婚約破棄は結構ですが、毒を盛った覚えはありません ~薬草好き令嬢、濡れ衣を晴らしていたら王都の薬師より有名になっていました~
「エリザベート! 君との婚約を破棄する!」
王立学院の卒業を祝う夜会。
楽団の演奏まで止まった大広間に、クリス・アーヴィング侯爵令息の声が響き渡った。
ずいぶんとよく通る声だった。
エリザベート・フォン・ローゼンベルクは、手にしていたグラスを静かに給仕へ渡した。
「承知いたしました」
「…………え?」
クリスが固まった。
なぜ驚くのだろう。
エリザベートには、そちらのほうが不思議だった。
最近のクリスは、ほとんど毎日のようにリサ・ベルと一緒にいる。
学院の食堂でも。
庭園でも。
図書館でも。
先週など、エリザベートとの約束を忘れてリサと街へ出かけていた。
むしろ、まだ婚約者だったことのほうが驚きである。
「ですから、婚約破棄を承知いたしました」
「いや……」
「何か問題でも?」
「問題というか……」
クリスは困ったように隣を見た。
そこには小柄な少女が立っていた。
リサ・ベル。
平民出身ながら優秀な成績を認められ、奨学生として王立学院へ入学した少女だ。
淡い栗色の髪。
大きな瞳。
今にも泣き出しそうな顔。
実際、もう少し泣いている。
クリスが彼女の肩を抱いた。
「君は自分が何をしたのか分かっているのか!」
「婚約者のいる男性と親しくなさったのはリサ様ですし、その方との結婚を望んで婚約を破棄なさるのはクリス様ですが」
「そういう話ではない!」
では、どういう話なのだろう。
エリザベートは首をかしげた。
「君がリサに行ってきた数々の嫌がらせについてだ!」
「嫌がらせ?」
「とぼけるな!」
とぼけたつもりはない。
本当に知らない。
だがクリスは勢いづいた。
「教科書を隠した!」
「知りません」
「階段から突き落とそうとした!」
「初耳です」
「彼女を茶会に呼び出して侮辱した!」
「呼んでいません」
「そして三日前!」
クリスがエリザベートを指さした。
「君はついに、リサに毒を盛った!」
「…………はい?」
エリザベートは瞬きをした。
毒。
今、毒とおっしゃいました?
「リサは君から出された薬草茶を飲み、倒れたんだ!」
婚約破棄。
それはいい。
いや、家同士では色々あるだろうが、エリザベート個人としては構わない。
政略的に決められた婚約だった。
クリスを嫌ってはいない。
しかし、最近の彼の態度を考えれば、こちらから解消を申し出ることも考えていたくらいだ。
だから婚約破棄はいい。
だが。
「少々、お待ちくださいませ」
エリザベートは扇を閉じた。
「婚約破棄については承知いたしました」
「あ、ああ」
「ですが――」
クリスを見る。
「私が毒を盛ったという部分だけは、訂正していただく必要があります」
「何を今さら!」
「今さらも何もございません。婚約と毒殺未遂はまったく別のお話ですもの」
エリザベートはリサを見た。
「リサ様」
「ひっ……」
リサの肩が跳ねる。
そんなに怯えなくてもいいのに。
「私が毒を盛ったとおっしゃいましたね?」
「わ、私は……」
「エリザベート! リサを脅すな!」
「質問しただけです」
「その態度が――」
「クリス様」
エリザベートは微笑んだ。
「少し黙っていていただけます?」
「なっ……」
「毒を盛ったと言われているのは私ですので」
大広間のどこかから、誰かが小さく吹き出した。
クリスの顔が赤くなる。
リサは彼の袖をつかんだ。
「いいんです、クリス様……」
「リサ」
「私がお話しします」
健気な姿だった。
エリザベートは素直に感心した。
私には、あのように男性の袖をつかむのは難しそうですわね。
今度、侍女に練習させてもらおうか。
いや。
婚約者がいなくなるのだから必要ない。
