無限の安寧
■無限の安寧
死者の蘇生によって「未来の予兆」を掴み、混沌を呼び起こしたあなたなら、すでにお気づきのことでしょう。
生を繋ぐことも、死を覆すことも、それは時間という激流の中でのあがきに過ぎません。過去に縋れば記憶を失い、未来に賭ければ異形を招く。なぜなら、時間とは生命を磨り減らし、変質させるための「檻」だからです。
本章では、時間という次元をすべて使い果たした先にある、真の救い――すなわち『無限の安寧』を学びます。
真の安心とは、過去への未練の中にも、未来への希望の中にも存在しません。
想像してみてください。時計の針が役目を終え、未来のさらに先、因果の鎖が尽き果てた『次の次元』を。そこにはもう、変わるべき姿も、失うべき過去も、耐え難い未来もありません。ただ、あるべきものが、あるべき場所で、永遠の肯定の中に静止している。それこそが、精霊さえも触れることのできない聖域なのです。
時の精霊は、残酷な管理職です。彼らは一刻の猶予もなくあなたを『変化』へと駆り立て、腐敗と老化、そして忘却を強います。この魔法を成すために必要なのは、未来を夢見ることではなく、未来という概念を『使い果たして捨てる』という、飽和のイメージです。
あなたの前には、まだ見ぬ明日が広がっている。それを、一瞬ですべて消費し尽くしてください。何万年、何億年という時間を一息に飲み干し、その果てにある『何事も起こり得ない静寂』に手を伸ばすのです。
ここに必要な衝動は、『意味からの解放』です。あなたを縛る『意味』は、あなたを意味ある世界に縛り続けます。それに抗い、使い捨て、逃れる。意味が意味を失うことであなたは真の在り方にたどり着ける。真の在り方となることを心から求めてください。
存在することに理由を求めず、ただ、この宇宙のすべての振動が止まる瞬間の、究極の心地よさに身を委ねましょう。その次元において、あなたはもはや『磨り減る個体』ではなく、不変の理そのものとなるのです。
この魔法の成功を試すには、小さな生命を用います。
目の前で羽ばたく小さな虫、あるいは土の上を這う羽虫を、一匹捕らえてください。
そして、その虫に『安寧』を分け与えるのです。
魔力が正しく作用すれば、その虫はもがくことも、苦しむこともなく、まるで最初からそうであったかのように、静かに羽を休め、あるべき姿に戻るはずです。それはその小さな生命にとっての『完成』なのです。死骸が腐敗することさえ、時の精霊の介入による「変化」です。もしあなたの安寧が完璧であれば、その小さな骸は、永遠にその姿を保ち続けることでしょう
それでは学習メモにお進みください。
●学習メモ
今は固定できない。
過去は遡れない。
未来は思い描けない。
答えはその先にあった。
素晴らしい本だ。
魔法だけでない。
この世のありとあらゆるものの意味を教えてくれる。
いや、意味がないということを。
意味を失った世界でこそ真の僕の在り方が分かるのだと教えてくれた。
人は、必ず死ぬ。
そのあとは、誰かの記憶の中だけで生きることができる。
誰かの記憶の中にいるということは、誰かにとっての『意味』だ。
誰かが生まれて、動きしゃべり、それを誰かが心にとめるから、意味が生まれる。
じゃあ、その誰かが、誰一人いなくなったら?
そう、僕の存在には意味なんてなくなる。
ありとあらゆる意志あるモノが消えてしまった世界。
そんなものあるんだろうか。
あれから、彼女の父に呼ばれて何度か治療をした。
記憶障害という副作用はあったけれど、死ぬよりましだと考えたのだと思う。
僕が魔法を使うと、少しずつ、彼女の病状は良くなっていった。
その代わりに、少しずつ、彼女が持つ僕の記憶が薄れていった。
ほかの記憶も消えるけれど、僕の記憶だけが最初に消えていった。
きっと、術者が僕だからだ。
治療の魔法は、彼女の過去を削っていたんじゃなかった。
僕の存在を削っていたんだ。
教会の大神官も、誰かに忘れられながら、治療をしているのかもしれない。
僕にとっての世界とは、何だろう。
僕の記憶を、『意味』を、心にとめている人は。
両親。
親友のあいつ。
……彼女。
両親はきっと僕より先に死んでしまうだろう。
親友は?
行方知れずのままだ。見えないものは、存在しないのと同じだ。
残るのは、彼女、だけ。
その最後の世界を、僕は削り続けている。
世界そのものが、軋みながら消えていくのを感じる。
それでも。
僕は、彼女に、未来永劫の安寧を与えたいと思ったから。
何もかも失くしてしまいそうな中で、もうそれくらいしかすがるものが無かったから。
治療を続けていたある日。
彼女は、笑顔のまま、鼓動を止めた。
……世界が、終わってしまったから。
あの時嗅いだ香水の香りも、つないだ手の温もりも、意味を失った。
これから冬を越え雪を割り花咲くスズランも、意味を失った。
彼女はまるで最初からそうあるべきだったかのように、美しい姿で、凍り付いた。
それは、僕が僕の存在のすべてを飲み干し、消費しつくし、使い捨て、次の次元に旅立ったから、だった。




