影の視線
大学を卒業してすぐに、大手のIT企業に入社した。
僕の名前は佐藤拓也。専攻は文学部で、プログラミングなんてほとんど触れたことがなかった。でも、就職活動で「コミュニケーション能力が高い」と評価され、営業支援の部署に配属された。技術はゼロだったけど、先輩たちと雑談を交わしながら資料を作ったり、顧客の話を聞いてまとめたりするのが意外と楽しかった。残業は多かったけど、チームの飲み会で笑い合えるし、給料も悪くなかった。毎日が充実していた。
入社三年目のある日、人事から突然の辞令が出た。グループ内の子会社への転籍。理由は「事業再編」。子会社はAIを活用したデータ分析を手がける小さなベンチャーで、社員は二十人ほど。本社から離れるのは寂しかったが、「新しい挑戦だ」と自分に言い聞かせて引き受けた。
子会社に着いた初日、社長の山崎と面談した。彼は四十代後半、細身で眼光が鋭い男だった。挨拶を交わすと、すぐに「君、技術ないんだって?」と切り込まれた。正直に頷くと、彼は笑った。「いいよ。俺が鍛えてやる」。
それから地獄の日々が始まった。山崎社長は僕を自分の直下に置き、朝から晩まで課題を課した。データの前処理、統計の基礎、Pythonの入門書を一週間で読破しろと命じられた。できが悪いと「これじゃ価値がない」と一蹴され、深夜まで残業を強要された。でも不思議と嫌じゃなかった。叱られるたびに、自分の甘さが浮き彫りになり、少しずつコードが書けるようになった。社長は厳しかったが、時々「よく気づいたな」と褒めてくれた。その一言が嬉しくて、僕は必死に食らいついた。半年後には、自分でも驚くほど成長している実感があった。細かなバグを見つけられるようになったし、データの異常値に敏感になった。自分が変わったと思った。
ある日、社長室に呼ばれた。いつものように課題のフィードバックかと思ったら、彼は小さな錠剤の入った瓶を差し出した。「これ、飲んでみろ。集中力が上がるサプリだ。俺も飲んでる」。怪しいと思ったが、社長の目が真剣で、断れなかった。以来、毎朝一錠飲むのが日課になった。最初はプラシーボ効果だと思っていたが、確かに効果はあった。画面のピクセルのズレが気になったり、メールの文面の微妙なニュアンスに過敏になったり。会議中の誰かの視線の動きまで、なぜか意識するようになった。仕事の精度はさらに上がった。
異変に気づいたのは、転籍から一年が過ぎた頃だった。社長の態度が変わり始めた。僕が残業していると、必ず近くにいる。僕がトイレに行けば、数分後に彼も来る。僕のデスクの引き出しが、時々微妙に位置がずれている気がした。でも証拠はない。気のせいだと言い聞かせた。
ある夜、終電を逃して会社に泊まった。疲れて仮眠を取っていると、誰かの気配を感じて目を覚ました。暗闇の中、社長が僕のデスクの前に立っていた。パソコン画面の光が彼の顔を青白く照らしている。僕が起き上がると、彼は静かに微笑んだ。「まだ仕事か。偉いな」。その目は、獲物を見るようだった。
それ以降、監視されている感覚が消えなくなった。僕のスマホに知らないアプリが増えていた。位置情報が常にオンになっている。でも、誰にも言えなかった。社長は表向きは何も変わらない。会議では普通に接し、褒めてくれる。ストーキングなど微塵も感じさせない完璧な演技だった。
ある日、僕は耐えきれなくなって、サプリの瓶を調べた。成分表には書かれていない物質が含まれていた。ネットで検索すると、それは向精神薬に近いものだった。集中力を高める代わりに、不安や強迫観念を増幅させる副作用があるらしい。社長は僕を「気づかせる」ために、わざと飲ませていたのかもしれない。細かなことに気づくようになったのは、成長ではなく、病的な過敏さだった。
外に出ると、街灯の下に彼の影が伸びていた。振り返っても誰もいない。でも、確かに感じる。ずっと、僕を見ている視線が。




