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敷島はこの蓋に未練があるらしく、今度は鉄板の表面に耳を押し付ける。まるで中にいる『何か』の呼吸の音を聞き取ろうとしているような、ひどく真剣な表情であった。
「おそらく一般常識を持ち合わせた大人なら、この蓋が必要以上に重たいことによって小学生の力では『持ち上がるはずがない』と判断するはずだ、もちろん、当の小学生たちもね。だから高坂少年はこの井戸の蓋を持ち上げることをあきらめて、井戸の傍で一晩過ごすという代呪を行おうとした。そうだろ、高坂?」
「ああ、確かにここで小石を抱いて一晩過ごした。『つるべの下に隠れた』を俺なりに解釈した結果だ」
「なぜ、この蓋を持ってみなかったんだ?」
「まさか! キミだってさっき、この蓋の重さを体感しただろう? こんな鉄の塊が、まして小学生だった俺に持ち上がるわけが無いだろう!」
「やってみたまえ」
敷島の声は冷たく、固い。淳子の心臓が恐怖に縮み上がる。
「やめましょうよ、どうせ持ち上がるわけがないです。それに、そこを開けるのは……あの……怖いです」
「ほう、お嬢さんはするどいね、女の勘ってやつかな?」
敷島は井戸の蓋から耳を離した。
「でもお嬢さん、その顔では自分がなぜこの井戸を恐ろしいと思っているのか、理解していないでしょう」
繊細そうな長い指がコツコツと鉄板の表面を叩いてリズムを刻む。
「行方不明になった植草先生でしたっけ、その人の死体は見つかったんですか?」
「いいえ、見つかっていないからこそ行方不明なんでしょ」
「理由は? その人が行方不明になる理由、なんかあったんですかね?」
コツコツ、コツコツ、と、無作為なリズムは取り留めなくて不快である。耳をふさぎたくなるほどに。
困りきった淳子は大樹の顔を見た。
彼はひどく緊張している様子で、頬の辺りがこわばっているのが見て取れた。
「淳子、聞きたいか、あいつが考えていることを……」
やや口ごもりがちに、彼は話し出す。
「敷島は、あの中に植草先生がいると思っているんだろう。もちろん、死体だがね」
「そんな!」
「ああ、そんなことはありえない。なぜなら小学生である鬼頭ヤヨイではあの蓋を開けることなど無理だろう」
敷島が「は!」と嗤い声をあげた。
「『真実』を見ろといっただろ、ここにつるべはないが、『つるべの下』、つまり井戸は存在する。そして呪術には必ず代償が必要だ。いけにえをつるべの下に『隠した』と考えるのは何も不自然な推理ではないだろう」
「無理だ! 小学生の、しかも女児がどうやってその蓋を開けるっていうんだ!」
「そうだね、小学生の女児なら確かに無理だろう。それでも協力者や、重機を使うなど、荒唐無稽なつじつまあわせの推理でよければ、ボクですら、いくらだって思いつくけれどね、それはいささか推理ドラマじみていてうそ臭いだろ」
敷島は指を止めて、大樹の顔をまっすぐに見た。それは親友としての付き合いが長い大樹ですら初めて見る、彼の本気の表情であった。
「世界をもっとシンプルに考えようよ。鬼頭ヤヨイはいけにえをつるべの下に隠す必要があった、そしてつるべの下はここにある。そして、小学生の女児には重過ぎる蓋が、彼女にとっても必ず重いものなのだろうか」
「重いに決まっているだろう!」
「へえ、検証したのかい?」
「いや、それは……」
「では、ためしにこの蓋を持ち上げてみたまえ」
「どうして、俺が……」
淳子はそんな大樹の袖を引く。
「おねがい、やめて……」
まぶたの裏に、暗い、暗い井戸の底の幻影が思い浮かんで仕方ない。両膝が小さく震える。
「怖い……」
丸くて狭い空間に淀みたまった水は暗い。そこに浮いているのは真っ白いシャツを着た死体だ。シャツの袖からにゅっと突き出てた腕はだらしなく水面にあわせて揺れている。長く水に浸かっていた皮膚は膨れきって青白い。
