傷病の治癒
■傷病の治癒
攻撃と防御に関してはここまでの章でほとんど完全にマスターしましたね。ここで少し視点を変えて、生命を操る魔法を学んでいただき、より繊細な魔力の操り方を会得していただかなければなりません。
生命の本質とはなんでしょうか。それは『うつろうもの』です。
生まれ、変わり、死ぬ。
あらゆる生命はこの輪の中にあります。
この輪を指して、ヒトは『時間』と呼び習わすようになりました。生命とは時間の経過そのものなのです。そして、あなたが意識に上らせるであろう時間の本質は、過去を懐かしむこと、未来の輝きに目を細めること。
病や傷を癒す力は、生まれ、変わり、死ぬ、この輪廻の中の『変化』を元通りに戻そうとする力です。つまり、過去に思いをはせる根本的な欲求を魔力に乗せることが、生命を巻き戻しその傷病を癒すことに繋がるのです。
あなたが過去を懐かしむのは、どのようなときでしょうか。あの頃はよかった。あの頃に戻りたい。それはとりもなおさず、今のあなた自身に満足していないということ。あなたがそのようにあるのはなぜでしょうか。もうお分かりですね。あなたを先へ先へと進めようとする時間の精霊とでも言うべき存在が在り、それは、あなたを良き状態から磨り減った状態へと常に推し進めようとしているのです。あなたは、磨り減り続けるあなた自身を救うために、時の精霊に抗って過去を懐かしむのです。
あなたが抗うべき精霊はこれではっきりしました。あなたは、ただ過去を懐かしむのではなく、過去そのものを懐かしむしかない時間の彼方へ追いやろうとしている流れを疎み、流れを遡るイメージを強く持たなければなりません。
時の流れは何者にも抗えない激流です。そのすさまじさは地上にあるどんな渓流をもしのぎ、まさかにそれを遡るなど思いもよらないものです。さほどの激流をあえて遡るという矛盾したイメージと欲求を持たなければなりません。ただ自己の在り方に思いをはせるだけであった属性魔法に比べて、生命の魔法がいかに高度で困難なものか、お分かりでしょうか。無理筋、不可能、時の流れとはそういったものであり、時を緩んだ汽水域の流れ程度にしか思えないヒトには決してたどり着けない極致です。
この魔法の成功を試すのに、あえて怪我をする必要はありません。このイメージを乗せた魔力を、じっと人差し指に当ててみてください。死んだ組織――すなわち『爪』が、元通りになろうともがき始め、やがてゆっくりと爪が縮んでいくように見えるはずです。これは痛みを伴う場合もあるので、痛いと感じたらすぐに魔法を止めるようにしましょう。行き過ぎた治癒もまた病です。この魔法で誰かを癒そうとするなら、様子をしっかりと見ながら、行き過ぎた治療とならないように気をつけてください。
それでは学習メモにお進みください。
●学習メモ
ありがとう。ありがとうございます。
僕は、この章を開くために頑張ってきたのです。
彼女の幸福のために。
たった一人、僕が恋するあの人のために。
恐るべき破壊の衝動、無慈悲なる死の衝動、傲慢な拡散の衝動、冷徹な停滞の衝動。そんなものが僕の中にあるなんて思わず、でも、それをまざまざと見せつけられて、僕はもう、壊れそうでした。
この章だけが、僕の救いだったのです。
まだ、試していません。本文を読んでもいません。あまりの嬉しさに、習得する前から書き始めてしまいました。
これから、着手します。ありがとう。
◆◆◆ ◆ ◆◆◆◆◆ ◆ ◆
◆ざけ◆な。なん◆こ◆◆
こんなこ◆になるなんて。僕は一体なんの◆めにあれだけ◆◆◆◆ていたのか。
ああ、むかむかする。
ちょっと力を入れすぎてページを少し破ってしまった。
もういい。
もうわかった。
この先だ。
もう僕に残されたのは次のページをめくることだけだ。
だから、書き留めよう。
ページを開こう。
最後まで進もう。
もういいんだ。僕にはもう、過去なんて無い。
未来だって真っ黒に塗りつぶしてやる。
僕は、未来に向けて、磨り減り続けている。
そう、この章に書いてある通りだ。僕は、僕の中の何かを燃やして、少しずつ、灰に向かっている。
