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玄関を開けた大樹が最初に耳にしたのは、母親が誰かと話す声だった。
「大丈夫よ、私からちゃんと叱っておくからね、何も心配しないで」
誰ぞと電話でもしているのだろうかと軽い気持ちでリビングのドアを開ける。しかし母は一人きり、食卓にポツリと腰掛けて目の前の壁に向かって話しかけている最中だった。
テーブルの上に二人分の湯飲みと茶菓が並んでいることに違和感を覚えて、大樹は母を呼ぶ。
「母さん、一体だれと話してるんだよ」
ゆっくりと振り向いた母の瞳に狂気の影を見取って、大樹はふるえた。母の病状も安定している、もう大丈夫だろうと淳子を連れてきたのだが、それは間違いだったかもしれない。
そう思っても、すでに淳子は「お邪魔します」と小さな声で言いながら大樹についてリビングに足を踏み入れてしまっている。大樹はとっさに彼女を守る壁のように立ちはだかり、ぐいと胸を張った。
「母さん! 誰と話してたんだよ!」
「あら、サヤカちゃんとよ」
「よく見て! どこにあいつがいるんだよ!」
ふっと自分の向かいの席に目を移した母親は不思議そうに首をかしげる。
「あら、いままでそこにいたのに、変ねえ」
きょろきょろと部屋を見回す母親が次に視線をとめたのは、大樹の背中から息を飲むようにして覗き込んでいる淳子の姿に、だった。
「ああ、あんたがサヤカちゃんの言っていた泥棒猫ね」
大樹が大声でこれをたしなめる。
「母さん!」
しかし母親はゆらりと揺れて、椅子から立ち上がる。
「うちの子にはサヤカちゃんっていうお嫁さんがちゃんといるのよ、近づかないでくれる?」
身をすくめる淳子を守ろうと、大樹は一歩前にでた。
「母さん、俺には嫁なんかいないよ、むしろいま、この淳子との将来を大真面目に考えているんだ!」
母の細い手が大樹の胸倉を掴んだ。
「そんな恥知らずな子に育てた覚えはないよ! サヤカちゃんを泣かせるつもりなの?」
「だから、母さん、サヤカなんかいないんだって!」
「いない?」
「母さん、よく聞いて、サヤカはもう死んでいるんだ」
「死……」
胸元を掴む腕から、母の震えが伝わってくる。腕を、肩を、そして全身を震わせて、細い腕は力を失ったようにするりと大樹の胸倉から離れた。
「死……死ぬ……いない……死んだ……」
床に倒れこもうとする母の体を両手で支えとめて、大樹は淳子に目配せする。
「キッチンの一番上の引き出しに薬が入っている。あと、水!」
「あ、はい!」
その間も、母親は大樹の腕の中で体を震わせ、うわごとのようにその名を呼ぶ。
「大樹……大樹……」
「母さん、俺はここにいるよ」
「お願い、大樹、どこにも行かないで、いなくならないで、『あの時』みたいな思いをするのはもういや」
「あの時?」
「あんたが死んだって聞かされて……死んだ……死んだ?」
「母さん、意識が混濁しているだけだから、もうなんにも考えなくていいから!」
「混濁なんかしていない」
「だって、俺が死んだなら、いまここにいる俺はなんなの!」
「あんたは……そう、サヤカちゃんが連れてきてくれたの。だから、サヤカちゃんじゃなきゃダメなの。あの女じゃダメよ!」
母親が両手を振り回して上がれるから、大樹はその体を支えきれなくなってそっと手を離した。床の上に転がって、彼女はわがままな子供のようにじたばたと身悶える。
「お願い、その女を追い出して! サヤカちゃんを、あの子を呼んできて!」
「いいから母さん、大人しく薬を飲んで!」
押さえつけるようにして飲ませた薬が効いたのだろうか、しばらくすると母親は急に意識を失ったように深い眠りに落ちて床に伏せた。
その体をソファまで運んでやりながら、大樹は淳子に声をかける。
