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大樹が引っ張り出したのは確かに和とじの本であるが古びているわけでもなく、そんなに珍しいものには見えない。土産物屋で売っている地方の民話集などワザとこういった装丁にしてあるのだし、そういうものの類だといわれれば納得するくらいの、ごく普通の本であった。
それを大樹の手から奪った敷島は、背表紙のほうからパラパラと慌しくページをめくって奥付を探す。そして、そこに書かれている名前を見てうめいた。
「ビンゴだよ」
二人が敷島の手元を覗き込めば、そこには朱文字で『寄贈 鬼頭幸一』と書き込みされているのが見える。
淳子が驚きの声をあげた。
「これ、鬼頭ヤヨイの保護者の……おじいさんの名前です!」
大樹も反射的に驚きの声を返した。
「なんだって? サヤカの父親の名前と同じだ!」
「つまり、鬼頭さんのお母さんって……」
二人が顔を見合わせる中、敷島だけは低い本棚の上に優雅に足を組んで座り、その本のページをパラパラとめくりはじめた。
「ほう、キミが使ったのはここだね、鬼を呼ぶには『カガチをたどりてゆくべし』とある」
敷島が肉厚い紙をめくる音が、ぺらり、すらりと、静かな図書室の中に響いた。他には何の音もしない、完全なる沈黙だけが校舎内を支配している。
その静寂の中を音もなく一陣の風が吹きぬけ、閉まっているはずの窓際に座った敷島の前髪を揺らす。
「ん?」
思わず顔を上げた敷島は、すぐに口元に人差し指を立てた。
「しっ、何か聞こえないか?」
その視線は自分を見上げる大樹と淳子を飛び越えて入り口のドアを透かしてみようとしているみたいだ。
こういう建物にありがちな事だが、図書室は廊下の突き当たりに大きく作られている。半開きになったドアの向こうにはまっすぐに伸びる長い廊下が見えて、そこにはもちろん、動くものは一つもない。
耳を澄ましても、静寂しか聞こえない。
「頼むから、あんまり怖いこと言うなよ、敷島~」
大樹が少し引きつり気味に笑い飛ばそうとしたそのとき、鈴を転がすような愛くるしい声がどこからか聞こえてきた。
「こ~わや、こわや、小輪谷団地の鬼ぃは……」
廊下のずっと奥のほうから響くようにも、書架の間から聞こえるようにも感じる、不思議と距離感のつかめぬ夢想に似た声。
「い~つ、いつ、来ぃやある……」
すでに淳子は失神寸前、ガチガチと歯の根を噛み鳴らして震える体をかき抱いている。
敷島だけがひどく冷静で、悪鬼すらも凍りつくのではないかというほど冷たい声をだす。
「そういう演出はいらないから。さっさと入ってきたらどうだい」
歌声に加えて、ドアの陰から小さくクスクス笑う声が聞こえた。
「後ろの正面だぁれ」
「なるほど、後ろの正面ね」
敷島が振り向くと、そこには何の前触れもなく……ヤヨイが立っていた。
大樹は悲鳴を上げてすくみ上がり、淳子にいたってはもはや悲鳴さえ声にならず、だらしなく床に両手足をついてドアに向かって這い逃げる。
そんな淳子の鼻先で、ドアはぴしゃりと音を立てて閉まった。
「ダメよ、八重樫先生、ここにいて」
床に這いつくばってしくしくと泣き出す淳子をチラリとだけ見たあとで、ヤヨイは敷島に視線を移した。
「あなたはだあれ?」
「キミこそ誰だ?」
「私は鬼頭……」
ヤヨイは口を閉じて少し首をかしげた。答えるべきは自分の名前だというのに、その名前が思いつかないといった様子で……長い間があく。
とつぜん、ヤヨイは右手をすうっと上げて、その中に握りこんでいた白い小石を口元によせた。
「ねえ、ユウちゃん、このおじさん、なんか変じゃない?」
まるで接吻を落とすように、紅色の唇が言葉と共に白い石肌をなぞる。
「うん、そうだね、わたしたちに必要なのはこのおじさんじゃないもんね、殺しちゃおうか」
