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婚約破棄は結構ですが、毒を盛った覚えはありません ~薬草好き令嬢、濡れ衣を晴らしていたら王都の薬師より有名になっていました~

作者: 鏑木
掲載日:2026/10/17

「エリザベート! 君との婚約を破棄する!」


 王立学院の卒業を祝う夜会。


 楽団の演奏まで止まった大広間に、クリス・アーヴィング侯爵令息の声が響き渡った。


 ずいぶんとよく通る声だった。


 エリザベート・フォン・ローゼンベルクは、手にしていたグラスを静かに給仕へ渡した。


「承知いたしました」


「…………え?」


 クリスが固まった。


 なぜ驚くのだろう。


 エリザベートには、そちらのほうが不思議だった。


 最近のクリスは、ほとんど毎日のようにリサ・ベルと一緒にいる。


 学院の食堂でも。


 庭園でも。


 図書館でも。


 先週など、エリザベートとの約束を忘れてリサと街へ出かけていた。


 むしろ、まだ婚約者だったことのほうが驚きである。


「ですから、婚約破棄を承知いたしました」


「いや……」


「何か問題でも?」


「問題というか……」


 クリスは困ったように隣を見た。


 そこには小柄な少女が立っていた。


 リサ・ベル。


 平民出身ながら優秀な成績を認められ、奨学生として王立学院へ入学した少女だ。


 淡い栗色の髪。


 大きな瞳。


 今にも泣き出しそうな顔。


 実際、もう少し泣いている。


 クリスが彼女の肩を抱いた。


「君は自分が何をしたのか分かっているのか!」


「婚約者のいる男性と親しくなさったのはリサ様ですし、その方との結婚を望んで婚約を破棄なさるのはクリス様ですが」


「そういう話ではない!」


 では、どういう話なのだろう。


 エリザベートは首をかしげた。


「君がリサに行ってきた数々の嫌がらせについてだ!」


「嫌がらせ?」


「とぼけるな!」


 とぼけたつもりはない。


 本当に知らない。


 だがクリスは勢いづいた。


「教科書を隠した!」


「知りません」


「階段から突き落とそうとした!」


「初耳です」


「彼女を茶会に呼び出して侮辱した!」


「呼んでいません」


「そして三日前!」


 クリスがエリザベートを指さした。


「君はついに、リサに毒を盛った!」


「…………はい?」


 エリザベートは瞬きをした。


 毒。


 今、毒とおっしゃいました?