「ごめんな、みっともないところをみせちゃったな」
大げさに首を横に振って見せながらも、淳子は言葉の一つも発せぬほど狼狽している。
テーブルの上の茶碗からわずかに立ち上る湯気を、小さな風がゆらりと揺らした。まるで淳子をあざ笑うかのように。
しかしその風はあまりにも小さくて、大樹にも、淳子にさえ気づかれることはなかった。
二人は急いで家を出る。待ち合わせの時間まではあと少し、早足で歩いてやっと小輪谷小学校の前に着くだろうか。
レンガ敷きの遊歩道を歩きながら、やっと言葉を取り戻したか淳子がポソリとつぶやく。
「ごめんなさい」
「なにが?」
「お母さんが急に暴れだしたの、私が原因でしょ」
「いや、別に。思えば急に快復したんだから、急に悪化することだってある、それを考慮しなかった俺が悪い」
「でも……」
「いいから、早く行こう」
後は無言で、ただ歩く。
小輪谷小学校の前でまっていた敷島は、そんな二人の様子をみて首をかしげた。
「ケンカでもした?」
「いや、別に。それより、調べ物はできたのかよ」
「ああ、ばっちり、だが……そっちのお嬢さんに聞かせてもいいのか?」
敷島は上着のポケットからていねいに畳まれたコピー用紙を出してひらひらと振る。
「お嬢さん、キミにも聞きたい。この先を知ろうと思えば、キミの愛するこの男が何者なのかを知ることになるだろう。その絶望にキミは耐えられるのかい?」
コピー用紙の一角を小粋に口元に当てて、彼はこうも付け加えた。
「別にキミたちさあ、まだ付き合っているだけじゃない? いまなら傷つくこともなくお互い別々の人生に戻れると思うのよ」
大樹は唇を噛んでうつむく。確かに敷島の言う通りなのだ。
母親のことだってそうだ、今日のように何かの拍子に精神状態が悪くなって暴れることは、これから先にいくらでもあるだろう。そんな人生の重責を愛の身を代償として彼女に背負わせるのも忍びない。
「それでも俺は……」
苦々しくつぶやく大樹の声をさえぎって、淳子がひどくはっきりとした声で答えた。
「それでも私は、大樹さんの傍にいようと思います。ダメですか?」
敷島がにやりと笑う。
「いい答えだ、おい、愛されてんなあ、高坂」
彼はコピー用紙を二人に向けて差し出し、眉をきりりと引き上げた。いかにも重大なことを語ろうとしている、重々しい雰囲気がその身からにじみ出ていた。
「もちろんこの先、逃げたくなったらいつでも逃げ出せばいい、世間がどう思おうと、ボクはキミを不人情だと責めることはないよ」
「いいえ、ちゃんとついていきます、大樹さんに」
彼女の掌にきゅうっと片手を捕まれて、大樹は身のうちに熱いものが駆け巡るのを感じた。自分よりもはるかに大きな大樹の手を包み込もうというのか、彼女の握力は強くて心地よくて、世界の全てに許されたような気分になる。
「わかった、ちゃんとついてきてくれ、淳子」
小さな手をきゅっと握り返してから、大樹は敷島が差し出すコピー用紙を受け取った。
広げてみればそれは新聞の一部をコピーしたもので、日付は12年前の11月14日と読み取れる。紙面は地方面らしく、囲み記事になった投稿川柳と、交通安全に関する特集の一部、いちばん隅に何気なく置かれた見出しを読んだとたん、大樹の顔からさっと血の気が引いた。
「小学生男子行方不明……」
「行方不明になったのは小輪谷小学校6年の『高坂 大樹』くんだそうだ」
「俺?」
「同姓同名でもない限りは、そうだろうね」
「いや、分かってる、全校のなかで『高坂 大樹』は俺一人だった。分かってる」
「で、この記憶は?」
「ない。行方不明になったなんて記憶は……あ!」
大樹がひどく狼狽したのは、先ほど自分の母親が狂気の中で叫んだ言葉を思い出したからだ。
「まさか、これで俺は死んだとか?」




