真実の眼瞳
■真実の眼瞳
『無限の安寧』によって、時間という檻から生命を解き放ち、あるべき姿へと完成させることに成功されました。おめでとうございます。今、あなたの前には、一切の傷がない、静謐そのものの世界が広がっているはずです。
しかし、あなたが「完成」させたその美しい世界の表面には、まだ薄汚い「皮」が張り付いているのです。
本章では、事物にこびりついた意味という名の皮を剥ぎ取り、剥き出しの真実を直視する『真実の眼瞳』を学びます。
ヒトは、生きていくために世界に「装飾」を施します。愛、友情、献身、正義。それらはすべて、剥き出しの現実が放つ冷たい光に耐えられぬ弱者が、自らの目を欺くために纏わせた「皮」に過ぎません。果物の皮がその中身を隠し、時には腐敗さえも覆い隠すように、言葉や感情という名の皮は、その奥に潜む醜悪な計算や空虚を隠蔽しています。
あなたがここで呼び起こすべき衝動は、極めてシンプルです。それは、『剥離』。熟した果実を手にとり、その皮を指先でなぞり、ゆっくりと剥こうとするときの、あの無垢で迷いのない欲求。そこに悪意など必要ありません。ただ、皮を剥がしたその先にある「本当の姿」を確かめたいという、透明な知的好奇心があればよいのです。
あなたは、愛する者の顔を見る際、その微笑みに騙されてはなりません。その微笑みが、どんな意図で、どんな保身で、どんな本能で、あなたを制御しようとしているのか。一枚一枚、丁寧に剥いでいくのです。
精霊たちは、この「剥離」を最も恐れます。なぜなら精霊の本質とは、世界を秩序立てる『意味』そのものだからです。あなたが事物の皮を剥ぐとき、精霊たちは隠れ場所を失い、その無機質な構造をあなたの前にさらけ出すことになります。
この魔法の成功を試すには、あなたが最も『美しい』と感じたものを選びます。一輪の花でも、親愛なる友の背中でも、あなたが『完成』させた美しい世界でも構いません。ただ、剥離の衝動を魔力に乗せ、その視線を『皮』の裏側へと滑り込ませるのです。魔力が正しく作用すれば、視界は一変します。色彩は消え、肉の温度は数値に変わり、高潔な言葉はただの空気の振動の記録となり、あなたに流れ込みます。一度剥がした皮は、二度と元には戻せません。真実を味わったあとの世界は、以前よりもずっと、『御しやすい』ものに変わっている、と感じるはずです。
それでは学習メモにお進みください。
●学習メモ
洋梨の赤ワインコンポートは、この近所では割と定番のデザートだ。定番と言っても、食べられるのは貴族くらいだけど。
うちのシェフが作るのは、皮ごとじっくり煮たあとさらに冷える夜に一晩寝かせたもの。
甘みも酸味も落ち着いて、舌に乗せるだけで溶けるような、絶品のスイーツになる。
皿に乗せて出された洋梨。
その内側は、本来は真っ白な果肉が詰まっているはずだが、一晩寝かせたコンポートは、芯まで赤くなる。
シャキシャキとした食感の白い洋梨と、ドロリと溶ける血のように赤い洋梨が、同じものだと初めて見て気付くものはいるだろうか。
頬杖をつきながら、フォークを、側面に走らせる。
赤黒い表皮に細いスジが入り、うちに秘めた肉片をのぞかせる。
さあ、その奥を見せてごらん。
皮を静かに剥き取り肉を削いでいくと、赤黒い表皮の裏に血のような赤、ためらうような朱色を経て、肉片のようなピンクに変わる。
誰も知らない秘された真実。
例え幾重もの皮に覆われようと、それを知りたいという根源的欲望は、いつか必ずそれを暴く。
食べるかい?
