1
大樹は夢をみていた……月の光が差し込む真夜中の教室にたたずむ夢を。
深夜の教室には誰もおらず、教室の後ろのロッカーの上に置かれた水槽をかき混ぜるエアーポンプの音だけがポコポコと小さな音をたてている。
ほかには何の音もしない、ひどく静かな夢だ。
夢の中での大樹は、その水槽に泳ぐ赤い金魚の一匹であった。小さな体を四方から押す水の重みが心地よい。
よい夢だ。
月の光は静かに青白くて、冷たい水の底まで静かに差し込んでいる。それが暗い教室に並んだ簡素な生徒用の机の天板にとどまってあたりを影色の濃淡に染め分けているのだ。
動くものは何もない。影ですら眠り込んだようにびくとも動かず、この水槽の中だけを残して世界中の時間が静止してしまったのではないかというほどに静かだ。
ここのところの精神疲労を和らげるための脳の自衛機能的なものだろうと大樹は考えた。前ビレをゆっくりと動かして、夜の闇色に沈んだ水槽の中を眠たげに漂う。
(ああ、良い夢だ)
朝になればこの教室も子供たちの明るい声で満たされる。それまでの静寂と休息を楽しむ赤い小さな魚の夢。
尻ビレで水を掻いて見上げれば、水面の向こうには窓越しの月が浮かぶ。
あきれるほど丸い満月だ。
(もう少しだけ眠ろうか)
ゆらりと腹ビレを緩めたそのとき、月影がふいに曇った。
(人だな)
月明かりが真後ろから差しているせいで輪郭に光の縁取りをまとったシルエットしか見えない。それが男なのか、女なのか、大人か子供かさえ定かではない。
それでも大樹は直感していた。
(これは俺の『愛する人』だ)
水面まで上がれば彼女の顔が見えるような気がして、大樹は尻ビレで強く水を掻いた。
あれはサヤカだろうか淳子だろうか、それを確かめなくてはならない。
小さな体は心地よい水圧を掻き分けるように緩やか進む。月を背にして、彼女が微笑んでいる。優しく唇の両端を上げて、自分の名を呼んでいる。
(ああ、本当に良い夢だ)
コポコポと柔らかいエアーポンプの音を聞きながら、大樹はどこまでも、どこまでも……遠い水面を目指して上ってゆくのだった。