「リサは君から出された薬草茶を飲み、倒れたんだ!」


 婚約破棄。


 それはいい。


 いや、家同士では色々あるだろうが、エリザベート個人としては構わない。


 政略的に決められた婚約だった。


 クリスを嫌ってはいない。


 しかし、最近の彼の態度を考えれば、こちらから解消を申し出ることも考えていたくらいだ。


 だから婚約破棄はいい。


 だが。


「少々、お待ちくださいませ」


 エリザベートは扇を閉じた。


「婚約破棄については承知いたしました」


「あ、ああ」


「ですが――」


 クリスを見る。


「私が毒を盛ったという部分だけは、訂正していただく必要があります」


「何を今さら!」


「今さらも何もございません。婚約と毒殺未遂はまったく別のお話ですもの」


 エリザベートはリサを見た。


「リサ様」


「ひっ……」


 リサの肩が跳ねる。


 そんなに怯えなくてもいいのに。


「私が毒を盛ったとおっしゃいましたね?」


「わ、私は……」


「エリザベート! リサを脅すな!」


「質問しただけです」


「その態度が――」


「クリス様」


 エリザベートは微笑んだ。


「少し黙っていていただけます?」


「なっ……」


「毒を盛ったと言われているのは私ですので」


 大広間のどこかから、誰かが小さく吹き出した。


 クリスの顔が赤くなる。


 リサは彼の袖をつかんだ。


「いいんです、クリス様……」


「リサ」


「私がお話しします」


 健気な姿だった。


 エリザベートは素直に感心した。


 私には、あのように男性の袖をつかむのは難しそうですわね。


 今度、侍女に練習させてもらおうか。


 いや。


 婚約者がいなくなるのだから必要ない。


 そんなことを考えている間に、リサが話し始めた。


「三日前です」


「はい」


「エリザベート様から、お茶会に来るよう言われました」


「なるほど」


「怖かったんです。でも、行かなかったら何をされるか分からなくて……」


 リサの声が震える。


「そこで、エリザベート様が青いお茶を……」


「青い?」


「薬草のお茶だとおっしゃいました」


 エリザベートの眉が少し動いた。


 薬草。


 それは聞き流せない。


「どのようなお茶でした?」


「え?」


「色は青かったのですね?」


「はい」


「香りは?」


「香り……?」


「覚えていませんか?」


「……甘い香りでした」


「甘い」


「はい」


「味は?」


「少し苦くて……」


「なるほど」


 エリザベートは考える。


 青い。


 甘い香り。


 少し苦い。


「それを飲んだあと、どうなりました?」


「すぐに目眩がして……」


「すぐ?」


「はい」


「どの程度です?」


「飲んだ直後です。手が震えて、息が苦しくなって……」


「それから?」


「その日の夜には熱が出ました」


「医師には?」


「毒草ではないかと」


「何という毒草です?」


「それは……」


 リサが言葉に詰まった。


 代わりにクリスが答えた。


「月白草だ!」


 エリザベートは思わずクリスを見た。


「月白草?」


「そうだ! 君なら当然知っているだろう!」


「ええ。それはもう」


 知っているどころではない。


 ローゼンベルク領の北部にも自生している。


 エリザベートが十三歳のとき、栽培に成功した薬草の一つだ。


「証拠もある!」


 クリスが合図する。


 従者が小さな布袋を持ってきた。


「リサが飲んだ茶に入っていたものだ!」


 エリザベートは袋を受け取った。


 開ける。


 乾燥した青白い葉。


 指先で一枚つまむ。


 鼻に近づける。


「…………」


 確かに月白草だった。


 エリザベートはもう一度匂いを嗅いだ。


 間違いない。


「どうだ!」


「月白草ですわね」


「やはり!」


 クリスが勝ち誇った。


 周囲がざわつく。


 エリザベートは不思議そうに彼を見た。


「何が『やはり』なのです?」


「認めたではないか!」


「これが月白草であることを認めただけです」


「同じことだ!」


「全然違いますわ」


 エリザベートは月白草を袋へ戻した。


 それからリサを見る。


「リサ様」


「……はい」


「このお茶は甘い香りがしたのですね?」


「はい」


「間違いなく?」


「間違いありません」


「そうですか」


 エリザベートは首をかしげた。


「では、月白草ではありませんわね」


「え?」


「なっ?」


 リサとクリスの声が重なった。


「月白草は乾燥させても甘い香りにはなりません」


「でも!」


「むしろ少し青臭いのです。好き嫌いの分かれる香りですわね。私は好きですが」


 それはどうでもいい。


「蜂蜜でも入っていたんだ!」


 クリスが言う。


「ああ。それなら甘い香りになりますわね」


「ほら!」


「ですが、それならリサ様は『甘い薬草の香り』ではなく『蜂蜜の香り』と感じた可能性が高いでしょう。まあ、ここは個人差がありますので、決め手にはなりません」