そんなことを考えている間に、リサが話し始めた。
「三日前です」
「はい」
「エリザベート様から、お茶会に来るよう言われました」
「なるほど」
「怖かったんです。でも、行かなかったら何をされるか分からなくて……」
リサの声が震える。
「そこで、エリザベート様が青いお茶を……」
「青い?」
「薬草のお茶だとおっしゃいました」
エリザベートの眉が少し動いた。
薬草。
それは聞き流せない。
「どのようなお茶でした?」
「え?」
「色は青かったのですね?」
「はい」
「香りは?」
「香り……?」
「覚えていませんか?」
「……甘い香りでした」
「甘い」
「はい」
「味は?」
「少し苦くて……」
「なるほど」
エリザベートは考える。
青い。
甘い香り。
少し苦い。
「それを飲んだあと、どうなりました?」
「すぐに目眩がして……」
「すぐ?」
「はい」
「どの程度です?」
「飲んだ直後です。手が震えて、息が苦しくなって……」
「それから?」
「その日の夜には熱が出ました」
「医師には?」
「毒草ではないかと」
「何という毒草です?」
「それは……」
リサが言葉に詰まった。
代わりにクリスが答えた。
「月白草だ!」
エリザベートは思わずクリスを見た。
「月白草?」
「そうだ! 君なら当然知っているだろう!」
「ええ。それはもう」
知っているどころではない。
ローゼンベルク領の北部にも自生している。
エリザベートが十三歳のとき、栽培に成功した薬草の一つだ。
「証拠もある!」
クリスが合図する。
従者が小さな布袋を持ってきた。
「リサが飲んだ茶に入っていたものだ!」
エリザベートは袋を受け取った。
開ける。
乾燥した青白い葉。
指先で一枚つまむ。
鼻に近づける。
「…………」
確かに月白草だった。
エリザベートはもう一度匂いを嗅いだ。
間違いない。
「どうだ!」
「月白草ですわね」
「やはり!」
クリスが勝ち誇った。
周囲がざわつく。
エリザベートは不思議そうに彼を見た。
「何が『やはり』なのです?」
「認めたではないか!」
「これが月白草であることを認めただけです」
「同じことだ!」
「全然違いますわ」
エリザベートは月白草を袋へ戻した。
それからリサを見る。
「リサ様」
「……はい」
「このお茶は甘い香りがしたのですね?」
「はい」
「間違いなく?」
「間違いありません」
「そうですか」
エリザベートは首をかしげた。
「では、月白草ではありませんわね」
「え?」
「なっ?」
リサとクリスの声が重なった。
「月白草は乾燥させても甘い香りにはなりません」
「でも!」
「むしろ少し青臭いのです。好き嫌いの分かれる香りですわね。私は好きですが」
それはどうでもいい。
「蜂蜜でも入っていたんだ!」
クリスが言う。
「ああ。それなら甘い香りになりますわね」
「ほら!」
「ですが、それならリサ様は『甘い薬草の香り』ではなく『蜂蜜の香り』と感じた可能性が高いでしょう。まあ、ここは個人差がありますので、決め手にはなりません」
「…………」
クリスが黙った。
エリザベートは続ける。
「もう一つ」
リサを見る。
「飲んだ直後に手が震えたのですね?」
「……はい」
「月白草を飲んで?」
「はい」
「それも妙ですわね」
「どうして……?」
「月白草で体調を崩すこと自体はあります。ただ、口に含んだ瞬間に全身へ作用するようなものではありません」
「でも私は!」
「ですから」
エリザベートは穏やかに言った。
「月白草を飲んでいない、と申し上げているわけではありません」
「え?」
「体質、体調、量。他のものとの組み合わせ。いくらでも可能性はあります。今のお話だけで断定することはできません」
ざわめきが少し収まった。
クリスが怪訝な顔をする。
「……君は何が言いたいんだ?」
「簡単なことです」
