたいだ。
「後ろをみるな、ともかく出口へ!」
転がるように走る三人の背中を押すように優しい風が、しかし、強く吹くのであった。