「…………」


 クリスが黙った。


 エリザベートは続ける。


「もう一つ」


 リサを見る。


「飲んだ直後に手が震えたのですね?」


「……はい」


「月白草を飲んで?」


「はい」


「それも妙ですわね」


「どうして……?」


「月白草で体調を崩すこと自体はあります。ただ、口に含んだ瞬間に全身へ作用するようなものではありません」


「でも私は!」


「ですから」


 エリザベートは穏やかに言った。


「月白草を飲んでいない、と申し上げているわけではありません」


「え?」


「体質、体調、量。他のものとの組み合わせ。いくらでも可能性はあります。今のお話だけで断定することはできません」


 ざわめきが少し収まった。


 クリスが怪訝な顔をする。


「……君は何が言いたいんだ?」


「簡単なことです」


 エリザベートは袋を返した。


「この月白草だけでは、私がリサ様へ毒を盛った証拠にはならない、と申し上げています」


「屁理屈だ!」


「では、もう少し簡単な話をしましょう」


 エリザベートはリサへ向き直った。


「三日前でしたね?」


「……はい」


「私のお茶会へいらした」


「はい」


「どこで?」


「え?」


「場所です」


「エリザベート様の……お屋敷です」


「王都の?」


「はい」


「何時ごろでしょう」


「午後……二時ごろです」


「そうですか」


 エリザベートは少し考えるふりをした。


 本当は考える必要などない。


「それは難しいですわね」


「何がです?」


「三日前の午後二時、私は王都におりませんでした」


 沈黙。


 今度こそ、大広間が完全に静まり返った。


 リサの顔から血の気が引いた。


「……え?」


「三日前から昨日まで、私はローゼンベルク領におりました」


「嘘……」


「父の代理で北部薬草園の視察に行っておりましたの」


「そんな……」


「学院にも届けを出しています」


 エリザベートは周囲を見た。


「同行した侍女が三名。護衛が六名。御者が二名。領地では代官、薬師、農園長など二十名以上と面会しております」


 ついでに。


「王都からローゼンベルク領までは馬車で一日半ほどかかります」


 少し考える。


「午後二時にリサ様とお茶を飲み、同じ日の夕方に領地で薬草畑を見て回るのは……」


 エリザベートは微笑んだ。


「私には少々難しいですわね」


「リサ?」


 クリスの声が低くなる。


「どういうことだ?」


「ち、違うの!」


「何が違う?」


「私……私……」


 リサが震え始めた。


「怖かったの!」


「何が?」


「エリザベート様が!」


「私?」


「だって!」


 リサが叫んだ。


「クリス様と話しているだけで、いつも冷たい目で私を見て!」


「それはたぶん普通に見ていただけです」


「嘘よ!」


 これは困った。


 エリザベートは昔から「怒っているように見える」と言われる。


 目つきについては反論しづらい。


「それに、あなたには全部あるじゃない!」


 リサの目から涙が落ちた。


「家柄も、お金も、美貌も、クリス様も!」


「最後の一つについては、もう差し上げましたけれど」


「エリザベート!」


 クリスが怒った。


 なぜ怒る。


 あなたが婚約破棄したのではないか。


「私は何もないのよ!」


 リサが続ける。


「どれだけ勉強しても平民だって笑われる! どれだけ頑張っても、あなたみたいな人にはなれない!」


 エリザベートは黙って聞いていた。


 リサにはリサの苦労があるのだろう。


 それは理解できる。


 だが。


「それと、私を毒殺未遂犯に仕立てることに、どのような関係が?」


「…………」


「ありませんわね」


 リサは答えなかった。


「リサ……」


 クリスが呆然としている。


「君は俺に嘘を?」


「違う!」


「何が違うんだ!」


「だってクリス様だって言ったじゃない!」


「俺が?」


「『エリザベートさえいなければ、君を選べるのに』って!」


 今度は周囲の視線がクリスへ集中した。


「それは……」


「何度も言ったじゃない!」


「いや、それは……」


 エリザベートは感心した。


 なるほど。


 そちらにも事情があったらしい。


 婚約者としては大変興味深い。


 いや。


 元婚約者か。


「ですから!」


 リサが涙を拭う。


「私がいじめられているって分かれば、クリス様がエリザベート様との婚約を破棄してくださると思って……」


「だから毒まで?」


「毒なんて飲んでない!」


 リサが叫んだ。


「月白草のことを調べて、そう言っただけよ!」


「…………」


 クリスが青ざめた。


 大広間のあちこちからため息が聞こえる。


 これで終わりだろう。


 エリザベートもそう思った。


 ところが。


「……あら?」


 エリザベートはリサの右手を見た。


 震えている。


 先ほどからずっと。


 泣いているから?