エリザベートは袋を返した。
「この月白草だけでは、私がリサ様へ毒を盛った証拠にはならない、と申し上げています」
「屁理屈だ!」
「では、もう少し簡単な話をしましょう」
エリザベートはリサへ向き直った。
「三日前でしたね?」
「……はい」
「私のお茶会へいらした」
「はい」
「どこで?」
「え?」
「場所です」
「エリザベート様の……お屋敷です」
「王都の?」
「はい」
「何時ごろでしょう」
「午後……二時ごろです」
「そうですか」
エリザベートは少し考えるふりをした。
本当は考える必要などない。
「それは難しいですわね」
「何がです?」
「三日前の午後二時、私は王都におりませんでした」
沈黙。
今度こそ、大広間が完全に静まり返った。
リサの顔から血の気が引いた。
「……え?」
「三日前から昨日まで、私はローゼンベルク領におりました」
「嘘……」
「父の代理で北部薬草園の視察に行っておりましたの」
「そんな……」
「学院にも届けを出しています」
エリザベートは周囲を見た。
「同行した侍女が三名。護衛が六名。御者が二名。領地では代官、薬師、農園長など二十名以上と面会しております」
ついでに。
「王都からローゼンベルク領までは馬車で一日半ほどかかります」
少し考える。
「午後二時にリサ様とお茶を飲み、同じ日の夕方に領地で薬草畑を見て回るのは……」
エリザベートは微笑んだ。
「私には少々難しいですわね」
「リサ?」
クリスの声が低くなる。
「どういうことだ?」
「ち、違うの!」
「何が違う?」
「私……私……」
リサが震え始めた。
「怖かったの!」
「何が?」
「エリザベート様が!」
「私?」
「だって!」
リサが叫んだ。
「クリス様と話しているだけで、いつも冷たい目で私を見て!」
「それはたぶん普通に見ていただけです」
「嘘よ!」
これは困った。
エリザベートは昔から「怒っているように見える」と言われる。
目つきについては反論しづらい。
「それに、あなたには全部あるじゃない!」
リサの目から涙が落ちた。
「家柄も、お金も、美貌も、クリス様も!」
「最後の一つについては、もう差し上げましたけれど」
「エリザベート!」
クリスが怒った。
なぜ怒る。
あなたが婚約破棄したのではないか。
「私は何もないのよ!」
リサが続ける。
「どれだけ勉強しても平民だって笑われる! どれだけ頑張っても、あなたみたいな人にはなれない!」
エリザベートは黙って聞いていた。
リサにはリサの苦労があるのだろう。
それは理解できる。
だが。
「それと、私を毒殺未遂犯に仕立てることに、どのような関係が?」
「…………」
「ありませんわね」
リサは答えなかった。
「リサ……」
クリスが呆然としている。
「君は俺に嘘を?」
「違う!」
「何が違うんだ!」
「だってクリス様だって言ったじゃない!」
「俺が?」
「『エリザベートさえいなければ、君を選べるのに』って!」
今度は周囲の視線がクリスへ集中した。
「それは……」
「何度も言ったじゃない!」
「いや、それは……」
エリザベートは感心した。
なるほど。
そちらにも事情があったらしい。
婚約者としては大変興味深い。
いや。
元婚約者か。
「ですから!」
リサが涙を拭う。
「私がいじめられているって分かれば、クリス様がエリザベート様との婚約を破棄してくださると思って……」
「だから毒まで?」
「毒なんて飲んでない!」
リサが叫んだ。
「月白草のことを調べて、そう言っただけよ!」
「…………」
クリスが青ざめた。
大広間のあちこちからため息が聞こえる。
これで終わりだろう。
エリザベートもそう思った。
ところが。
「……あら?」
エリザベートはリサの右手を見た。
震えている。
先ほどからずっと。
泣いているから?
