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「いいや、一週間後、とつぜんひょっこりと帰ってきたそうだ」
「一週間も?」
母の狂気の原因が分かるような気がした。
息子が一週間も帰ってこないという記憶はどれほど精神を蝕むことだろう。もしかしたらもう生きていないかも知れないと思いつつ、縋るような気持ちでわが子を訪ね歩く行為がどれほどに正気を失わせたのだろうか……
「おい、また何か合理的な言い訳でもつけようとしているんじゃないだろうな」
敷島の厳しい声に、はっと我を取り戻す。
「いや、そもそも一週間も、俺はどこにいたんだ」
「むしろこっちが聞きたいよ。だれかこのことについて取材できそうな友人は?」
「たぶん、この団地内にはいない。あのころ俺がつるんでいた友人はいわゆる転勤族ってやつが多くて、友人の入れ替わりは激しかったんだ」
淳子が「あ」と口元を押さえる。
「外から来た子!」
「ああ、確かに、そういわれることも多かったな。でも、サヤカは昔からこの団地に住んでいる子供だったぞ」
「しかし、そのサヤカくんは死んでいるから取材はできない、と」
「取材したいなら、あとでだれか探してみるよ。とりあえずいまは、図書室に行こう」
「ああ、そうそう、そうだったね」
鉄製の校門を引き開く。校庭が砂埃でかすむほど強い風が巻き起こり、三人は少し立ち止まらざるをえなかった。
「また風か」
つぶやく大樹に、淳子が身を寄せる。敷島は不思議そうな顔で大樹の言葉に疑問を投げた。
「風がどうかしたのか?」
「いや、最近特に風が吹く日が多いな、と思ってさ」
「風がねえ、このあたりはそんなに風が吹くのかい?」
敷島がこの質問を投げた先は淳子だ。彼女も不思議そうに首を軽くかしげ、そして答えた。
「いいえ、確かに団地街だからビル風は吹くけれど、そんなに気になるほど強く吹いた日はないんじゃないかしら」
「ふむ、風ねえ」
敷島は校庭を見回す。すでに砂埃もおさまった校庭にはそよと優しい風が吹くばかり、のどかな光景だ。
「まあ、いいだろう、図書室に案内してくれよ」
「ああ、こっちだ」
いくら教師である大樹と淳子がいるとはいっても、本来なら二人とも出勤のない休日だ。おまけに敷島は部外者である。最初に彼らは職員室に寄る必要があった。
職員室にいたのは休日の当番である教師が二人と、事務のおじさんが一人。定年間近い事務員は、敷島の風体をうろんな目で嘗め回すように見る。
「出版社の人ねえ……」
「はい、教育関係の書籍もいくつか出版している会社なんですが、目にされたことはありませんか?」
責めるような口調とともにポケットから取り出されたぴかぴかの名刺入れは、もちろん彼なりのハッタリ……人心操作術だ。
事務員は急に恥じ入ったように身を縮めて鍵束を差し出した。
「あ、いやいや、取材でしたっけね、どうぞごゆっくり」
自ら鍵の束を受け取って、敷島は得意げに大樹と淳子を見やる。そして大見得を切るように手を広げ、廊下の向こうを指差した。
「さあ、行こうじゃないか」
「いや、図書室はこっちだから」
「おっと、これは失敬」
校舎はすべて施錠されているのだから、図書室のある南棟へ行くには中庭を横切る必要がある。ここは大樹が卒業した後、洒落た公園風に整備されていて当時の面影はない。
金網が破れかけた飼育小屋はきれいに撤去され、そこに据えられたレンガ囲いの花壇に色とりどりのパンジーがあふれるほどに植えられている。足元はブロック材をあじろ模様に組んで敷き詰めてあり、校舎の真ん中をはさんでシンメトリーになるように植え込みとベンチが配されている。
その中庭のちょうど中ほどに来たとき、敷島が足を止めて大きな声をあげた。
「ちょっとまってくれ、ここは小学校だよな、なぜあんなものがあるんだ?」
彼が指差したのは、中庭の隅、校舎の壁に寄り添うようにしてどっしりと置かれた古井戸だった。もちろん、いまは使われていないのだからポンプなど乗せていない。一メートルほどの円形にコンクリートで固め、その上に鉄製の蓋をのせたものだ。
「児童の安全のためにも、こんなものはさっさと埋めてしまうべきだろう」
「いや、学校って避難所にもなるから、緊急時に使えるように防災井戸ってけっこうあるらしいぞ」
「それならばきちんとポンプを置いて、いつでも使えるように管理されているものであるはずだ。これはどうみてもただの古井戸じゃないか」
確かに入り口の径はゆうに1メートルを越すだろうか、それでもふたがしっかりと閉められているのだから、誰かが落下するような恐れもないだろうに、敷島はひどくおこっていた。
淳子が恐る恐る井戸の所在する理由を話す。
「あの、この学校の土地を寄贈してくれた地主さんの意向を汲んでのことです」
「地主がこの井戸を残せと言った?」
「そう聞きました……」
「なるほど、これも術式のひとつというわけか」
「こんな古井戸が?」
「お嬢さん、黄泉の国を知っているかい?」
「ええ、まあ、古事記に出てくる程度のことは」
「黄泉の国とは、漢字を読み解けば『地下の泉の国』という意味になるんだよ、つまり地面の下に水をたたえた井戸というものは、呪術においてあの世とこの世をつなぐ道として使われることが多い。よく民間伝承では殺した死体を井戸に捨てることが多いが、あれは死体を隠すというよりは死者の魂が早くあの世に帰るようにという呪術的な意味合いが強いんだよ」
「井戸に死体なんか捨てたら、その井戸は気持ち悪くて使えませんものね」
「そう、だからこそ生活の要である井戸を汚すことによって、より強い呪の結界を張ることができるんだ」
とうとうと語るのみならず、自ら井戸に近づいて蓋の上に手を置く探究心と勇気にも淳子は感心した。彼の話を聞いてしまった淳子はできれば一刻も早くこの井戸の傍から離れてしまいたいと思う程度には怯えていたからだ。ましてや黄泉の国へ続くかも知れぬ深い穴に触れるなど、到底できぬことだと思われた。
ところが敷島は蓋のふちに手をかけ、これを持ち上げようとまでしている。
「く、やはり重いな」
見た目よりも分厚い鉄の塊は、大人の力でもびくともするものではなかった。
「ふう、だめか」
敷島が蓋から手を離すと、淳子の肩からもほっと力が抜ける。彼女は、この光景をひどく恐ろしいものだと思っていたのだ。
男の足元にあるのは一メートルに満たないコンクリートの立ち上がり部分だけである。だが、この下に深く、どこまで続くか分からない穴倉があるのだと思うと恐ろしい。蓋で陽光をさえぎられ、たっぷりと闇を蓄えた穴の底にうずくまる『何か』の気配がコンクリートの表面ににじみ上がっているような気にさえなる。
だから、それを封じる蓋が動かないということは淳子にとっては僥倖であった。声音もいくぶん明るくなる。
「そんな簡単に開いたら、誰か落っこちちゃって危ないからじゃないですか。小学生の子供なんていたずら盛りなんだし、誰がこの蓋を外すかわからない、だからワザと重くしてあるんだと思いますよ」
しかし、それに返された敷島の言葉は淳子の意図とは少し食い違ったものであった。
「そう、誰でもが開けられるようでは術士の選別には使えないからね」