 いや。


 違う。


「リサ様」


「何よ!」


「少しこちらへ」


「嫌!」


「手を見せてください」


「触らないで!」


「エリザベート、まだリサを――」


「クリス様は黙っていてください」


「…………はい」


 今度は素直だった。


 エリザベートはリサへ近づいた。


 顔色が悪い。


 先ほどまでは緊張しているのだと思っていた。


 しかし近くで見ると違う。


 唇が乾いている。


 額には細かな汗。


「リサ様」


「……何?」


「最近、眠れています?」


「え?」


「食欲は?」


「なんで……」


「動悸はありません?」


 リサの表情が変わった。


「どうして知ってるの?」


 エリザベートは答えず、彼女の手を見る。


「いつからです?」


「……十日くらい前」


「薬を飲んでいますね?」


 リサが息をのんだ。


「どうして……」


「何を飲んでいます?」


「薬なんて……」


「リサ様」


 エリザベートは少しだけ声を強くした。


「あなたが私について嘘をついたことは、もう分かりました」


「…………」


「ですが」


 震える手を見る。


「あなたの体調が悪いことまで、嘘ではありませんわね?」


 リサの瞳から、先ほどとは違う涙がこぼれた。


「……怖い」


 小さな声だった。


「ずっと……おかしいの」


「何を飲みました?」


「美容薬」


「美容?」


「肌がきれいになるって……」


「持っていますか?」


 リサはためらった。


 やがてドレスの小さなポケットから瓶を取り出した。


 可愛らしい桃色の小瓶。


 エリザベートは受け取る。


「開けても?」


「……はい」


 蓋を開ける。


 匂いを嗅ぐ。


 少量をガラス皿に落とす。


「…………」


 エリザベートの眉が寄った。


「これ、どちらで?」


「学院の子から……」


「店は?」


「分からない」


 液体は淡い黄色。


 しかし底に、ごくわずかな濁りがある。


 エリザベートは瓶を光にかざした。


「リサ様。これは飲むのをやめてください」


「毒なの?」


「まだ分かりません」


「でも……」


「分からないことを分かったように言うのは、先ほどのあなたと同じになってしまいますでしょう?」


「…………」


「ですから調べます」


 エリザベートは瓶を閉じた。


「ただ、少なくとも正常な薬には見えません」


「じゃあ、私……」


「まず医師に診てもらいましょう」


 リサが呆然とする。


「助けるの?」


「はい?」


「私、あなたを陥れようとしたのよ?」


「ええ」


「なのに?」


 エリザベートには質問の意味が分からなかった。


「それとこれとは別問題ですわ」


「…………」


「あなたが私について嘘をついたことと、あなたが病人であることは別でしょう?」


 リサは何も言えなくなった。


 エリザベートは近くにいた学院長へ声をかけた。


「医務室をお借りできますか?」


「もちろんだ」


「それから、この薬と同じものを使用している生徒がいないか確認を」


 学院長の顔が険しくなった。


「何か問題が?」


「まだ分かりません。ただ」


 エリザベートは瓶を見た。


「少し嫌な感じがします」


     ◇


 その予感は当たった。


 それから二週間。


 王立学院と王都の医師、そしてローゼンベルク家の薬師によって調査が行われた。


 リサが飲んでいたのは、王都の若い女性の間で流行し始めていた美容薬だった。


 肌が美しくなる。


 食欲を抑えられる。


 疲れにくくなる。


 そんな触れ込みで売られていた。


 問題は中身だった。


 正規品として使われる薬草は高価だった。


 そこで製造業者が安価な別の薬草を混ぜていたのである。


 しかも保存状態も悪かった。


 同じ薬を使用していた女性の中から、リサと似た症状を訴える者が次々と見つかった。


 幸い、重篤な患者はいなかった。


 販売業者は営業停止。


 製造責任者については王国法に基づいて処分されることになった。


 そしてリサ。


 彼女の体調は、薬をやめると少しずつ回復した。


 もちろん、それで彼女の嘘が消えるわけではない。


 学院はリサに停学処分を下した。


 ローゼンベルク公爵家も正式に抗議した。


 毒殺未遂という虚偽の告発。


 それも公衆の面前で。


 公爵家として看過できるものではなかった。


 ただしエリザベート本人は、父に一つだけ頼んだ。


「必要以上の処罰は望みません」


「お前を犯罪者に仕立てようとした娘だぞ」


「ええ」


