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淳子が頭を抱えて「ひいっ」と短く声をあげれば、ヤヨイがにやりと笑う。
「八重樫先生はいい子ね。私を怒らせるとどうなるか、よく知っているのね」
小さな右手が白い小石を大事そうに引き寄せた。代わりに左手は、淳子ののど輪を掴もうとするようにしっかりと伸ばされる。
もちろん二人の間には数メートルの距離があるのだ、だからポーズだけのはず。
「じゃあ、八重樫先生はちょっとどいててね。邪魔だから」
まるで首を締め上げるような加減で手をかけられたかのように、淳子がのどをかきむしって悶える。
いや、ヤヨイと淳子の間には十分な距離があるのだから、ヤヨイの小さな手が届くわけがない。もっと別の『なにか』が淳子ののどを締め上げているのだ。
淳子のかかとが上がる。もちろん自分の意思ではなく、目に見えない『何か』の手でじりじりと吊り上げられてゆくから、その証拠に、すっかり爪先立ちになったというのに淳子のからだは少しも揺らぐことなく安定している。
「ぐ……うっ」
苦しそうなうめき声を上げる淳子のからだが、そのままズズズズズと引きずられるように下がってゆく。
「はい、八重樫先生はそこでみていてね」
ヤヨイがぱちんと指を鳴らすと、淳子は突き飛ばされたように勢いよく倒れこむ。ドサリ、と無情な音と共に淳子の体の下に舞い上がるはわずかばかりの砂埃。
「八重樫先生!」
駆け寄ろうとした大樹の前にヤヨイが立ちはだかった。あまりにも唐突に。
瞬きするほんの一瞬前は、ヤヨイは数メートル離れた距離にいた。一足飛びに移動するにはやや遠いはずである。
それがいま、手が触れそうなほど近くにゆらりと立っている。
説明しようのない恐怖に震えて大樹がじりりと後ずさりすれば、ヤヨイは笑顔を浮かべて片手を高く上げる。
「大丈夫よ、新人先生、『まだ』殺しちゃったりはしないから」
わさっと五指を広げた小さな手はイソギンチャクに似て揺らめく。まるで大樹の首を捉えて飲み込もうとしているようだ。
「締め上げろ」
低い声でつぶやきながら、ヤヨイがぎゅっと指を立てた。大樹に突きつけられた掌は、何かを握りつぶそうとするかのようにきゅっと締まる。
風が吹いた……ただ、それだけだった。
「うわっ」
顔にかかる砂埃を払おうと大樹が両手を振り回す。だが、彼の体に何かの変化があった様子はひとつもない。
淳子のようにのどをかきむしることもないし、自分の意思と反する方向へ引きずられることもないのだ。
ただ、風は強く吹いて巻き上げた砂塵をヤヨイにも叩きつける。彼女は狼狽しきって両手を振り回した。
「いや、なんで? なによ、これ!」
おそらく、彼女にとって何か思い通りにいかないところがあったのだろう。風にかき乱されたおかっぱをさらに振り乱し、足を踏み鳴らす弥生の顔は怒りで真っ赤だ。
「この! くそっ! 弾け飛べ!」
汚く罵りの言葉を撒き散らしながら、ヤヨイが再び掌を大樹に向けた。
「さっさと弾けて死ね!」
風が吹く。
「そうよ、アイツの頭を砕いちゃえ!」
パン!と大きな音がした。
しかし、大樹は倒れることなく、ただきょとんとした顔で立ち尽くしている。砕け散ったのは『信者』の子供が首にさげているほおずきの一果だ。
「どうして、なんで?」
憎々しげに鼻の頭に皺を寄せて、ヤヨイは大樹をにらみつけた。
「アンタ、いったい何をしたのよ!」
この言葉には大樹のほうが困惑するばかりだ。首をかしげて肩を竦める。
ヤヨイがそんな大樹の顔をねっとりとした目つきで見上げた。
「ふうん? アンタ、ふつうじゃないね」
「ふつうじゃない?」
「鬼の力が効かないなんて、ふつうじゃない」
この言葉を聞いた瞬間、大樹の中に怒りが沸きあがってきた。
「また『鬼』か、いいかげんにしてくれよ!」
「いいかげんにするのはアンタのほうよ! どうやって鬼を懐柔したのよ!」
「先生を『アンタ』呼ばわりするな!」
思えばこの一週間、ずっと『鬼』におびえて暮らしていた。そんなものがこの世に存在するわけがない、絶対にありえないと何度も思いながら、ふと夜中に見上げた天井の隅に張り付く闇が蠢くような夢想に悩まされ続けていたのだ。
だからこそ、大樹の怒声は噴出すように大きく、その怒りは大きかった。
「まったく、こんなくだらない遊びに友人や大人まで巻き込んで、何をしているんだ!」
「遊びなんかじゃない。鬼は本当にいるの!」
「ほう、じゃあ、その鬼の力とやらを見せてくれよ」
「見せて欲しいなら、アンタを守っているその力を解きなさいよ!」
「また先生を『アンタ』呼ばわりする!」
「アンタなんかアンタで十分!」
ついに怒り心頭、ヤヨイが大樹のすねを蹴り上げた。
「いてっ!」
すねを押さえて転がる大樹を見下ろして、ヤヨイが微笑む。
「新人先生、もうしばらく殺さないであげる。鬼の力が効かない理由も調べたいし、ね」
あとは大樹に背中を向けて、ヤヨイは歩き出した。彼女の歌う歌が風にのってあたりに広がる。
「こ~わや、こわや、小輪谷団地の鬼ぃは……」
その声に重ねて、『信者』たちも歌いだす。
「い~つ、いつ来やぁる……」
子供たちが歌いながら葬列のように進んでゆくのを見送った後で、大樹は痛む脛をさすりながら淳子の傍に這いよった。口元に耳を近づければ、そよ風に似た静かな呼吸の音が聞こえる。
「よかった、気を失っているだけか」
ほっと安堵のため息を吐き出した大樹は、自分がひどくつかれきっていることに気づいた。知らずのうちに身を固くしてこぶしを握っていたのだろう、掌には一条の傷が中指の爪の形に残り、わずかに血をにじませている。
「まったくどいつもこいつも『鬼』って、そんなもの、いるはずないじゃないか」
掌をじっと見下ろしながら大樹は苦々しくつぶやいたが、淳子を突き飛ばして気絶させた『何か』の気配が背後からその掌を一緒に覗き込んでいるような気がして仕方ない。
皮一枚を切り開いただけの浅い傷口はわずかに痛んで、それが大樹の気持ちをさらにいらだたせた。
「あんなもの、俺が作った御伽噺だ。そうだろう?」
誰に聞かせるともない呟きをさらって、風がまたひとつ、吹いた。




