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自分は何もしていないことをアピールするためなのか、両手をひらひらと振って見せる仕草が憎たらしい。嘗め回すようにねっとりとした口調で話しかけられれば、その憎さもひとしおだ。
「それにね、先生、『どけなさい』じゃないでしょう? 『どけてください』だよ、ほら、言って」
ようやく首を曲げてヤヨイを見上げた淳子は、その肩越しに見えるもう一人の少女が笑っていることに気づいた。
そう、ユウカは笑っている。子供らしい無邪気な笑い方ではなく、耳元まで裂けるんじゃないかというほど口を横に広げて、ひどく残忍な笑顔で。
(ああ、関わってはいけない相手だった)
そう思っても、もう遅い。
「ひあっ!」
顎の関節がゆがめられるほどの圧力で頬を机に押し付けられた淳子は、情けなく歪んだ悲鳴を上げることしかできなかった。
(怖い、怖い怖い)
教師としてのプライドなど、すでに吹き飛んでしまった。いまの淳子にあるのは、一刻も早くこの見えない手の圧力から解放されたいという、祈りにも似た気持ちだけだ。
「ねえ、先生、トラブルもないんだし、今までどおりでいいでしょ?」
首肯したくても、首が動かせるはずがない。
「ふぐ、ぐぅ……」
つぶれたうめき声に気づいたヤヨイは、甲高い声で笑った。
「ごめんなさい、そっか、動けないよね」
ふうっと圧力が引く。とはいっても手は頭に添えられている、その感触は消えない。
「さあ、どうするの、先生?」
ヤヨイの言葉に、淳子は震えながら頷いた。
「い、いままでどおりで……」
「ふふふ、やったあ、ユウちゃん、これからも一緒ね」
胸を寄せ合い、お互いの背中に腕を回してはしゃぐ少女たちの姿はほほえましい。まるでこの世にある辛いことなどひとつも知らない、美しい無邪気さがある。
しかし淳子は、これをひどく恐ろしいと感じた。この少女は自分の意にそまぬ者を、いままでもこうして恫喝してきたのではないだろうかと。
だから淳子は、この二人とは距離を置くことにした。これはどうやら賢明な判断だったらしい。
そのことを知ったのは、それから2日後、帰宅の準備をしている最中のことであった。何かの用事があったのだろうか、職員室にふらりと入ってきた事務員が声をかけてきたのだ。
「あれ、植草先生は?」
「まだ教室のほうだと思いますけど、呼んできましょうか?」
「いやいや、お戻りになってからでいいんで。それより八重樫先生、鬼頭ヤヨイを呼び出したんですって?」
淳子がびくりと震えたのを、その事務員は見逃さなかったようだ。
「いやね、今回は何もなかったようでいいですけどね、もうあの子にはかまわんほうがいいですよ」
「やっぱり、問題のある子なんですか?」
「あの子が、というよりもあの子のお家がですね……小輪谷の鬼頭といえば、古くからこの団地に住んでるモンが避けて通るような名前ですよ」
定年も間近いだろうというその事務員は、短く刈り込んだ胡麻塩頭をくるりと撫でた。
「ウチは親父の代からここに住んでいますけどね、それでもあっちの人らからしたら『外から来た人間』ですからね、子供のころはよくいじめられたモンですわ」
「いじめられたって、あっちは絶対的に少数派でしょう」
「いや、八重樫先生、世の中には数じゃ勝てないモンがいくらでもあるですよ」
この言葉を聞くのは二度目だ、と淳子は思った。
「いいですか、世の中には数で勝てないものがある。小輪谷の鬼頭なんか、その最たるモンですわ」
「小輪谷の鬼頭って、何か特別なんですか?」
「小輪谷の鬼頭はね、鬼を使う家なんですよ」
「鬼ですか」
この前、見えない何者かの手によって机に押し付けられたことを思い出す。大きくて、情け容赦ない力を持つあれが鬼の手だといわれれば納得もできる。
しかし淳子は、そんな自分の気持ちを素直に認めることができなかった。
「鬼なんて非科学的な」
「非科学的ですか、そうですか。じゃあ、先生のいう科学的ってなんですか」
「え……」
「そういう言葉で恐怖をごまかそうとしてはいけない。あの子がどんなものなのかを正しく理解するには、そういう言葉でごまかしたりせずにきちんと自分の身に起きたことを信じなきゃぁダメですよ」
「わたしがどんな目にあったか、知っているんですか?」
「ああ、まあ、予想ですがね。私も鬼頭の鬼にひっぱたかれたり、引き倒されたりしたモンですよ」
事務員は今一度、くるりと自分の頭を撫でた。
「さて、どこから説明したらいいでしょう、そもそもは、ここが小輪谷村と呼ばれていたころの話なんですがね……」
ここら一体に広がっている湿地は『忌み地』だったらしい。つまり、迂闊に立ち入るとたたりをなして人を殺す不可侵の聖域だったのだと。
その忌み地を鎮め、管理するために湿地の真ん中には祠が建てられ、その管理を任されていたのが鬼頭家なのだという。
「鬼頭の他には『鬼首』と『鬼尻』という家がありましてね、鬼頭はこれの本家筋だったんですよ」
この三家と、その鬼の力を信仰する者たちで小輪谷村は成り立っていた。
ところが昭和の高度経済期に入って、そんなものは迷信であるということで開発は始まる。湿地の埋め立て工事中には確かに死人も出たが、そんなものはどこの工事現場にもよくある労災事故のひとつだとして、迅速に、強行的にこの団地は建てられたのだ。
そもそもがここが忌み地であったことを知っている地元の人間は小輪谷団地に近寄ろうとはしない。ここに住処を求めるのは他地方から流れてきたものばかりなのだから、この忌み地伝説はすぐに忘れられた。
ところが、鬼頭が鬼を使う家であり、ここを鎮めていた呪術師の家であるという事実が消えることはなかったのだ。
いつの間にか忌み地に付随していた祟り話さえも鬼頭の家の仕業だということにされ、この団地内では鬼頭の家の人間に関わらず、怒らせずが暗黙の了解となったのである。
この話を終えた事務員はまたも頭をくるりと撫でて、声をひどく潜めた。
「鬼尻の家はね、東京に越して、今はどこにいるのかもわからんらしいですよ。でも、鬼首の家はね、娘ばっかりだったから名前こそ残らなかったものの、今でもこの団地内に住んどるんですわ」
「まさか、それ……」
「そう、緑川ユウカは鬼首の末裔ですわ。だから、あの二人に関わっちゃいかんのです」
淳子は、改めてこみ上げる震えを止めることができずに膝から崩れ落ちた。
「そんなの、非科学的……」
自分を奮い立たせようとする声も切なく途切れて頼りない。
そして、その話を聞いたその夜……緑川ユウカは死んだ。