それが精霊の仕業だなんて思わなかった。
どうしてそんなひどいことをするんだ、と思った。
でも、誰もが、未来に向けて、ゆっくりと磨り減っている、ってのは、なんだか、分かる。
あるいは圧倒的な破壊で生命を終え、あるいはともに静かな死に沈むことで、唐突に生命を終えることもあるだろう。
でも、そうでなくても、誰もが、必ず来る死に向けて、ゆっくりと進んでいる。
それは、精霊の意思とかそういうのではなく、ただ、そうあるべきだからそうなっているだけなんだ。
明るい未来を思い描くというのは、そういうことだ。
だとすれば、僕には暗い未来しかない。彼女とあいつが、最初からそうなると決まっていたかのように寄り添いあい、愛を誓い、それを見ているだけしかない僕、それだけだ。
そのとき、その瞬間、きっともう僕には過去しかない。
出会ったのは、八歳の時。
基礎学校で一緒になり、ちょっとだけ身分違いの僕にも分け隔てなく接してくれた。
僕は瞬く間に恋に落ちていた。
高級貴族の使う香水はとても儚く華やかで、その香りだけで僕はノックダウン寸前だった。
ふと、次に教室がどっちだったか忘れて立ち止まった時、「行こう」と僕の手を取ってくれた、あの柔らかさと暖かさを忘れたことはない。
やがて僕も思春期を迎え、ちょっと性的な目線で彼女を見るようになって、その整った肢体は、ますます僕を夢中にした。
その儚い笑顔をめちゃくちゃにしてやりたい、なんていう嗜虐的な思いを持ったことも、否定はしない。
でも、そんな気持ちも含めて、今の彼女を守り抜き、いつか僕のそばに――そう思わせるだけの原動力になった。
やがて彼女は学校に来なくなった。
体調を崩した、と聞いていたけれど、お見舞いに行くたびに彼女の顔色は悪くなり、瘦せていった。
お見舞いに行くのは僕くらいかと思っていたけれど、ある日、僕が親友だと思っていたあいつも通っていることを知った。
好きなのか? と聞かれて、憧れてる、とごまかしたのを覚えている。
あいつは、家同士の付き合いもあるから後のことも考えてね、と言った。
そこから、何かが壊れ始めた気がする。
だから、僕にとって、唯一思い出したい過去は、きっと、八歳か九歳のころの、あの香りと、手の温もり。
もし可能なら――あそこまで時を遡りたい。ずっとずっと、思っていた。
だから、時を流し、記憶を流し、思いを流してしまう時の精霊の存在を知って、僕は、言いようのない寂しさを感じた。
そうか。
君はきっと、そんな、思い出し、慈しみたい思い出が無いんだな、と。
ひょうひょうと時を流してしまうそれが、とても哀れに思えた。
その気持ちに少し魔力を乗せると、生えそろった爪の一つが、本文に書いてある通り、すっ、と吸い込まれるように縮んでいった。痛みも何もなく、まるで最初から爪なんかなかったかのように。
それから一か月。
彼女の家に何度か手紙を送り、僕が少しだけ回復の魔法を使えるようになったということを信じてもらってから(そのために一度は殴って骨を折った犬を治療させられた)、彼女の病室に通された。
相変わらず青い顔で、時々咳をする彼女は、「無理しないでね」とだけ言った。
僕は、いつものように、過去を、時の精霊を憐れみ慈しみ、魔法を発動した。
彼女の顔色が、少しだけよくなった。
咳き込む音が、減った。
成功だ。
僕は、どう、気分は? と聞いてみた。
彼女は言った。
……え? どうしてここにいるの? いつから? ……少しやせたんじゃない?
襲い来る違和感。
彼女は、僕がここにいる理由を、知らない。
僕が魔法の訓練で痩せてしまったここ半年のことを、まるで知らない。
彼女は家族を見て、お父様、今日は気分がいいの、庭のスズランを見たいわ、と言った。
庭にスズランは咲いていない。なぜならもう秋だから。
彼女の父は、しばらく混乱した後、帰りたまえ、二度と来るな、と僕を追い出した。
だから僕は、過去を失った。
――どうしてこんなことに。
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