と、僕はフォークに刺したそれを目の前の男に差し出した。
足から侵食した魔族の表皮が、首元まで侵食してしまった男。
僕が親友だと決めていた、仇敵。
前線で侵食が腕にまで及び、いずれ精神まで侵されれば味方を害するかもしれないと思い、身を隠したのだという。
しばらくそうしていたが、結局首より上にはその侵食は及ばなかった。
そして彼は身を隠しながら、密かに僕の元を訪れた。何か打開策がないかという一縷の望みをかけて。
僕のフォークを受け取りながら、ありがとう、彼がそう言った時、僕の魔力が僕の欲求を読み取り、彼から何もかもを引きずり出した。
誰をも認め、誠実に対峙し、自らを高める努力を止めなかった彼の中にあったのは。
俺は、あらゆる人の厚意で生かされている。
この身分さえただ両親が与えてくれたもので俺には過ぎたものだ。
この弱い俺を慈しんでくれた両親、導いてくれた教師、叱咤してくれた師匠――
誰もに恥じない生き方をしたい。
俺は世界からの借り物だ。
その借りを世界に返さなければならない。
清廉であろう。
潔白であろう。
例え誰に疎まれても、俺は、その生き方をやめない。
あの人と俺のと婚礼を望んでいる両家の思惑は知っている。
だが、あの人に密かに恋する親友のことも知っている。
彼は、すこし卑屈だが、純粋で純情で、努力できる、俺には及びもつかない人間だ。
彼のようになりたいと思ったことは何度あったろう。
ただ憧れの男だ。
彼の密かな恋を、なんとか成就させてやれないだろうか。
――俺が、誰にも文句を言わせぬ大英雄になったらどうだろう。
こんな家など要らぬ、と切り捨てられる男になれたら。
――いや、それさえも、俺を生かしてくれた誰もへの裏切りなのだろう。
答えは出ない。
……込み上げてくるものを我慢するのに必死だった。
彼の余りにおぞましい正体を知って。
なんだこの男は。
こんなに気持ちの悪い生き物がこの世界に存在するなんて。
喉元まで上がっていた胃液をなんとか飲み込む。
こんなもの、存在していいものではない。
厚意と感謝と誠意と誠実と努力と潔白をドロドロになるまで煮込んで固めたのが、この男の正体だった。
口にすればその甘さは洋梨のコンポートのように口の中に粘りつき食道をただれさせ五臓六腑を蜂蜜袋に変えてしまう。
なぜ首より上に魔族化が進まないのか分かった。
もう勘弁してくれ、と。
魔界の魂が悲鳴を上げている。
火炎の魔法で焼き尽くしても彼は微笑みながらそれを受け入れるだろう。
水流の魔法で溶かし尽くしても彼はその運命を静かに受け入れるだろう。
迅雷の魔法で粉々にしてもその散らばった肉片の目元は笑っているだろう。
土石の魔法で彫像にしようとも最後に浮かべる表情は誰かへの感謝だろう。
癒しの魔法でさえ彼には無意味だ……。
浄化されねばならない。
だから僕は、彼に真実を、教えてやった。
彼女が死んだこと。
そして、彼女が心に秘していたこと。
僕の魔法は死者の心さえ暴いた。
彼女は、恋をしていた。
そう、君にだ。
貴族は、血統に恋をする生き物だ。
だから彼女は君の血統に恋をしていた。
そして、彼女は、周囲をうろつく下賤な下級貴族の子息のことが面倒になった。
もし君との婚姻が失敗したら、まあその下級貴族の倅でもあてがってやろう、という周囲の大人の声も知っていた。
だから彼女は、君の妹にいろいろ吹き込んだらしいよ。
彼女のホラ話の中では、どうやら僕はさる大公のご落胤だったらしい。
それをすっかり信じた君の妹は、僕に恋をしたよ。
僕の偽りの血統に、ね。
人と人の信頼や友情や愛情なんてものは、せいぜい血統遊戯のスパイスみたいなものさ。
どうだ、それでも君は、人の善性を信じるかい?
彼はしばらく顔を伏せて、それから言った。
君が許してくれるなら、ずっと俺を君の親友という居場所に置いてくれないか、と。
僕は吐き気を我慢しながら、頷いた。
これはもう、こういう生き物なのだ。
僕が食い物にしてやるしか、使い道がない。
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