3
彼は生徒たちをなだめて帰し、未だうつむいている淳子に顔を向ける。
「やっちゃいましたね、八重樫先生」
彼からの叱責を覚悟して、淳子は首をすくめる。しかし怒声も、責めの言葉も降らされることはなく、代わりにつむじの辺りに節の浮いた大きな手を置かれただけだった。
「まあ、若いうちはそういうこともありますよね」
淳子の頬に涙が伝う。
「そんなつもりじゃなかったんです」
「分かってますよ。でもね、子供を相手にするのに、先入観は禁物ですね。まずは本人をよく見る、そして考える。どの生徒と向き合うべきなのか、それを見つけ出したら、あとはただまっすぐにその子に寄り添う、それが教師の仕事ですよ」
そう言った後で、彼は少し恥ずかしそうに首をすくめて笑った。
「なんてエラそうなことを言ってますけどね、私も若いときはそういう間違いをたくさんしたものです。だから、大丈夫ですよ」
いかにもベテランらしい落ち着いた笑顔だった。だから淳子も心慰められ、落ち着きを取り戻すことができたのだ。
だから淳子は、今度は間違えたりせずに、ヤヨイとユウカの二人を職員室に呼び出した。
淳子の前に並んで立たされても、二人は肩を擦り合わせるようにぴったりと寄り添うことをやめない。
「なんでここに呼ばれたか、分かっている?」
少しなじるような淳子の言葉に答えたのは、ヤヨイの方だ。
「わたしたち二人が、教室で明らかに異質だからですか?」
全て心得ているとでも言いたげな、大人びた物言いが淳子の癇に障った。
それでも自分は教師だと思えば声を荒げるようなことはしない。つとめて冷静に、柔らかい声音を作る。
「仲が良いことはとても美しいと先生は思うわ。でもね、たった二人で仲が良いのは、少し世界が狭すぎるんじゃないかしら」
このあと、優しい口調で世界がいかに広いか、人とのつながりがいかに大切かを説くつもりである。もちろん、この二人の友情を肯定することから話を進めてゆくつもりだ。つまり、「誰かと友情を育む心があるなら、それを少しだけ表に向けてみない?」と。
ところが、淳子が次の言葉を出すよりも先に、ヤヨイがひとことをはなった。
「先生、うそつかなくていいよ」
子供とは思えないほど低くて重たい声、それに冷たくて……
「私たちがベタベタしているから、気持ち悪いと思ってるんでしょ」
いきなり話の本質をえぐられて、淳子は血が凍りつくような心地がした。
「そんなことは……」
「いいよ、別に。外から来た人にわかってもらうつもりはないから」
この子は嫌いだ、と淳子は思った。
しいて理由を言うなら、ひどく大人びた態度が人を見下しているように見えるから……もっとも、そんなのは言い訳だと自分でも気づいている。
いきなり話の主導権を持っていかれた、これには大人としてのプライドを踏みにじられたが、淳子は仮にも教師なのだから、そんなささいなことは子供ゆえの不調法と自分に言い聞かせることもできたはずだ。
そうしなかったのは、もっと本質的な部分からわきあがる嫌悪――一種の恐怖。
「ねえ、先生、私たちのことは放っておいてよ」
こちらの言いたいことはすべて見透かされ、先回りされる。相手は年端も行かぬ子供だというのに、まるで人生経験の豊富な老婆と対峙しているみたいだ。
「あの」
反駁のために口を開けば、ぴしゃりと言葉を封じられる。
「ああ、わかる、先生は立場上クラスにトラブルがあったら責任を問われちゃうもんね。でも、他の人と仲良くするつもりはないっていうだけで、喧嘩とかするつもりはないから、安心してね」
明らかに上からの物言い、それにこちらを蔑むように鼻先を上げた冷たい視線。
「先生はね、余計なこと考えないで勉強だけ教えていればいいと思うよ」
ぐうっと頭を押さえつけられたような気がした。
いや、気分だけの問題ではない。実際に『なにか』の大きな手で頭を掴まれたような、しっかりとした重力を感じる。
「う……」
振り払おうと頭をゆするが、首から上が固定されているかのように動かすことすらできない状況に、淳子は自分の頭が確かに何者かによって捕まれているのだと確信した。
この前、植草教員になでられたのとはワケが違う。この無慈悲で尊大な力はぐいぐいと頭を押し下げ、淳子の額を机に押し付けようとしている。
そう、ヤヨイの前に平伏することを強要しているのだ、これは。
「い……嫌だ」
頭の上にかかる重力を押しかえそうとデスクの上に両腕を突っ張れば、ヤヨイが目をみはって楽しそうにつぶやいた。
「へえ、先生、けっこうがんばるねえ」
その言葉と共に圧が増した。視線だけでヤヨイを見上げるが、彼女は指の一本も動かさず、ただ立っているだけだ。
ひじの関節がミシリと鳴った。
「頑張り屋さんは嫌いじゃないけど、そういう人は長生きしないんだって。おじいちゃんが言ってた」
淳子の意思を試すように、頭の上の手はさらに重くなってゆく。ぐうっと、押し付けるように、ゆっくりと。
ミシミシと悲鳴を上げるひざの関節を支えきれなくなって、淳子はついに机に突っ伏した。それでも見えない手は容赦などしない。
「う、あぐぅ!」
鼻が折れるんじゃないかというほど机に押し付けられて淳子はうめく。が、ヤヨイの方は薄っすらと笑みさえ浮かべて淳子の顔を覗き込んだ。
「あれぇ、どうしたのかな、せんせ~?」
「これを……どけなさい」
「これってなあに~?」