いや。
違う。
「リサ様」
「何よ!」
「少しこちらへ」
「嫌!」
「手を見せてください」
「触らないで!」
「エリザベート、まだリサを――」
「クリス様は黙っていてください」
「…………はい」
今度は素直だった。
エリザベートはリサへ近づいた。
顔色が悪い。
先ほどまでは緊張しているのだと思っていた。
しかし近くで見ると違う。
唇が乾いている。
額には細かな汗。
「リサ様」
「……何?」
「最近、眠れています?」
「え?」
「食欲は?」
「なんで……」
「動悸はありません?」
リサの表情が変わった。
「どうして知ってるの?」
エリザベートは答えず、彼女の手を見る。
「いつからです?」
「……十日くらい前」
「薬を飲んでいますね?」
リサが息をのんだ。
「どうして……」
「何を飲んでいます?」
「薬なんて……」
「リサ様」
エリザベートは少しだけ声を強くした。
「あなたが私について嘘をついたことは、もう分かりました」
「…………」
「ですが」
震える手を見る。
「あなたの体調が悪いことまで、嘘ではありませんわね?」
リサの瞳から、先ほどとは違う涙がこぼれた。
「……怖い」
小さな声だった。
「ずっと……おかしいの」
「何を飲みました?」
「美容薬」
「美容?」
「肌がきれいになるって……」
「持っていますか?」
リサはためらった。
やがてドレスの小さなポケットから瓶を取り出した。
可愛らしい桃色の小瓶。
エリザベートは受け取る。
「開けても?」
「……はい」
蓋を開ける。
匂いを嗅ぐ。
少量をガラス皿に落とす。
「…………」
エリザベートの眉が寄った。
「これ、どちらで?」
「学院の子から……」
「店は?」
「分からない」
液体は淡い黄色。
しかし底に、ごくわずかな濁りがある。
エリザベートは瓶を光にかざした。
「リサ様。これは飲むのをやめてください」
「毒なの?」
「まだ分かりません」
「でも……」
「分からないことを分かったように言うのは、先ほどのあなたと同じになってしまいますでしょう?」
「…………」
「ですから調べます」
エリザベートは瓶を閉じた。
「ただ、少なくとも正常な薬には見えません」
「じゃあ、私……」
「まず医師に診てもらいましょう」
リサが呆然とする。
「助けるの?」
「はい?」
「私、あなたを陥れようとしたのよ?」
「ええ」
「なのに?」
エリザベートには質問の意味が分からなかった。
「それとこれとは別問題ですわ」
「…………」
「あなたが私について嘘をついたことと、あなたが病人であることは別でしょう?」
リサは何も言えなくなった。
エリザベートは近くにいた学院長へ声をかけた。
「医務室をお借りできますか?」
「もちろんだ」
「それから、この薬と同じものを使用している生徒がいないか確認を」
学院長の顔が険しくなった。
「何か問題が?」
「まだ分かりません。ただ」
エリザベートは瓶を見た。
「少し嫌な感じがします」
◇
その予感は当たった。
それから二週間。
王立学院と王都の医師、そしてローゼンベルク家の薬師によって調査が行われた。
リサが飲んでいたのは、王都の若い女性の間で流行し始めていた美容薬だった。
肌が美しくなる。
食欲を抑えられる。
疲れにくくなる。
そんな触れ込みで売られていた。
問題は中身だった。
正規品として使われる薬草は高価だった。
そこで製造業者が安価な別の薬草を混ぜていたのである。
しかも保存状態も悪かった。
同じ薬を使用していた女性の中から、リサと似た症状を訴える者が次々と見つかった。
幸い、重篤な患者はいなかった。
販売業者は営業停止。
製造責任者については王国法に基づいて処分されることになった。
そしてリサ。
彼女の体調は、薬をやめると少しずつ回復した。
もちろん、それで彼女の嘘が消えるわけではない。
学院はリサに停学処分を下した。
ローゼンベルク公爵家も正式に抗議した。
毒殺未遂という虚偽の告発。
それも公衆の面前で。
公爵家として看過できるものではなかった。
ただしエリザベート本人は、父に一つだけ頼んだ。
「必要以上の処罰は望みません」
