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あまりにありきたりな、一年前には当たり前だった食卓の光景がそこにはあった。
膨らむ不安に耐え切れず、大樹が口を開く。
「母さん、父さんは……」
「ああ、たぶん今夜も遅いんでしょう、いいから、先にごはんいただいちゃいましょう」
彼女があまりに穏やかな表情をしているものだから、大樹はそれ以上の言葉を失って口をつぐんだ。
これがはじまりだった。
最初のうちは大樹も、これを仕方のないことだと許容していた。この一年余り、母親がふさぎがちで、時々はしつこく流れる涙を隠して台所の隅で泣いていたことを知っている。だからこそ、このまま悲しいことを忘れてしまうことができるなら、それもまた救いなのではないかと大樹は考えたのだ。
ところが、彼女の狂気はすぐに暴力を伴うものとなった。
「あんた、誰よ」
仕事から帰ってきた大樹を、頑として息子と認めず玄関で押し問答したこともある。
「うちの息子はまだ小学生よ、あんたみたいなおじさんじゃない!」
自衛のためだろう、彼女は手に当たるもの全てを大樹に投げつけた。安っぽい陶器の花瓶は壁に当たって砕け、キーホルダーのついた鍵が大樹の頬を掠めてドアにはめこまれた飾りガラスを割り砕いた。
またある時は往来に飛び出して、人目もはばからずに泣き狂う。
「いやだ、家に帰して! ここは家じゃない、家に帰らせて!」
大樹が追いかけて家に連れ帰ろうとすれば、ますます暴れて手がつけられないことになるのだ。女の力だからといって侮ってはいけない、常識や道徳の枠を失って暴れる狂人の力というのは破壊的である。
大樹の体にはいくつのもあざができ、二の腕には深く噛み付かれた歯形の傷が残った。
それに耐えかねていくつかの精神科をまわったが、そのたびに薬の処方が変わるばかりで、母親の症状が改善されることはなかった。
解決の糸口が見つかったのは四軒目に訪れた病院で、ここでは投薬治療の前にカウンセリングがあった。ていねいな聞き取りによって、母親が暴れる理由である「家に帰して」の意味を探ったのである。
一通りのカウンセリングを終えた医師は大樹に告げた。
「『家』に帰してあげたらどうです?」
「家、ですか。今の家ではなくて?」
「あなたのお母さんには記憶の退行が現れています。ここ数年のことはすっかり忘れてしまって、遠い過去の記憶があたかも現在であるように錯覚してしまっている。具体的には、あなたはまだ小学生の子供で、お父さんは死んだのではなくて単身赴任だと記憶されているんです」
「父が単身赴任していた頃……俺が小学六年生にあがった頃ですね」
「可能なら、そのときに住んでいた家へ移転するといいでしょう」
「団地ですから、そう都合よくは……」
「ならば、可能な限り似た部屋を探すだけでも違うでしょう。お母さんの記憶にある家を、できるだけ近い形で再現してあげることです」
「それで、母は良くなるんですか?」
「少なくとも、今よりは。いまは記憶がないということはですよ、毎日を知らない家で過ごしているのと同じですからね。どうしてその家にいるのか、いつからいるのかもわからない、そんな精神状態で過ごすストレスからは解放されるわけです」
そこで大樹は以前住んでいた間取りと同じになるように五階建ての低層棟、偶数号室にこだわって部屋探しをした。その条件にぴったりと当てはまる部屋が見つかったことは本当に幸運であった。
こうして二階区15棟304号室に大樹は母を伴って越してきたのだが、これが功を奏したか母の様子は目に見えてよくなった。暴力性の高い狂態は鳴りを潜め、昼間は家事などして大人しく過ごしているらしい。
夫を亡くしたことと、息子がもう小さな子供ではないことだけはどうしても理解できないようだが、それも生活に支障が出るほどのことではなく、親子二人の生活は平穏を取り戻そうとしていた。
だから今日も、大樹は母の言葉を強く訂正しようとはしない。
「ああ、お腹減ったな、ごはんは?」
ふらりとリビングに足を向けた大樹の前に母親が立ちふさがった。
「こら、まずは手を洗ってらっしゃい」
「はいはい、わかりましたよ」
大樹は肩をすくめて洗面所へと向かう。