その腕が、とつぜん……
「いやぁああああ!」
悲鳴を上げながらひざを崩した淳子は、しかし、大樹の腕に抱きとめられて地面に倒れこむようなことはなかった。
「おい、だいじょうぶか?」
心配そうに顔を覗き込む彼の首筋に腕を回して、その体に縋りつく。
「いや! ここを開けるのはいや!」
「わかった、わかったよ。何かを検証したいって言うんなら後日、淳子がいないときにしよう。それでいいか、敷島?」
「ふむ、まあ仕方なかろう。ボクもそちらのお嬢さんをいじめたいわけじゃないからね」
「ほら、わかっただろ、淳子、もう大丈夫だから離れて」
それでも淳子の腕は恐怖にこわばり、大樹の体を放そうとはしない。
「大丈夫、大丈夫」
大樹はそんな彼女の背中をなでてやろうと手を伸ばす。その慣れた手つきを責めるように、風が吹いた。
「風……?」
敷島が顔をしかめて振り向いたのは、その風が井戸のほうから吹き上がってきたように感じたからだ。しかし井戸には大きな鉄の蓋が、相変わらず不動の構えでどっしりとのっかっている。
「気のせいか」
二人がかりで淳子を宥めながら、彼らは図書室へと向かった。
当然のことながら、休日の学校に人の声はない。いつもは子供たちの明るい気配で満ちている廊下も静寂の音が聞こえそうなほどに静まり返って薄暗い。ただ三人がペタペタと踏み鳴らすスリッパ履きの足音だけが、冷たい床の上を這って静かな校舎の中に染み渡ってゆくみたいだ。
その静けさに耐えかねたか、淳子がぶるりと胴震いをした。その斜め後ろを敷島は歩いていたのだから、この怯えにすぐ気づく。
「お嬢さん、怖いなら帰ってもいいんですよ」
「いいえ、大丈夫です」
「いいねえ、気が強い、いい女の条件の一つだ」
「そんな冗談を言ってないで、これが呪術だとしたら、誰が仕込んだものかわかっているんですか?」
「『小輪谷の鬼頭』だと、ボクは思ってるんですけれどねえ」
「『小輪谷の鬼頭』……」
誰もいないはずの校舎の中を風が吹きぬけたのは、恐怖が見せる幻覚の一種だろうか……いや、確かに風は吹いた。淳子の声をさらうように、ハッキリと。
「ひぃいいいい!」
頭をかかえこむようにして立ち尽くす淳子の背中を、大樹がやさしくかかえこむ。
「どうした?」
「風……風が!」
「風?」
大樹と敷島は顔を見合わせた。
「気づいたか?」
「いや」
「本当に吹いたのよ、風が!」
淳子の叫びは教室の窓ガラスに反響して柔らかくゆがみ、静かな校舎に響き渡る。
大樹はそんな彼女の背中をやさしく押した。
「そうやって必要以上に怯えていると、なんでもかんでも怖い出来事に結び付けたくなるものさ。大丈夫、ただの風だろ」
ちょうど図書室は目の前だ。敷島は鍵の束を取り出し、いま、まさにその一本を鍵穴に差し込もうとしている。
(もう戻れない)
淳子は覚悟を決めてきゅうっと両手を握り締めた。掌に食い込む爪の痛みに正気を預ける。
「行きましょう」
足を踏み入れた図書室はあきれるほど普通で、それがかえって恐ろしい。
もちろん、風は吹いていない。子供用の背の低い書架が整然と並び、そこにぎっしりと詰めこまれた本の背表紙に大きな窓から降り注ぐ夕日が温かい茜色の光を添えている。
「で、例の本は?」
「たしか、本棚の隅っこのほうに置かれていた記憶があるんだ。どの棚だったかなあ」
うろうろと書架の間を歩き回る男たちを尻目に、淳子はカウンターにあったパソコンの電源を入れる。
「図書室の本っていうのは定期的に整理されるものです。いつまでも同じところにあるわけがないでしょう。書籍名、なんでしたっけ?」
「え、ああ、『小輪谷禍事録』」
「Aの3列、窓際の背の低い本棚の真ん中あたりです」
男たちが片ひざをついて腰ぐらいまでしかない本棚の中を覗き込む。淳子もパソコンの前を離れ、二人の肩越しに本の背表紙を覗き込んだ。
「ありました?」
「ああ、多分これだ」