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◇◇◇
ふわりと風がカーテンを揺らす職員室の窓際で、大樹は手持ち無沙汰に指先を擦り合わせながら考え込んでいた。
四時限の授業の最中ということもあって、広い職員室は静かだ。どこのクラスなのか、合唱の練習をする声がかすかに聞こえてくる。
校長が大樹の隣に立った。
「少し風が出てきましたねえ、閉めても?」
「え、ああ、どうぞ」
カラカラと窓を閉めながらも、校長は大樹の様子を気にしているようだった。
「なにか悩み事ですか?」
「いや、昔のことを少し思い出していただけですよ」
「ほう、なにやら色っぽい話ですか?」
「そんなんじゃありませんよ。昔、クラスの友人が登校拒否になったことがありましてね、その友人を元気付けようとおまじないを作った。そのおまじないをふと思い出していたんですよ」
「なにやら、いい話っぽいですな」
「いい話ですかね?」
「そのお友達を元気にしてあげたかった、笑って欲しかった、そういう優しい気持ちから考えたおまじないなんでしょう? いい話じゃないですか」
「そうですね、俺は確かに彼女に笑って欲しかった。あの時はそういう気持ちでいっぱいでした。でも……俺はやり方を間違えてしまったのかもしれない」
「どうして?」
「どうしてなんでしょうね」
大樹は唇の端を上げて自分を嗤った。ひどくヒネたいやらしい笑い顔なのは分かっていたが、さらに「は!」と呆れきったようなため息交じりの声まで吐いた。
「考えなしだったんでしょうね、なにしろ子供だから。今ならばもっとほかのやり方を思いつくかもしれない、うまいものを食わせたりとか、ゆっくり話を聞いてやったりとか。でもあのころの俺には、あれが精一杯だったんですよ」
「なにか後悔があるなら今からでも遅くはない、その『彼女』と昔話をしてみてはどうですか」
「無理ですよ」
「無理じゃないでしょう、なにか絶対的な答えを探すためではなく、ただの昔話として、それでも少しは心が落ち着くものですよ」
「無理です。彼女、死んだんです」
「ええっ、あの、それは……すいません」
「いや、別に気にしてないですよ。彼女が死んだのはもうずっと前……中学生のときの話なんでね、とっくに吹っ切れてるんですよ」
「本当に吹っ切れてるんですか?」
「ええ、本当に、もう完全に」
「じゃあ、なんでそんなに悲しそうな顔をしているんですか?」
言った端から、鼻の奥をツンと刺されるような涙気が襲ってくる。
ちょうど鳴り響く終業のベルに涙声を紛れこませるようにして告げる。
「すいません、トイレに行ってきます」
校長はまだ何かを言いたそうではあったが、それを聞く余裕など大樹にあるわけがない。視界の端ににじみはじめた涙を隠すようにして……大樹は職員室を出た。
廊下には午前中の授業を終えた生徒たちが飛び出してくる。
白い帽子をかぶらされた子は給食当番だろう。これから配膳室にクラス全員分の給食がつまったバケツのようなアルマイト容器を受け取りに行くのだ。
給食前にトイレへ向かうもの、給食当番の後をついてうろうろする子など、この時間の廊下は取り留めない喧騒に満ちている。
その誰とも目をあわさないように深くうつむいて、大樹は歩く。ここは初恋の思い出に満たされていて、ひどく不快だ。
かつて、幼かった自分もこの喧騒の中にいた。給食のワゴンが到着するのを待ち切れずに当番よりも早く教室を飛び出し、配膳室へと走ったものだ。
そんな腕白だった自分を、いつもまぶしそうに見つめていたサヤカ……廊下の隅から笑いかけてくれた丸い愛くるしい顔を覚えている。下駄箱の前は、幾度となくおはようの挨拶を交わした思い出の場所、ふと覗き込めば今でも彼女が笑って立っているような気がする。
教室の窓にも、すのこを敷きつめた渡り廊下にも、そこかしこに幼いサヤカの姿が隠れているような気がしてならない。
廊下を通り過ぎる風の中に、懐かしい声が聞こえる。
『大樹君、こっちこっち』
その声に惹かれるように、大樹は廊下をそれて下駄箱へと足を向けようとした。
そのときだ、後ろから服の背中を強く引かれたのは。振り向けば、どこから追ってきたのか、呼吸を乱した淳子が恨めしそうにこちらを見上げている。
「高坂先生ったら、呼んでるのに気づいてくれないんだもん」
乱れた呼吸で軽く弾んでいる胸元がまぶしい。
「何をぼーっとしてるんですか」
不満そうに唇を尖らせて大樹を見上げた彼女は、しかしすぐに心配そうに瞳を曇らせた。
「もしかして、泣いていたんですか?」
「いや、別に」
「何かつらいことがあったら言ってくださいね、相談にのりますよ」
「それより、なんの用ですか」
「ああ、そうだ、今朝のお礼を言おうと思って。気絶したわたしを介抱してくれたんですよね」
「そのお礼をわざわざ?」
「はい」
「いま、このタイミングで?」
「はい、こういうことは早いほうがいいと思って」
「ここで?」
「はい……あ、ちゃんとお礼の席を設けた方がよかったですか?」
「いや、そうじゃなくてね」
大樹は思わず吹きだす。
「そんなことのために、そんなに一生懸命走ってきたんですか」
「そうですけど?」
今度はすねたように、ばら色の頬がぷうっと膨らんだ。まるで百面相だ。
「やばい、八重樫先生っていろいろと、ツボだわ」
大樹は身を折って笑う。悲しい気持ちなどはすっかりどこかへ行ってしまって、なぜだか腹の底からとめどなく笑いがこみ上げてくるのを、どうしてもとめることができない。
淳子は今度は戸惑ったようで、眉尻を大きく下げておろおろと身をゆすった。
「なんなんですか、いったい」
「なんなんでしょうね、いったい」
目の前にある人肌を求めるように、大樹はそっと手を伸ばした。
「いったい、どうしたっていうんですか」
淳子が何気なくその手を取ると、大樹の両目から知らずのうちに涙がこぼれる。
「あれ? おかしいな」
「ほんとうに、どうしたんですか、大丈夫ですか?」
「あたたかい……」
風がまたひとつ吹いたが、淳子とつないだ指先はほんのりと灯がともるようなぬくもりに守られている。辺りを見回すが、もう、幼い初恋の幻影は見えない。
「やっぱ、八重樫先生は俺に必要なヒトだ」
つないだ指先をそっと引き寄せて、大樹は囁いた。
「俺と付き合ってくれませんか?」
風がひときわ強く吹いた。周りの喧騒が風なりでかき消されるほどに。
しかし、もはやそんな風さえ、大樹の気持ちには届かぬのであった。