「腹は立たんのか?」


「立ちますわ」


「……立つのか」


「当然です」


 エリザベートは紅茶を飲んだ。


「ですが、腹が立ったからといって、相手の人生を壊す必要まではないでしょう?」


 父はしばらく娘を見ていた。


「お前は母親に似たな」


「そうでしょうか」


「ただし」


 父の眉間にしわが寄る。


「クリスの件は別だ」


「はい?」


「侯爵家とは徹底的に話をする」


「ああ」


 忘れていた。


 婚約の話があった。


     ◇


 三日後。


 クリスがローゼンベルク公爵邸を訪れた。


 ひどく憔悴していた。


「エリザベート」


「ごきげんよう」


「……少し話せないだろうか」


「構いません」


 二人は庭園へ出た。


 以前なら、婚約者同士として何度も歩いた場所だ。


「リサとは別れた」


「そうですか」


「彼女には騙されていた」


「その表現は、少し違うのではありません?」


「え?」


「リサ様が嘘をついたのは事実です」


「ああ」


「ですが、クリス様も『私さえいなければリサ様を選べる』とおっしゃったのでしょう?」


「それは……」


「でしたら、すべてをリサ様だけの責任にするのは違うと思います」


 クリスは黙った。


「俺は……」


 長い沈黙。


「間違えた」


「そうですね」


「もう少し優しく言ってくれないか?」


「間違えていないと?」


「いや……間違えた」


「でしたら同じです」


 クリスが小さく笑った。


 昔なら、ここでエリザベートが慰めてくれることを期待したのかもしれない。


「君は昔から変わらないな」


「そうでしょうか」


「正しいことばかり言う」


 少しだけ棘があった。


 エリザベートは考えた。


「クリス様」


「なんだ?」


「私は正しいことばかり言っていたつもりはありません」


「え?」


「あなたが間違っていても、あまり指摘しませんでした」


「……なぜ?」


「婚約者とはそういうものなのだと思っていましたから」


 政略結婚。


 互いの家の利益。


 公爵令嬢として求められる役割。


 感情より義務。


 エリザベートは、それが普通だと思っていた。


「もしかすると、それがいけなかったのかもしれませんね」


「エリザベート……」


「私はあなたに頼りませんでした」


 クリスが顔を上げる。


「あなたは、それが寂しかったのでしょう?」


「…………」


 答えはなかった。


 しかし、それで十分だった。


「すまなかった」


 クリスが頭を下げた。


「君の話も聞かず、リサの話だけを信じた」


「はい」


「大勢の前で君を侮辱した」


「はい」


「公爵家の名誉まで傷つけた」


「はい」


「……かなりあるな」


「そうですわね」


「許してくれるだろうか」


「謝罪は受け取ります」


 クリスの顔に少し安堵が浮かんだ。


「では――」


「ですが、許すとは申し上げておりません」


「…………」


「それも別問題ですわ」


 クリスは額を押さえた。


「君は最近、そればかりだな」


「便利ですもの」


 少しだけ二人で笑った。


 これくらいなら悪くない。


 そしてクリスが真剣な顔になった。


「婚約破棄についてなんだが」


「はい」


「父とも話した。もちろん君の家にも正式に謝罪する。それで……もし君が許してくれるなら」


 何を言おうとしているのか分かった。


「もう一度、やり直せないだろうか」


 エリザベートは少し考えた。


 クリスは悪人ではない。


 愚かなことはした。


 だが、心の底から悪い人間だとは思わない。


 リサも同じだ。


 だからといって。


 もう一度婚約したいかと聞かれると。


「申し訳ありません」


 答えは簡単だった。


「そう……か」


「はい」


「やはり、許せない?」


「それもありますが」


「他にも?」


「実は」


 エリザベートの表情が少し明るくなる。


「父から、北部の土地を一部いただけることになりまして」


「土地?」


「薬草研究所を作ろうと思っています」


「…………」


「温室も建てます」


「温室」


「ずっと欲しかったんです」


「エリザベート」


「はい?」


「今、ものすごく嬉しそうだぞ」


「そうですか?」


「婚約していたころ、そんな顔を見たことがない」


「まあ」


 それは申し訳ない。


「ですから」


 エリザベートは笑った。


「婚約破棄については、本当にお気になさらないでください」


「……それはそれで傷つくな」


「難しいですわね」


