↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

ハワイより遠い回転寿司

掲載日:2026/10/26

妻がフラダンスを習い始めてから、ときどき教室の話を聞くようになりました。

妻がフラダンスを習い始めたのは、去年の春だった。


理由は単純だった。


「ゆったりした音楽に合わせて、体を動かしたい」


それだけで、近所のカルチャーセンターに通い始めた。


教室に集まるのは、妻と同年代か、少し年上の女性たちだ。


初日、妻は帰ってくるなり、


「ごく普通の人たちやったわ」


と言った。


けれど、二回目からは、あまり教室の話をしなくなった。


しばらくして、ぽつりと漏らした。


「みんな、ハワイの話ばっかりするねん」


レッスンの合間になると、誰かが言い出すらしい。


「この前、ハワイに行ってきてね」


すると、別の人が自然に続ける。


「あのホテル、良かったでしょう?」


「もう何回も泊まってるわ」


「次は年末に行く予定なの」


特別な旅行の思い出話というより、近所の店の話でもするような調子だった。


「旅行の話ちゃうねん」


妻は少し笑った。


「なんか、“いつもの場所”の話してるみたいやねん」


うちには、そんな予定はない。


これからも、たぶんない。


妻は見栄を張る性格ではないから、その輪には入らなかった。


私は、そのことに少しほっとした。


レッスンが始まれば、みんな同じ列に並ぶ。


同じ音楽に合わせて、同じように手を伸ばし、同じように腰を揺らす。


隣にいる人が、どこへ旅行に行き、どんな暮らしをしているのか。


そんなことは、踊っているあいだには分からない。


音楽が流れているあいだだけは、みんな同じだった。


先週、妻が珍しく楽しそうに帰ってきた。


「今日な、おもしろいことがあってん」


休憩中、教室のひとりが、こんなことを言ったらしい。


「私、回転ずしって行ったことないのよ」


妻は最初、冗談だと思った。


けれど、その人は本気だった。


「お皿が回ってるんでしょ?」


「どうやって取るの?」


妻は説明した。


目の前のレーンに寿司が流れてくること。


好きな皿を自分で取ること。


タッチパネルで注文できること。


皿の色で値段が違う店もあること。


気がつけば、身振りまで交えて話していたらしい。


その人は何度も頷いた。


「へえ」


「へえ」


と、素直に驚きながら。


その顔は、知らない国の話を聞いている人のようだったという。


「なんかさ」


妻は笑った。


「私がハワイの話聞いてるときと、同じ顔してたと思う」


私も笑った。


ハワイに何度も行く人がいる。


回転ずしに何度も行く人もいる。


どちらも、その人にとっては珍しくない。


けれど、少し場所が変われば、「普通」は簡単にひっくり返る。


ハワイが遠い人もいれば、回転ずしが遠い人もいる。


今日も妻は教室へ行った。


夕方、「ただいま」と帰ってきた顔は、少し機嫌が良かった。


ハワイの話が出たのかもしれない。


回転ずしの話で、また笑ったのかもしれない。


私は、何も聞かなかった。


ただ、妻が楽しそうなら、それでいいと思った。


同じ音楽に合わせて踊っていると、ときどき、知らない世界の扉が開く。


ほんの少し覗いて、また元の場所へ戻ってくる。


そのくらいの距離が、妻にはちょうどいいのかもしれない。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。