ハワイより遠い回転寿司
妻がフラダンスを習い始めてから、ときどき教室の話を聞くようになりました。
妻がフラダンスを習い始めたのは、去年の春だった。
理由は単純だった。
「ゆったりした音楽に合わせて、体を動かしたい」
それだけで、近所のカルチャーセンターに通い始めた。
教室に集まるのは、妻と同年代か、少し年上の女性たちだ。
初日、妻は帰ってくるなり、
「ごく普通の人たちやったわ」
と言った。
けれど、二回目からは、あまり教室の話をしなくなった。
しばらくして、ぽつりと漏らした。
「みんな、ハワイの話ばっかりするねん」
レッスンの合間になると、誰かが言い出すらしい。
「この前、ハワイに行ってきてね」
すると、別の人が自然に続ける。
「あのホテル、良かったでしょう?」
「もう何回も泊まってるわ」
「次は年末に行く予定なの」
特別な旅行の思い出話というより、近所の店の話でもするような調子だった。
「旅行の話ちゃうねん」
妻は少し笑った。
「なんか、“いつもの場所”の話してるみたいやねん」
うちには、そんな予定はない。
これからも、たぶんない。
妻は見栄を張る性格ではないから、その輪には入らなかった。
私は、そのことに少しほっとした。
レッスンが始まれば、みんな同じ列に並ぶ。
同じ音楽に合わせて、同じように手を伸ばし、同じように腰を揺らす。
隣にいる人が、どこへ旅行に行き、どんな暮らしをしているのか。
そんなことは、踊っているあいだには分からない。
音楽が流れているあいだだけは、みんな同じだった。
先週、妻が珍しく楽しそうに帰ってきた。
「今日な、おもしろいことがあってん」
休憩中、教室のひとりが、こんなことを言ったらしい。
「私、回転ずしって行ったことないのよ」
妻は最初、冗談だと思った。
けれど、その人は本気だった。
「お皿が回ってるんでしょ?」
「どうやって取るの?」
妻は説明した。
目の前のレーンに寿司が流れてくること。
好きな皿を自分で取ること。
タッチパネルで注文できること。
皿の色で値段が違う店もあること。
気がつけば、身振りまで交えて話していたらしい。
その人は何度も頷いた。
「へえ」
「へえ」
と、素直に驚きながら。
その顔は、知らない国の話を聞いている人のようだったという。
「なんかさ」
妻は笑った。
「私がハワイの話聞いてるときと、同じ顔してたと思う」
私も笑った。
ハワイに何度も行く人がいる。
回転ずしに何度も行く人もいる。
どちらも、その人にとっては珍しくない。
けれど、少し場所が変われば、「普通」は簡単にひっくり返る。
ハワイが遠い人もいれば、回転ずしが遠い人もいる。
今日も妻は教室へ行った。
夕方、「ただいま」と帰ってきた顔は、少し機嫌が良かった。
ハワイの話が出たのかもしれない。
回転ずしの話で、また笑ったのかもしれない。
私は、何も聞かなかった。
ただ、妻が楽しそうなら、それでいいと思った。
同じ音楽に合わせて踊っていると、ときどき、知らない世界の扉が開く。
ほんの少し覗いて、また元の場所へ戻ってくる。
そのくらいの距離が、妻にはちょうどいいのかもしれない。




