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大樹が4年3組の担任になって一週間がすぎた。
自分が担当するクラスに鬼頭ヤヨイがいる、このことだけが不安の種だったが、教室では彼女とは特に個人的に言葉をかわすような機会もなく、平穏無事に過ごすことができた。
それに、クラスにいるヤヨイの『信者』は二人だけだ。残りの31人はどこにでもいるようなふつうの小学生であり、新しく来た大樹のことも歓迎してくれている。
だから朝の職員室で教頭に「慣れましたか」と聞かれたときも、大樹は笑顔で答えたのである。
「はい、子供たちは俺のこともちゃんと『高坂先生』って呼んでくれますし、教師っていうのも悪くない仕事ですね」
「そうでしょう、そうでしょう、ところで……」
朝早い職員室には大樹と教頭のほかに数人の教師がいるが、それぞれに始業前の準備に忙しくて誰もこちらをみていない。それなのに教頭は大樹に顔を近づけ、囁くような声をだした。
「鬼頭ヤヨイはどうですか?」
「どう、とは?」
「事情は察していただけたかってことですよ」
「ああ、ああ、彼女にご両親がいないことは八重樫先生から聞きました」
「そういうことじゃなくてですね、あの子、変わっているでしょう」
「ええ、まあ、変わっていますよね」
「で、緑川ユウカとの関係は?」
急に背中につめたいものを押し付けられたような気がした。
「聞きました、八重樫先生から」
「そうですか、そうですか。じゃあ、私からひとつだけ忠告しておきましょう。あなたも若いし、教師としての経験が浅すぎる。八重樫先生の轍を踏まないようにね」
「はあ」
「いいですか、クラスというのは仲の良い友達同士、どうしてもグループが出来上がってしまうものです。今風に言うならイツメンですね」
真面目な話の中に唐突に新語を差し挟んできたのは、彼なりのギャグであり、場をなごませようという気遣いでもあったのだろう。ポカンと口を開けた大樹に対し、彼はもう一度繰り返した。
「イツメンですよ?」
「あ、はい、そんな言葉を知ってるなんて教頭先生はお若いですね」
愛想笑いをしてみせながらも、大樹は腹のうちでこの茶番を罵る。
(つまり、緑川ユウカが死んだのは八重樫先生のせいだと言いたいんだろ)
果たして教頭は、大樹の予想通りの言葉を吐いた。
「八重樫先生の言う『みんな仲良く』なんていうのはね、あくまでも理想でしかないでしょ。人間だもの、好きもあれば嫌いもあって、もっと小さい学年ならね、それをストレートに喧嘩という手段で相手に伝えちゃうんですよ。でも、四年生くらいになったらそういうところの分別もつくようになって、喧嘩になりそうな相手とは関わらないなんて処世術も身についてくるもんでしょ」
「そういうもんですかね」
「そういうもんなの。だから生徒の人間関係には必要以上に口出ししないことが一番、よっぽど孤立しているんじゃない限りはね、干渉するもんじゃありませんよ」
牽制だな、と大樹は感じた。
緑川ユウカという親友を亡くしたかもしれないが、鬼頭ヤヨイには『信者』がいるのだから完全に孤立しているわけではない。つまり教頭は、彼女の事情に深入りしないようにと、さりげなく釘を刺しているつもりなのだ。
「まあ、心得ておきます」
そっけない返事を返しながら席を立てば、教頭の慌てた声が追ってくる。
「いや、本当にわかったんですか?」
「ああ、よくわかりました。俺も授業の準備をしたいので、行っていいですかね」
チラリと時計をみればそろそろ淳子の来る時間だ。大樹は教頭から逃げるように職員室を出た。
電車で通勤している彼女は、ダイヤの乱れでもない限りは毎日決まってこの時間に登校してくる。正門に向かえばその途中で会うかもしれない。
もちろん、彼女に会ったからといってどうということはない。たったいま言われた言葉は一言として彼女に聞かせるつもりはないし、教頭に追従して彼女を責めるつもりもない。ただ挨拶の一言でも交わそうとそれだけの魂胆である。
それでも、一刻も早く淳子の笑顔をみたい……純粋な好意だ。
しかし大樹は彼女に対するこの気持ちに戸惑い、また、恥じてもいた。
(子供じゃあるまいし)
ここに来てからまだ一週間しかたっていないというのに、恋に現を抜かす自分が恥ずかしい。ましてや自分は教師としての職務にすら慣れていない新人であり、覚えなくてはいけないこともたくさんあるというのに、これをないがしろにしているようで心苦しい。
それに、ここには初恋の面影がいまだ生々しく残っている。例えば昇降口に並んだ下駄箱の陰に、例えば音楽室のピアノの脇に、初恋の少女の幻影がふとたたずんでいるような気がして心苦しい。
いまも、半開きになった保健室の入り口の扉に小さな影が映ったような気がして、大樹は足をとめた。
「サヤカ?」
思わず彼女の名前が口をついて出る。
もちろん、本当にその少女がそこにいるわけなどない。保健室を覗けば大きく開けはなたれた窓から吹き込む風が、ゆっくりとカーテンを揺らしている。おそらくはこの影が映りこんだのだろう。
『ねえ、わたしのこと、忘れちゃうの?』
初恋の幻影に叱られたような、そんな気がした。
下腹に力を入れて、それでも声は小さく、そして短く言い返す。
「別に忘れるわけじゃない」
誰も聞く者のいない呟きは、保健室の窓から吹き込む風がさらう。
妙に寂しい気持ちになって顔を上げれば、廊下の向こうから淳子が歩いてくるのが見えた。それだけで大樹はすくわれた気持ちになって、軽く片手を挙げる。
「やあ」
「あら」
大樹の姿を認めた淳子は、頬を赤らめて少し小走りになる。
だから大樹はすっかりと元気を取り戻して、腰に手をあて少しおどけた口調で彼女を叱った。
「こら、廊下は走っちゃだめだろ」
「あ、ごめんなさい、つい……」
「冗談ですよ、冗談」
耳の横を通り過ぎる風の中、小さなささやき声が聞こえたような気がする。
『忘れないで、お願い、忘れないで』
大樹はひょいと保健室の中を覗き込んだが、そこには誰もいない。ただ先ほどと変わらず、窓際のカーテンがゆったりと膨らむように揺れて陽光をすかしているばかりだ。
「どうかしました?」
淳子が心配そうに眉をひそめるから、大樹はその顔を覗き込む。そしてにっこりと笑ってみせた。
「別にどうもしないよ」
「そう?」
「それよりも、今日のアサイチの授業なんですけどね」
二人並んで歩き出せば、もはやあの声は追ってこない。空耳だったのだろうと大樹は納得して、頭の後ろを軽く掻く。
「疲れてるんですかね、俺」
「やっぱり、今までと全然違うお仕事って辛いですか?」
「いやあ、仕事のほうはね、けっこう楽しいですし、小学校の先生って言うのも悪くない……」




