平和の強制
■平和の強制
人はなぜ争うのでしょうか。
あなたはきっと、白い人と黒い人と灰色の人が相争うのを目撃したことでしょう。
お互いの存在をかけて、相手の存在を消そうとする、神々しい戦いに、目を奪われたかもしれません。
しかし、争いとは、悲しいものです。
誰もがその隣に誰かを受け入れることができるというのに、なぜ、争うことをやめられないのか。あなたは今、あなたの存在を否定する存在でさえ、その隣に置いておけるようになりました。では、他の人々はどうでしょうか。
あなたは、争いをやめさせることができます。それが本章で学ぶ『平和の強制』です。
これまで、魔法はヒトが持つ根源的な欲求や衝動に根差したものとして学んできました。だからこそ、あなたはきっともう理解しているでしょう。人を争いに駆り立てるのは、衝動です。欲望です。それは、向上心や闘争心と呼ばれ尊ばれることさえあります。
だから、この最後の章――そう、これこそがあなたが学ぶべき究極の魔法です――においては、その衝動を否定することが、魔法の実現なのです。
最後の難関です。心してかかってください。
衝動は、ヒトの生きる力そのものです。だから、あなたは死ななければなりません。精神的な死こそが、究極魔法の実現のために必要なことです。
あなたの心のどこかにある、より良くありたいという気持ちを否定してください。
あなたの心のどこかにある、誰かより上でありたいという気持ちを否定してください。
あなたは何者でもありません。
あなたは何者にもなれません。
すべては夢幻。手の届かぬもの。
破滅に追い込みたい敵には、決して剣が届きません。
救いたい命には、決して薬が届きません。
見たい世界は、扉を閉ざします。
見たくなかったものは、あなたの心を穿ちます。
振り返る過去は決して思い出せず、思い描く未来は常に昏い。
たとえこの世界から逃げ出しても、その先には全く同じ世界があります。
さあ、思い描けたでしょうか。
この魔法の成功を試すために、特に準備するものはありません。あなたが空想さえ否定する空虚で心を満たし、そこに魔力を流し込んだ時、あなたの世界のすべてから、争いが消え失せます。
人々はよりよくあろうとする活動をやめ、何かに打ち克とうとする作用を止めます。
世界は止まり、意味は意味であることを止め、絶望と希望の境目は溶けて無くなります。それこそが、あなたが実現した平和です。さあ、確かめてみてください。
それでは学習メモにお進みください。
●学習メモ
最後の最後で、僕は最大の難関にぶつかってしまった。
なぜなら、僕は、魔法を極めたいと思ってこの本を開いたのだから。
それは、向上心そのものだった。
そんな気持ちの悪いものが僕の中にあることを、突きつけられてしまった。
この本の作者は、悪意そのものだ。
僕を否定しようとする。
いいや、僕は否定されなければならない。
僕は、どこかで間違ったのだろうか?
僕は、なぜこんなところに立っているのだろうか?
すべての間違いの始まりは、彼女を好きになってしまったことだ。
ずっと抱えていたその想いをどうにもできず、ライバルになってしまった親友にも差をつけられ、だから、僕はこの本を手に取った。
そう言えば、この本は、なぜ僕の手元にあったのだろう。
これだけ立派な本、魔法の仕掛けまである、よく考えてみれば、とても、僕のお小遣いで手が出せるようなものじゃない。
でも、気がついたら、この本は僕の部屋にあった。
あったことを不思議とも思わなかった。
これだ、とひらめいて、手に取ったのだ。
この本があれば魔法使いになれる。
その向上心こそが、すべての間違いの始まりだった。
僕がそんな気持ちの悪い衝動に手を染めてしまったから。
だから、今日も、街は黒い人たちと白い人が、喧嘩をしている。
どちらにもなれない灰色の人たちが必死で抵抗している。
白い人があまりに強いから、黒い人をだいぶ増やしたけれど、まだ全く足りない。
彼らは僕の前でだけは、喧嘩をやめて跪く。
そして僕がいなくなればまた暴れはじめるのだ。
僕の間違いが、その原因だった。
彼女を好きにならなければよかった。
彼女を好きになってしまった僕は、失敗作だ。
そんな僕を、消してしまおう。
あいつを気のいい奴だなんて、思わなければよかった。
あいつに憧れてしまった僕は、失敗作だ。
そんな僕を、消してしまおう。
棚の裏までピカピカになった部屋に感動して掃除婦にお礼を言った僕は、失敗作だ。
物足りなくて指までなめてしまった料理に、料理人を褒めた僕は、失敗作だ。
暑い夏に重い荷物を持ってきてくれた出入り商人に汗を拭うハンカチを渡した僕は、失敗作だ。
僕を育ててくれた両親に感謝した僕は、失敗作だ。
何もかも間違いだった。
こんな本、開くんじゃなかった。
だから僕は、この本を開いた僕は、失敗作だ。
失敗作。
失敗作。
失敗作。
作品ですらない――
どのくらいたっただろうか。
いつの間にか僕の心を空虚が占めていて、争っていた黒い人たちと白い人は、等間隔に並んで、じっとどこか遠くを見つめていた。
一体何を見てるんだろうな。
そこには、何もないのに。
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