「ああ」


 クリスも苦笑した。


 これでいいのだろう。


 きっと。


     ◇


 それから半年。


 ローゼンベルク領北部。


「お嬢様!」


「こちらです!」


「またですか!」


 薬草畑の真ん中から、エリザベートが顔を出した。


「何でしょう?」


 侍女のマリアが呆れた顔をしている。


「何でしょう、ではありません! お茶のお時間です!」


「もうそんな時間?」


「一時間前から探しております!」


「まあ」


 エリザベートは立ち上がった。


 ドレスの裾は泥だらけ。


 手にも土。


 公爵令嬢としては、なかなかの姿である。


「お嬢様」


「はい」


「また薬草を増やしましたね?」


「三種類だけです」


「十二鉢あります」


「同じ種類は一つと数えます」


「数えません!」


「細かいことを」


「細かくありません!」


 研究所は完成していた。


 小さな建物から始める予定だった。


 しかし、エリザベートが「あれも必要」「これも必要」と言っているうちに、なかなか立派な施設になった。


 薬師も三名雇った。


 助手もいる。


 近隣の村から薬草栽培を学びたい農家も来るようになった。


 例の美容薬事件をきっかけに、王立学院から薬草の品質検査について相談されることも増えた。


 忙しい。


 非常に忙しい。


 そして。


 楽しい。


「エリザベート」


 聞き慣れた声がした。


「お父様?」


 公爵が研究所の前に立っていた。


 手には一枚の書類。


「これは何だ」


「どれでしょう」


「温室増築申請」


「ああ」


「先月も一棟建てただろう」


「先月のものは寒冷地用です」


「今度は?」


「高温多湿地域の薬草用ですわ」


「その前にも建てなかったか?」


「あれは乾燥地帯用です」


「三棟目ではないか」


「用途が違います」


「…………」


「必要ですわ」


 父が大きなため息をついた。


「婚約していたころより、ずいぶん生き生きしているな」


 エリザベートは少し驚いた。


「そうでしょうか?」


「自覚がないのか」


「ありませんでした」


「以前のお前は、何を聞いても『承知しました』ばかりだった」


「公爵令嬢ですもの」


「今は?」


 エリザベートは周囲を見た。


 薬草畑。


 温室。


 研究所。


 働いている薬師たち。


 乾燥棚には昨日届いたばかりの珍しい薬草。


 明日は南部から新しい苗が届く。


 試したい栽培方法もある。


 調べたいことも山ほどある。


「……そうですね」


 自然に笑みがこぼれた。


「今のほうが、楽しいかもしれません」


「そうか」


 父も笑った。


「では温室の件は?」


「却下だ」


「お父様!」


「予算というものを覚えろ!」


「必要経費です!」


「十二鉢のために温室を一棟建てるな!」


「今は十二鉢でも増えます!」


「増やすな!」


 研究所に笑い声が響いた。


 エリザベートは思う。


 半年前。


 大勢の前で婚約破棄を宣言されたとき。


 こんな生活になるとは思っていなかった。


 クリスとの婚約はなくなった。


 リサとは、あれ以来会っていない。


 風の噂では体調も回復し、別の街で勉強を続けているらしい。


 それでいい。


 クリスも、きっとそのうち別の誰かと出会うだろう。


 それもいい。


 人は間違える。


 自分だって間違える。


 大切なのは、そのあとどうするかだ。


 少なくともエリザベートは――。


「あっ!」


 突然声を上げた。


「今度は何だ!」


「お父様!」


「温室なら建てんぞ!」


「違います!」


 エリザベートは畑の隅へ駆けていく。


 見慣れない小さな葉が生えている。


 しゃがみ込む。


 葉の裏を見る。


 匂いを嗅ぐ。


「お嬢様! ドレスが!」


「マリア、採取袋!」


「またですか!」


「早く!」


「はいはい!」


 エリザベートは夢中で植物を観察した。


 父が呆れている。


 侍女がため息をついている。


 けれど、そんなことはどうでもいい。


 新しいことを知るのは楽しい。


 分からないことを調べるのは、もっと楽しい。


 そして何より。


 今は自分の人生を、自分で選べる。


 婚約者はいなくなった。


 けれど――。


 エリザベートの薬草園は、三倍になった。


                          ――完――


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