ヤヨイの足元から強い風が吹き上がり、それは天井まで一気に跳ね上がった後でつむじをまきながら吹きあれた。
風の逃げ場のない図書室の中だ、カーテン止めは音を立てて弾け飛び、全てのカーテンがバタバタと音を立ててはためく。
「ねえ、おじさん、私、本気だよ」
それでも敷島はひるむことすらない。吹き付ける強風に顔をしかめながらも、声だけは凛として厳しい。
「ボクが必要じゃないなら、誰が必要なんだい?」
ヤヨイがすうっと片手を挙げて、大樹を指し示した。
「新人先生……ううん、お父さんって呼んであげたほうが、うれしい?」
大樹が身を折るようにして大声を上げる。
「ウソだ! 産み月の計算が合わないじゃないか!」
「そうね、人の子供なら計算が合わないわよね」
「自分は人じゃない、とでも言うのか?」
「そうよ」
「じゃあ、お前は……お前は……」
「鬼の子よ」
しれっと言い放ったヤヨイの姿が掻き消えた……と思ったのは一瞬のことで、次の瞬間には腰を抜かして座り込んだ大樹の目の前に現れ、うっとりした目でその体を見下ろす。
「ああ、本当に完璧だわ。まさかここまで完全に人を生き返らせることができるなんて」
小さな手のひらが、恐怖に震える大樹の頬をなぞった。
「ちゃんと温かい人の肉……すばらしい」
「何を言ってるんだ?」
「まだわかんないの、新人先生、バカだね」
ヤヨイがすっと手を引っ込めるから、大樹の体からわずかばかり恐怖の感覚が抜け、彼はホッとため息をついた。
しかしそれも一瞬のこと、ヤヨイが微笑みながら言い放った言葉に、全身の地が凍りつく。
「先生は、死んでるんだよ」
「な……」
「死んで、反魂の術で生き返らされた、『鬼』なの」
敷島が唸る。
「なるほど、生き返らされた人間が『鬼』か……だからその子供であるキミも」
「そう、鬼なの」
「誰が高坂を生き返らせたんだ?」
「私のお母さん……鬼頭サヤカ……」
大樹が身をよじり、こぶしで床を叩く。
「ウソだ、ウソだウソだウソだ、ウソだっ!」
「ウソじゃないわ。だから私は普通の子供より成長が早かった。三月目のときには、もう、胎の皮越しに聞こえる大人たちの言葉が理解できるくらいにね」
「ウソだ、サヤカは優しい子だった。そんな恐ろしいことをするわけが……」
「あれは優しいんじゃない、バカなのよ。せっかく鬼にしたあなたのことを自由にしてあげたいって、何度もおじいちゃんと言い争いして……くすっ、私なら、自分の作った鬼を手放したりしない。ずうっとずうっと傍において、ずうっとずうっと一緒にいるの。ね、ユウちゃん」
白い小石に頬ずりするヤヨイは美しい。
小石の白とヤヨイの肌の白を、宵闇の訪れを呼ぶ茜色の夕日がくっきりとしたオレンジ色に染めて、まるでほおずきの薄皮一枚を透かして覗き込んだような温かい光景がそこにはあった。
しかし、うっとりと半開きになった瞳は暗くて深くて……底知れぬ井戸の闇を思わせるような奥行きを感じて恐ろしい。
その瞳がぎろりと動き、大樹を見据えた。
「ねえ、だから、教えて」
「何を?」
「どうやったら、あなたみたいに肉を持った完全な鬼ができるのか……」
「知らない。俺は何も生き返らせることはできなかった、あのときの子猫も……」
「ふうん? でも、生き返らせてもらった記憶はあるんでしょ」
「それも、知らない……」
「じゃあ、思い出してよ、今すぐ」
ヤヨイの瞳が漆黒の色に光る。大樹はその色に心奪われて、彼女の瞳から目を離すことができない。
とつぜん、写真の百枚ほどをばら撒かれでもしたように、頭の中いっぱいに記憶が散らばる。
「あぐ……あ……」
頭を抱えてしまいたいのに、漆黒の瞳に射すくめられて指先ひとつ動かせない。
「ねえ、思い出してよ」
ゆっくりと気が遠くなってゆくのを感じて、大樹は目をとじた。意識が、ばら撒かれる記憶の中に、突然、吸いこまれた。




