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そのとき、大樹の背後でパタパタパタッと駆け寄る足音が響いた。
「あ、高坂先生だっ!」
足音の主は髪を二つに結い上げた少女で、これが大樹の背中に無遠慮に飛びつく。
大樹はよろめく足元を踏ん張って、少女を受け止めた。
「あぶない! 廊下を走っちゃだめだろ!」
「えへへ、ごめんなさい」
その後ろからは赤いランドセルを背負った少女の四~五人が、ペタペタと上履きの音を立てながら追いついてきた。
「ほらあ、走ったら先生におこられるよって言ったじゃん」
「別におこられてもいいもん、高坂先生にいちばんにおはようを言いたかったんだもん」
屈託ないやり取り……これが本来の小学生のあるべき姿だ。
バタバタと賑やかな足音が、いくつか聞こえる。今度は黒いランドセルを背負った男子の一群が大樹の真横を走り抜けざまに声をあげた。
「お、高坂先生じゃん」
「先生、おはよ」
バタバタと揺れるランドセルの一団に向かって、大樹は怒鳴り声を上げる。
「こらー! 廊下は走るんじゃない!」
実にのどかで、実に平和的な朝の光景だ。これを見ている淳子の頬がゆるむのも道理。
「高坂先生は、子供に好かれるんですね」
「これが? なめられてるんでしょう、これは」
「いいえ、ちょっと乱暴なのは懐いているからこその甘えですよ。小学校の先生は、高坂先生にとって天職かもしれませんね」
「大げさですよ」
大樹が首をすくめて笑えば、淳子が微笑みを返す。まったく平和な光景だ。
しかし、その平和の渡り廊下に出るまでだった。固く叩かれたそっけないコンクリートの上に足を踏み出した瞬間、風に乗って聞こえてきたのはあの歌だったからだ。
「こ~わや、こわや、小輪谷団地の鬼ぃは……」
その一団は相変わらず揃いの白いブラウスを着て、手をつなぎ合って歌っていた。渡り廊下からさほど離れていない体育倉庫の前、白ブラウスを揺らしながら子供たちがふわふわと回る。
「いつ、いつ来ぃやある……」
淳子の顔が恐怖に翳った。
「カガチをたどり、つるべの下にかくれた……」
ゆったりとまわる輪の中心、子供たちのつないだ手の隙間から座り込んだ鬼頭ヤヨイの姿が見え隠れする。
「後ろの正面だぁれ」
輪がぴたりと止まると、ヤヨイはまず瞑っていた目を見開いた。黒目がちな大きな瞳がくるりと動いたそのとき、大樹はおかしなことを思った。
(俺は、あの少女を知っている?)
正確には、この子によく似た少女を知っている。夜の闇の色をたっぷりと吸い込んだような黒い瞳も、肩で切りそろえたおかっぱ頭も、白い頬がふっくらとしたカーブを描く丸顔も……そして『鬼頭』という苗字まで、全てが思い出の中にある幼馴染の姿に重なって見えるのは偶然だろうか。
「サヤカ」
思わず呟かれたその名を、淳子は聞き逃しはしなかった。
「誰です、サヤカさんって」
「俺の初恋の……いや、幼馴染ですよ」
「そのサヤカさんがどうかしたんですか?」
「いや、サヤカも『鬼頭』だったな、と思っただけです」
「そうですか」
緊張の張りつめた不快な無言が二人の間に流れたのはどうしてだろう。大樹はその理由を彼女自身に問う余裕すらなく、視線を再びヤヨイに向けた。
相変わらず手のひらの中に白い小石を抱え込んでいるのだろう。少し俯き加減に手のひらを覗き込む横顔は、ゾッとするほどサヤカに似ている。鼻の高さから耳元に溢れた横髪まで、どこを取っても瓜二つなのだ。
(ああ、でも、雰囲気が違うかな)
サヤカはとてものんびりとした性格で、それが表まで滲み出たかのように柔らかい雰囲気をまとう子供だった。しかし目の前にいるヤヨイにはそんな柔らかさはなく、利発で人を寄せ付けない雰囲気がある。
全く同じ顔をしているのに……
淳子は立ち尽くす大樹の袖をそっと引いて不安そうな顔を見せた。
「大丈夫ですか? 高坂先生」
「あ、ええ、大丈夫です」
言葉では強がって見せても、大樹の動揺は隠しようがない。彼はヤヨイとサヤカの面影が完全に重なってしまわぬよう、必死で二人の相違点を数え上げているのだ。
(サヤカはあんなところに黒子はなかった。耳の形だって、サヤカの方が大きい。背丈も、サヤカの方が低かったような気がする……)
どれも二人が似ていないことの決定的な証明にはならない。大樹はたまらず、淳子を振り見た。
「鬼頭ヤヨイの親の名前とか、わかりますか?」
「え、あの子の親御さんは亡くなっていて……」
「それはわかっています。その亡くなったご両親の名前は?」
「さあ、学校もそこまでは把握していませんから……」
「どうして? 書類に書いてあるとか、一度くらいはあったでしょう」
「提出書類に書かれるのは保護者……あの子の場合、おじいさんかおばあさんのお名前ですからね、ご両親の名前は見たこともありません」
「じゃあ、そのおじいさんかおばあさんの名前は!」
大樹が淳子の両肩に手を伸ばしたその時、騒ぎに気づいたかヤヨイが顔をぐいっとあげた。
赤い唇の端がニヤリと不遜な笑みの形に上がる。しかし声はあざといくらいに無邪気で。
「新人先生じゃん。何してるの??」
白いブラウスをふわりと翻して、『信者』たちが大樹を取り囲む。
ゆらりと立ち上がったヤヨイの姿を見て、大樹は恐怖におののいた。
(違う、違う違う。これはサヤカじゃないんだ)
しかし、無邪気そうな笑みを浮かべたヤヨイはかつての幼馴染……鬼頭サヤカに瓜二つなのだ。いくら否定しようとも、たとえ表面だけの一致でも、ともかく全く同じ人物であるかのように、そっくりなのだから……大樹は無意識のうちにその名を呼んだ。
「サヤカ?」
ヤヨイは応えない。ただ大樹に向かってジリリと歩を進める。
風が……ざあっと吹いた。
「ねえ、新人先生、私は何をしていたのか聞いてるんだけど?」
その声を合図に『信者』達が手を繋ぎ、輪の中に大樹と淳子を囲い込む。歌声が辺りに響いた。
「こ~わや、こわや、小輪谷団地の鬼ぃは……」
淳子が悲鳴を上げて座り込めば、歌声はますます大きく、早くなる。
「い~つ、いつ来ぃやある……」
大樹は淳子を後ろ手に庇うように一歩前に出たが、その膝はかすかに震えていた。
「教えてくれ、君は鬼頭サヤカを知っているんじゃないのか?」
震え声での質問を一蹴して、ヤヨイはイラついたように鼻の頭にしわを寄せる。
「ねえ、新人先生、質問してるのは私の方よ。そこでいったい何をしていたのか教えてちょうだい」
「いいや、俺の質問が先だ。答えてくれ」
「答えるつもりはないのね」
「いや、君が先に俺の質問に答えてくれたらいくらでも答えるさ。だから、教えてくれ、鬼頭サヤカと君はどういう関係だ?」
「全くお話にならない!」
ヤヨイがドンと足を踏み鳴らせば、二人を囲っていた子供の輪が花散るように崩れた。