「お前を犯罪者に仕立てようとした娘だぞ」
「ええ」
「腹は立たんのか?」
「立ちますわ」
「……立つのか」
「当然です」
エリザベートは紅茶を飲んだ。
「ですが、腹が立ったからといって、相手の人生を壊す必要まではないでしょう?」
父はしばらく娘を見ていた。
「お前は母親に似たな」
「そうでしょうか」
「ただし」
父の眉間にしわが寄る。
「クリスの件は別だ」
「はい?」
「侯爵家とは徹底的に話をする」
「ああ」
忘れていた。
婚約の話があった。
◇
三日後。
クリスがローゼンベルク公爵邸を訪れた。
ひどく憔悴していた。
「エリザベート」
「ごきげんよう」
「……少し話せないだろうか」
「構いません」
二人は庭園へ出た。
以前なら、婚約者同士として何度も歩いた場所だ。
「リサとは別れた」
「そうですか」
「彼女には騙されていた」
「その表現は、少し違うのではありません?」
「え?」
「リサ様が嘘をついたのは事実です」
「ああ」
「ですが、クリス様も『私さえいなければリサ様を選べる』とおっしゃったのでしょう?」
「それは……」
「でしたら、すべてをリサ様だけの責任にするのは違うと思います」
クリスは黙った。
「俺は……」
長い沈黙。
「間違えた」
「そうですね」
「もう少し優しく言ってくれないか?」
「間違えていないと?」
「いや……間違えた」
「でしたら同じです」
クリスが小さく笑った。
昔なら、ここでエリザベートが慰めてくれることを期待したのかもしれない。
「君は昔から変わらないな」
「そうでしょうか」
「正しいことばかり言う」
少しだけ棘があった。
エリザベートは考えた。
「クリス様」
「なんだ?」
「私は正しいことばかり言っていたつもりはありません」
「え?」
「あなたが間違っていても、あまり指摘しませんでした」
「……なぜ?」
「婚約者とはそういうものなのだと思っていましたから」
政略結婚。
互いの家の利益。
公爵令嬢として求められる役割。
感情より義務。
エリザベートは、それが普通だと思っていた。
「もしかすると、それがいけなかったのかもしれませんね」
「エリザベート……」
「私はあなたに頼りませんでした」
クリスが顔を上げる。
「あなたは、それが寂しかったのでしょう?」
「…………」
答えはなかった。
しかし、それで十分だった。
「すまなかった」
クリスが頭を下げた。
「君の話も聞かず、リサの話だけを信じた」
「はい」
「大勢の前で君を侮辱した」
「はい」
「公爵家の名誉まで傷つけた」
「はい」
「……かなりあるな」
「そうですわね」
「許してくれるだろうか」
「謝罪は受け取ります」
クリスの顔に少し安堵が浮かんだ。
「では――」
「ですが、許すとは申し上げておりません」
「…………」
「それも別問題ですわ」
クリスは額を押さえた。
「君は最近、そればかりだな」
「便利ですもの」
少しだけ二人で笑った。
これくらいなら悪くない。
そしてクリスが真剣な顔になった。
「婚約破棄についてなんだが」
「はい」
「父とも話した。もちろん君の家にも正式に謝罪する。それで……もし君が許してくれるなら」
何を言おうとしているのか分かった。
「もう一度、やり直せないだろうか」
エリザベートは少し考えた。
クリスは悪人ではない。
愚かなことはした。
だが、心の底から悪い人間だとは思わない。
リサも同じだ。
だからといって。
もう一度婚約したいかと聞かれると。
「申し訳ありません」
答えは簡単だった。
「そう……か」
「はい」
「やはり、許せない?」
「それもありますが」
「他にも?」
「実は」
エリザベートの表情が少し明るくなる。
「父から、北部の土地を一部いただけることになりまして」
「土地?」
「薬草研究所を作ろうと思っています」
「…………」
「温室も建てます」
「温室」
「ずっと欲しかったんです」
「エリザベート」
「はい?」
「今、ものすごく嬉しそうだぞ」
「そうですか?」
「婚約していたころ、そんな顔を見たことがない」
「まあ」
それは申し訳ない。
「ですから」
