安堵
サプリの瓶をテーブルに置いたまま、僕は一晩中眠れなかった。メモの文字が頭にこびりついている。「飲まないと、君の大事なものが壊れるよ」。脅し文句なのに、社長の声で読み上げると、なぜか優しい忠告のように聞こえた。
翌朝、会社に行くと、社長はいつものように会議室にこもっていた。ガラス越しに手を振ると、彼は明るく笑って応えた。昨夜のメモは夢だったのかと思うほど、普通の朝だった。デスクに着くと、僕のキーボードの上に新しいメモが一枚。「おはよう。今日は大事な会議があるから、頑張ろうな」。社長の字だ。いつ置いたのか分からない。でも、温かい言葉に、少しほっとした。
午前のミーティングで、社長はいつものウイットを披露した。新規プロジェクトの説明中、競合他社の名前を出して「向こうはまだアナログ人間だよな」と冗談を飛ばす。みんなが笑う。女性社員の一人が「山崎さん、ほんと面白い!」と声を上げると、彼は照れたように「いやいや、君たちの笑顔が見たくてさ」と返した。場が和む。僕もつられて笑った。あのメモのことは、きっと僕の思い過ごしかも知れない。
昼休み、同僚と弁当を食べながら雑談した。「社長って、ほんと社員思いだよな。出張先から一人一人に電話かけてくるなんて、普通しないよ」。同僚は頷いた。「確かに。俺、昨日も大阪から電話来たって言ったら、社長『いや、東京にいるよ』って笑ってたけどさ」。僕は箸を止めた。大阪出張のはずなのに。聞き間違いかと思って流した。
午後、社長が会議室から出てきて、僕のデスクに寄った。「拓也くん、昨夜のメモ見た? 君の体調が心配でさ。サプリ、ちゃんと飲んでる?」穏やかな目だった。僕は「はい、ありがとうございます」と答えた。彼は満足げに頷き、「君は俺にとって特別なんだ。もっと伸びてほしいから、期待してるよ」と肩を叩いた。その言葉が嬉しくて、疑問がまた薄れた。
夕方、社長がまた出張に出ると聞いた。今度は名古屋らしい。みんなで「いってらっしゃい」と見送った。エレベーターが閉まる瞬間、彼が僕だけを見て小さく手を振ったような気がした。でも、他の人も振られたのかもしれない。
帰宅途中の電車で、スマホにメールが届いた。社長から。「今、新幹線の中。君の今日のプレゼン、完璧だったよ。誇らしい」。どうやって知ったんだろう。会議室にこもっていたはずなのに。既読をつけると、すぐに返信。「早く家に着いて、休んでね」。優しい言葉に、胸が温かくなった。
家に着くと、玄関に小さな封筒が入っていた。中には、手書きのカード。「お疲れ様。君の頑張りは、ちゃんと見てるよ」。社長の字だ。いつ届けたのか。インターホンの記録を確認したが、何も映っていない。不思議だな、と思ったけど、疲れのせいだろう。
夜、ベッドに入ってから、ふと昨夜の脅しメモを思い出した。でも、今日の優しい言葉たちと比べると、あれは僕の被害妄想かもしれない。社長はただ、僕を大切に思ってくれているだけだ。女性社員たちも、彼の気遣いを褒めていたっけ。
寝る前に、テーブルの上のサプリ瓶を見た。一錠飲もうか迷った。社長の期待に応えたい気持ちが、少しずつ膨らんでいく。でも、まだ飲まなかった。明日でいいや。
窓の外を見ると、街灯の下に人影が立っているような気がした。すぐに消えた。カーテンを閉めて、電気を消した。暗闇の中で、社長の声が頭に響く。「君は俺にとって特別なんだ」。
心地よい安心感に包まれながら、僕は眠りについた。疑問は、また一つ、霧のように溶けていった。