その背後で、母親はキッチンへ向かったのだろう、パタパタと陽気なスリッパの音が鳴る。楽しげに、小さな声で歌いながら。
「こ~わや、こわや、こ~わや団地の鬼ぃは……」
大樹はその背中を呼び止めた。
「あ、そうだ、明日はもう少し帰るが遅くなるかもしれないよ」
「あら、遅くってどのくらい?」
「どのくらいかなあ……」
明日は小輪谷小学校へ挨拶に行くことになっている。そのついでに書類の用事なども済ませてくるつもりだから、時間の予想が立てられないのだ。
「まあ、できるだけ早く帰ってくるよ」
「いったい、何の用事なの?」
「いや、学校のね」
「まあまあ、学校の用事なら仕方ないわね。でも、あんまり遅くなるようなら電話してちょうだい、迎えにいくからね」
彼女の中では大樹はまだ小学校に通う子供なのだから、息子が朝起きて登校し、学校が終われば帰ってくる生活に疑問を抱くことは無いだろう。
だが、大樹はれっきとした大人であり、ごく常識的な世間と付き合ってはいけないのだから、母の妄想にばかり寄り添っているわけにもいかない。
だから大樹は嘘をついた。
「母さん、友達にみられたら恥ずかしいから、絶対に迎えには来ないで。その代わり、用事が済んだら寄り道しないで帰ってくるって約束するから、ね」
母親は息子の顔をきゅうっと睨み付け、胸を張る。
「ダメよ、暗くなったら鬼が出るでしょ!」
「鬼って……」
一度は母に話を合わせてやろうとした大樹だが、そこまではさすがにやりすぎだろうと思い直す。
「鬼なんているわけないよ」
「いいや、いる、鬼はいるのよ」
「へえ、どこに? 絵本の中かい?」
「ちゃんと真面目に聞きなさい!」
母の声は真剣そのもので、その気迫に大樹は子供のように首をすくめた。
「だって、母さん、鬼なんて……」
「いるのよ、この小輪谷団地には」
「じゃあ母さんは、鬼をみたことが在るのかい?」
「あるわ」
即答だった。さすがの大樹もそれ以上返す言葉もなくて黙り込む。
母親は少し得意げで、大きく両手を振り回すほど興奮していた。
「あなたも見たことがあるはずよ、ときどき階段の隅っこに座っているじゃない」
「いや、そんなもの……」
「へえ、大樹には、あれが見えないの?」
母親はや部屋の真ん中でクルクルと踊りはじめる。
「こ~わや、こわや、小輪谷団地の鬼ぃは、い~つ、い~つ来ぃやぁる……」
これ以上ここにいては、母の狂気にとりこまれてしまう。そんな気がして、大樹は素早く身を引いた。
「母さん、俺、寝るから」
「あら、ごはんは?」
「いらない。なんだか食欲がなくなったよ」
「まあまあ、どこか具合が悪いんじゃない?」
母が自分の額に向けて伸ばした手を、大樹は叩き落としてしまった。それはとっさの行動で、意識してのことではない。
それでも俯いた母親が叩かれた手をさする姿をみて、大樹はどうしようもないほどの罪悪感にうめいた。
「う、ごめん。でも、もうそんな子供じゃないんだから、ほっといてくれ」
「いいえ、あなたはまだ子供よ」
母の声はか細く、哀しい。
「あなたはまだ子供なんだから、私が守ってあげなくちゃならないの。鬼に連れて行かれないように、ずっと守ってあげなくちゃいけないのよ……そうでしょう?」
大樹は何も答えない……答えられるはずがない。
この母の両肩をつかみ、揺さぶって声高に自分がもう子供ではないと訴えてみたい衝動はある。だがそれは父の死をもう一度、彼女に教える行為だ。
もしも全てを思い出した母が悲しむようなことがあれば、何よりも夫の死を記憶の底にしまいこんで狂態を繰り返した半年間を思い出したら、母のか細い神経はそれに耐えられるだろうか。
そう思うと勇気がわかない。
だから大樹は何も答えず、母に背中を向けた。歩いて数歩の距離、寝室のふすまを開いて入る。
ふすま越しにすすり泣くような歌声が聞こえた。
「こ~わや、こわや、小輪谷団地の鬼ぃは……」
薄暗い部屋の中まで追って来るその声を振り払おうと、大樹はしきっぱなしの布団に飛び込んだ。掛け布団を頭の上まで引き上げ、両耳を両手でしっかりとふさいで体を縮める。
それでも、いまだにあの歌声が……まるで体の中から沸きあがってくるかのように鼓膜の近くを回っている。
「こ~わや、こわや……」
膝が額に近づくほど強く体を丸めて、大樹は両目を閉じたのだった。