エリザベートは笑った。
「婚約破棄については、本当にお気になさらないでください」
「……それはそれで傷つくな」
「難しいですわね」
「ああ」
クリスも苦笑した。
これでいいのだろう。
きっと。
◇
それから半年。
ローゼンベルク領北部。
「お嬢様!」
「こちらです!」
「またですか!」
薬草畑の真ん中から、エリザベートが顔を出した。
「何でしょう?」
侍女のマリアが呆れた顔をしている。
「何でしょう、ではありません! お茶のお時間です!」
「もうそんな時間?」
「一時間前から探しております!」
「まあ」
エリザベートは立ち上がった。
ドレスの裾は泥だらけ。
手にも土。
公爵令嬢としては、なかなかの姿である。
「お嬢様」
「はい」
「また薬草を増やしましたね?」
「三種類だけです」
「十二鉢あります」
「同じ種類は一つと数えます」
「数えません!」
「細かいことを」
「細かくありません!」
研究所は完成していた。
小さな建物から始める予定だった。
しかし、エリザベートが「あれも必要」「これも必要」と言っているうちに、なかなか立派な施設になった。
薬師も三名雇った。
助手もいる。
近隣の村から薬草栽培を学びたい農家も来るようになった。
例の美容薬事件をきっかけに、王立学院から薬草の品質検査について相談されることも増えた。
忙しい。
非常に忙しい。
そして。
楽しい。
「エリザベート」
聞き慣れた声がした。
「お父様?」
公爵が研究所の前に立っていた。
手には一枚の書類。
「これは何だ」
「どれでしょう」
「温室増築申請」
「ああ」
「先月も一棟建てただろう」
「先月のものは寒冷地用です」
「今度は?」
「高温多湿地域の薬草用ですわ」
「その前にも建てなかったか?」
「あれは乾燥地帯用です」
「三棟目ではないか」
「用途が違います」
「…………」
「必要ですわ」
父が大きなため息をついた。
「婚約していたころより、ずいぶん生き生きしているな」
エリザベートは少し驚いた。
「そうでしょうか?」
「自覚がないのか」
「ありませんでした」
「以前のお前は、何を聞いても『承知しました』ばかりだった」
「公爵令嬢ですもの」
「今は?」
エリザベートは周囲を見た。
薬草畑。
温室。
研究所。
働いている薬師たち。
乾燥棚には昨日届いたばかりの珍しい薬草。
明日は南部から新しい苗が届く。
試したい栽培方法もある。
調べたいことも山ほどある。
「……そうですね」
自然に笑みがこぼれた。
「今のほうが、楽しいかもしれません」
「そうか」
父も笑った。
「では温室の件は?」
「却下だ」
「お父様!」
「予算というものを覚えろ!」
「必要経費です!」
「十二鉢のために温室を一棟建てるな!」
「今は十二鉢でも増えます!」
「増やすな!」
研究所に笑い声が響いた。
エリザベートは思う。
半年前。
大勢の前で婚約破棄を宣言されたとき。
こんな生活になるとは思っていなかった。
クリスとの婚約はなくなった。
リサとは、あれ以来会っていない。
風の噂では体調も回復し、別の街で勉強を続けているらしい。
それでいい。
クリスも、きっとそのうち別の誰かと出会うだろう。
それもいい。
人は間違える。
自分だって間違える。
大切なのは、そのあとどうするかだ。
少なくともエリザベートは――。
「あっ!」
突然声を上げた。
「今度は何だ!」
「お父様!」
「温室なら建てんぞ!」
「違います!」
エリザベートは畑の隅へ駆けていく。
見慣れない小さな葉が生えている。
しゃがみ込む。
葉の裏を見る。
匂いを嗅ぐ。
「お嬢様! ドレスが!」
「マリア、採取袋!」
「またですか!」
「早く!」
「はいはい!」
エリザベートは夢中で植物を観察した。
父が呆れている。
侍女がため息をついている。
けれど、そんなことはどうでもいい。
新しいことを知るのは楽しい。
分からないことを調べるのは、もっと楽しい。
そして何より。
今は自分の人生を、自分で選べる。
婚約者はいなくなった。
けれど――。
エリザベートの薬草園は、三倍になった。
――完――




