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◇◇◇
空き教室の小さな椅子に淳子を座らせて、大樹は買ってきた缶コーヒーを差し出した。
「これ、どうしたんですか」
淳子はとがめるようなまなざしを大樹に向けたが、声は弱々しくて憔悴は明らかだ。
これを哀れに思って、大樹はできるだけやさしい声音をだそうと努力した。
「ちょっとひとっ走りフェンスを越えてね、そこの自販で買ってきたんですよ」
淳子の頬がわずかにゆるむ。
「ふふ、先生なのに」
「いいから、飲んじゃってくださいよ。もうすぐ授業が始まる、その前に少し落ち着いたほうがいい」
「そうですね」
空虚な空き教室の空間に、プルタブを起こす音が静かに染み渡った。
「ああ、なんだか落ち着く……高坂先生は不思議な方ですね」
「不思議ですかねえ」
「あ、いえ、褒め言葉的な不思議ですよ?」
「わかってますって」
大樹も淳子の向かいに椅子を引き寄せて座る。座面は大樹の尻を乗せるにはあまりに狭く、長い脚があまって窮屈だったが、視線は淳子のすぐ近くまで寄った。
「ねえ、八重樫先生、ちょっとは落ち着きました?」
「はい、ちょっとは」
「さっき、誰に謝っていたんですか」
「植草先生に」
「やっぱり聞き間違いじゃなかったか、4年3組の元の先生ですよね、その人が辞めたから俺がこうして採用された、と」
「はい」
「その先生はいま、どちらに?」
何のためらいもなく、ほぼ即答だった。
「わかりません」
「わからない?」
「行方不明なんです」
「あ~、そっか、う~ん……」
言葉を失ったのは大樹のほうだった。彼はもちろん、もっと違う答えを予想していたのである。
予定の立つ定年退職であれば補充用の教師が必要になるわけがない。急病か、事故か、どちらにしても考えられる最悪の事態は『死』であると。
その戸惑いに乗じるように、淳子がずいと身を乗り出した。
「殺されたんです、鬼に」
「それは、誰か見たんですか?」
「いいえ、誰も。だから行方不明だということにされていますけれどね」
「じゃあ、どうして鬼の仕業だと?」
「さっきみたいに鬼頭さんと対立があったとき……植草先生は決して鬼頭さんの脅しに屈しなかったんです。まやかしに乗っかるのは良くないことだと言い張って……」
「ああ、だから脅しに屈した自分を恥じて『ごめんなさい』なんですね」
「はい、恥ずかしながら」
「そこまで恥じることはないでしょう、自分が恐ろしいと思っているものを目の前に突きつけられるってのは、一種の拷問ですよ」
「そんな風に言ってもらえたのは……」
淳子の双眸に大きな涙の粒がぷっくりと膨らんだ。
「初めてです」
「ずっと怖いのを我慢していたんでしょう」
「はい、鬼がいるとか、クラスで怪しいまじないがはやっているとか、そんなものは誰にも理解してもらえません。だから、教育委員会も、PTAも、私が全部悪いんだって……」
「うんうん、がんばったんですね」
「はい……」
「これからは俺が副担任としてサポートしますから、怖がらなくて大丈夫。だから、俺にも情報をくださいよ」
「はい、まずはなにからお話すれば?」
「そうですね、まずはあの子が大事そうに持ち歩いている『ユウちゃん』についてですかね」
「ユウちゃん……」
淳子は缶に残っていたコーヒーを一気に飲み干す。口の端からたれたコーヒーの滴が襟の端に小さなしみを作った。
その慌てぶりからみても、これが話の核心であることは間違いないようだ。
「八重樫先生、言いたくないなら、またの機会でも大丈夫ですよ」
大樹がすっと体を引くと、淳子がその腕に縋りつく。
「いいえ、言いたいです、聞いてください!」
これまで誰も彼女の話をきちんと聞いてはくれなかったのだろう。わからなくはない、大の大人が鬼だの死者を蘇らせるだの、オカルトめいた妄想に取り付かれただけだと思われて終わりだ。
もちろん大樹だって鬼の存在を信じているわけではないが、少なくとも淳子はその存在を信じ、恐れている。だから、彼女が恐怖を抱えているのだという事実だけは素直に受け止めてやってもいいのではないかと考えたのだ。
それに、ヤヨイの行動を見る限りは、淳子が彼女を異常に怖がるのもわからなくはない。何が目的かは知らないが、彼女の行動はあまりにもオカルトめいている。その行動のおかしさについて推論を立てるにも、あまりに情報が少なすぎる。
そう、大樹は情報を求めていた。
「大丈夫ですよ、ゆっくり話してください」
低く落とした大樹の声に安心して、淳子がため息を漏らす。
「ユウちゃんというのはですね、緑川ユウカという、4年3組の生徒だった子です」
「生徒だった……今は生徒ではないということですね」
「はい、緑川さんは二ヶ月ほど前に死にました。一街区14棟の屋上から飛び降りて……」
「自殺ですか、原因は?」
「それは……」
突然、淳子がくしゃっと顔を歪めた。小鼻をひくつかせ、呼吸が苦しいかのように口元をわななかせ、額に皺を寄せて……彼女はぼろりと涙をこぼした。
「私のせい……なのかもしれません」
「え、どういうことですか」
答えの代わりに、長い嗚咽が漏れた。
「八重樫先生、落ち着いて、ね。もうすぐ授業が始まります、その話はあとでゆっくり聞きますから、顔を洗ってきましょう」
大樹は淳子の手を引いて、小さな椅子から彼女を立たせた。
このとき、大樹がもっと注意深い性格だったら気づいただろうか……椅子の足を潜り抜けるようにして部屋の隅へと逃げ去った小さな影に。
いや、無理だろう。それほどに影は小さく、板張りの床に太陽が描いた二人の影とまったく同じ色をしていた。だが、確かに質量のある『なにか』が素早く走ったのだ。
そうとは知らない大樹は後ろ手に教室のドアを閉めた。
もともとが、この日の大樹の仕事は書類の提出だけなのだ。淳子とは夕方に会う約束を取り付けて、大樹は帰ろうとしているところだった。
もちろんデートなどという不埒なものではないし、もしかしたら気が重い話ばかりになるかも知れない。それでも若い女性と二人きりで会うなど久しぶりのことだ、少し浮かれながら来客用のスリッパを脱いで下駄箱へと入れる。




