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反魂ごっこ  作者: アザとー
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   ◇◇◇

 

 けたたましく鳴る枕もとの目覚まし時計をとめた後も、大樹はしばらく布団を離れようとはしなかった。天井を見上げて夢の余韻を楽しむ。

「いい夢だったな」

 リラックスしきった寝起きの体は重たい。それは夢の中で感じた水圧に似て、ひどく心地のよいものだ。

「淳子……」

 夢の中で彼女が笑っていた、そんな気がする。悩みも、悲しみもない無邪気な笑顔で、確かに微笑みかけてくれた。

 満たされた気持ちで身を起こせば味噌汁のにおいが鼻腔をくすぐる。母が朝食の用意をしてくれているのだろう。

「今日はアオサの味噌汁か」

 ミソよりもかぐわしく匂う磯の香りに鼻をひくつかせながらふすまを開ければ、エプロン姿の母親はちょうど食器を食卓に並べようとしているところだった。

「あら、おはよう、早く食べないと学校に遅れるわよ」

「ん~」

 そっけなく返事をして椅子に座ったこのときまで大樹は、いつもと変わらぬ一日が始まるのだと思っていた。

 母の様子はいつもと変わらない。白髪の多いか身をきれいになでつけた姿も、口の両側に皺をよせた穏やかな笑顔も、何度洗っても落ちなくなったエプロンの左裾についたしみさえ、何ひとつ、いつもと変わらぬ朝のはずなのだ。

 ところが母は唐突に、大樹が耳を疑うようなひとことを口にした。

「先生が遅刻なんかしたら、生徒たちに笑われちゃうわよ」

「先生?」

「あら、あなた、先生になったんでしょ」

「母さん、記憶が?」

 驚いて席から立ち上がった瞬間、椅子が跳ねて後ろに倒れた。母親はそんな息子を視線でたしなめて椅子を起こそうと身をかがめる。

「行儀悪いわよ」

「そうじゃなくて、母さん、どこまで記憶が?」

「そうね、父さんが死んでから、アンタには苦労をかけたみたいね、ごめんなさいね」

 大樹がうめく。

「なんで急に……」

「今までのことを教えてくれたのよ、あの子が」

「あの子?」

「なんていったかしら、ほら、小学校で同じクラスだった女の子、良くウチに連れてきたでしょ?」

「まさか、鬼頭サヤカ?」

「そうそう、サヤカちゃんね、あの子が夢に現れて、いろんなことを教えてくれたのよ」

 サヤカがすでに死んだ人間であることを伝えるべきか、大樹は惑った。

 母の病状が急に記憶を取り戻したことは不思議でもなんでもない。この団地に越してきたときから緩やかに快復は始まっていたのだし、それが何かのきっかけで加速しただけの話だ。

 そのきっかけとなったものが『夢』であるというのが気になるところではあるが、大樹だって今朝は同じように心地よい夢で癒されて目を覚ましたではないか。

 ならばその夢を否定するようなことは言うべきではない。現実世界でのサヤカが生きていようが死んでいようが、そんなことは夢という仮想の根源にはなんら関係ないことではないか。

 だから、大樹は口をつぐんだ。

 それに……現実主義で霊魂の存在など信じていない大樹がこれを言ったら笑われるだろうか、サヤカは死んでいないと、そんな気になってさえいるのだ。

 ときおり吹く風の中にサヤカの幻想を見るのは、彼女がそこにいるからではないのかと――もちろん、彼女の肉体はとっくの昔に消え果てて墓石の下にわずかな遺灰が埋まっているだけなのだと理解している。それでも、そうした肉体に囚われない部分が――強いていうなら『心』のようなものだけは滅びることなく、この団地のどこかに潜んでいるのではないかとさえ思えるときがある……

「いや、ないな」

 思わず否定の言葉を吐いた大樹の顔を、母親はひどく不思議そうに首を傾げて覗き込んだ。

「何がないの?」

「いや、別に」

「失くしものがあるなら探してあげるわよ」

「大丈夫だよ、自分で探せるさ」

 大樹はヤヨイとの和解の道を探そうと決意したのだ。

 自分のような現実的な大人ですら、こんな些細なことで心揺れて故人がいまだ傍にいてくれるのだという幻想に取りすがってしまいそうになる。ましてやヤヨイのような幼い子供であればなおさらのこと。

 彼女が白い小石を亡くなった友人の写し身として持ち歩いていることも、大人に対して反抗的かつエキセントリックな言動をとることも、全てがすとんと腑に落ちた。

(そうだ、あれは心を病んでいたときの母によく似ている)

 そう心得さえすれば、母がこうして快復したように彼女を救う手立てもあるのではないかと、大樹はそんな明るい希望を抱いて学校へと向かったのである。

 しかし、彼を待ち構えていたのは明るい気持ちすら打ち消すほどの陰惨な光景であった。

 出席簿を持った大樹がドアを開けると、子供たちはランドセルもおろさずに教室の後ろに集まってわいわいと騒いでいる。その後ろからひょいと覗き込めば、ロッカーの上に置かれた水槽が見えた。

「う!」

 大樹が口元を押さえてうめいたのは、薄いひれを優雅に動かして泳いでいるはずの赤い小魚が、腹を水面に向けて浮かんでいたからだ。水槽にいた金魚は三匹、それがすべて体をくの字に硬直させて水面近くに漂っている。目はどろりと白く濁り、死んでいることは明らかである。

 今朝の夢を思い出す。自分もあの中を泳ぐ小魚の一匹だったのだと思うと、言い知れぬ恐怖に身がすくむ。まるで心臓が冷たく固まって縮み込むような、そう、石を抱かされたような気分だ。

 それでも今、ここに淳子はいない。緑川ユウカの自殺の原因に対する調査とかで、県の教育委員会に呼び出されている。こういうときのために、このクラスには大樹という副担任が置かれているのだ。その責を果たさぬわけにはいかない。

「ちょっとどきなさい、ちょっと、道をあけて」

 子供たちを掻き分けるようにして水槽に歩み寄った大樹は、びくりと戦いて足をとめた。心臓はさらにきゅうと縮まり、もはや鼓動の音も聞こえないほどに凍り付いている。


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