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「たった今、おそらく心霊体験というものをした。これは君の得意分野だろう、敷島」
「別に得意でも苦手でもないけれど、すっごく興味をそそられるねえ、特に君がそんなことを言い出すってことがね」
彼と大樹は気の合う親友同士ではあるが、たった一つだけ意見の噛み合わぬところがある。
そもそもが二人が履修した民俗学の世界では、妖怪や幽霊の類の実在するしないなど大した問題ではない。むしろその存在が人の暮らしにどのような影響を与え、どのような文化を土壌として今日まで語り継がれているのかが問題となるからだ。
だから若い学生たちは妖怪というものが存在するわけがないという現代的な知識を有しているものだ。もちろん大樹もそういった学生の一人であった。
ところが敷島は、いくぶんオカルティックな思考の持ち主で、妖怪の存在を否定することはなかった。むしろ肯定的でさえあり、学生の中でも異端だったのだ。
だから大樹と敷島は妖怪の在り方について議論することが多かった。もちろん二人が親しいからこその激しい論争で、禍根を残したことは一度もない。そして敷島の弁が立つからこそ、大樹が勝利したことも一度としてなかった。
しかも敷島は現在、オカルト雑誌の編集者という職についている。こういった事態の前例を知っているかもしれないというのが、大樹が彼を頼った理由である。
その敷島が電話の向こうで笑っている気がする。何よりも声が底抜けに明るくて、この状況を楽しんでいるようにしか聞こえないのだ。
「とりあえず状況を話してくれないかね、高坂君」
「ああ、どこから話せばいいのか」
昨夜からの出来事を頭の中でなぞれば、全てを集約する言葉はたったひとつ……
「……鬼」
電話の向こうから聞こえる声が少し険しくなる。
「また、厄介なものに魅入られたもんだなあ。姿は、どんな姿をしている?」
「女の子だ。小学生の、ふつうの女の子」
「なんだ、見えている鬼なのか。ならば関わらないことだ」
「そうはいかない。その子は俺の生徒なんだ」
「ああ、小学校の先生になったんだっけか……」
敷島が電話の向こうで考え込む。長い長い沈黙の合間には、「ふむ」だの「ううむ」だのといった短いうなり声しか聞こえない。
だから大樹はひどく不安になって、スマホをぎゅうっと握り締めた。
「せっかくみつけた仕事だ、それに、母の面倒をみるには教師という仕事は都合がいい、俺はどうしてもこの仕事をやめるわけにはいかないんだよ」
「……わかったよ、ちょっと詳しく調べてやろう。具体的にどういった怪異があったのかをメールに入れておいてくれ」
「それならば、夜になってからでいいか? このあと人に会う、彼女のほうが俺よりも詳しい話を知っていそうだ」
電話の向こうの声が一気に跳ね上がった。
「彼女ぉ? 女か!」
「女性だけど、キミが期待するような関係じゃないぞ」
「若い? 若い女か?」
「若いし、可愛らしいが、俺より年上だぞ」
「年上女房か、金のわらじを履いて探すべき希少種だな」
「だから、そういうのじゃないって!」
「わかってるよ、相変わらずこのテのからかいに弱いんだな」
敷島の声はふっと低くなり、優しく響いた。
大樹の肩からはほっと力が抜ける。遠くにいるはずの彼から「もう大丈夫」と背中を叩かれた、そんな気がした。
「もう大丈夫だ、ありがとう」
「そりゃあ、なにより。ところでその女性、精神疾患系の既往歴は?」
「それも今から探りを入れてみるけれど、たぶんないと思う。ただ、神経質だとは初見で感じた」
「キツネ憑きの可能性は?」
「どうかな、怪異の元は彼女自身ではなく、あくまでも小学生の児童のうちの一人だ。キツネ憑きと呼ばれる精神状態に近いものがいるとするならば、彼女ではなくて児童のほうだろう」
「なるほど、ではその女性は『語り部』だな」
「そうだ、『語り部』だ」
大樹はすっかり平静を取り戻している。これだけでも敷島に電話をかけた意味があったというものだ。
「敷島、ありがとう、本当に、もう大丈夫だ」
「なにがよ?」
「わかってる、彼女は『語り部』だ。だから俺は第三者という立場で公平に彼女の話を聞かなくちゃならない、そうだろ?」
「そうそう、それがわかってるんなら大丈夫じゃないの?」
「そして、第三者の目線でまとめたレポートをキミに送ればいいと、そういうことだろ?」
「はいその通り、ご明察ぅ」
カラカラと明るい笑い声がスピーカーを通して響く。
「心霊事件なんて、一歩引いてみたら案外インチキだったりするものさ、そうだろ?」
「キミがそれを言っちゃうのか」
「言っちゃうよぉ、だって考えてもみなよ、この世にある怪異の全てが本物だったら、ウチの雑誌なんかは、もっと飛ぶように売れてウハウハでしょ?」
「なるほど、それ、すごく納得だ」
大樹も電話の向こうに笑い声を返す。笑いのために大きく吸った呼吸の一息ごとに、腹の底から力が湧き上がるような気がしていた。
「そうだよな、怪異なんてこの世にあるわけがない、鬼なんかいるわけがないんだ。そういうものはすべて人の心が作り出した幻に形を与えただけのまやかしだよ」
「お、昔もそれで論を交わしたねぇ」
「なんなら、今だって議論してもかまわないぞ」
「そうか、じゃあ近いうちに酒でも持って遊びにいくよ」
「おお、来いよ。今度こそ勝つからな」
そのあと、いくつかの挨拶を交わして大樹は電話を切った。ふと足元をみれば、レンガを敷きつめた歩道の上に自分の影が黒々と落ちている。
昼の強い日差しをすっぽりと切り取って作られた人型の影。レンガをぴっちりと並べた幾何学模様の、そのレンガの間まで黒く染める影。目も鼻も口もなく、ただ大樹の形を模しただけの影……
しかし、その影は大樹の意思に反して蠢いたりはしない。主が太陽を背にたたずむその形のまま、エンジ色のレンガの道の上に静かに張り付いているだけだった。




