Ⅵ 仮面の茶会
王宮の朝は、容赦がない。
夜会の余韻を味わう間もなく、夜明けと同時に石床に靴音が響き、銀器の音が重なり合う。昨日の華やぎが夢だったかのように、今日という一日が始まっていた。
だが、夢と現の境界には、ひとつだけ確かなものが残っていた。変な噂。
「お嬢様……本当にお出ましになるのですか?」
リリアはうつむいたまま問いかけた。手にした櫛は小刻みに揺れ、結い上げる髪に力がこもっていない。
「もちろんよ」
エリスは鏡越しに静かに返す。
「行かなければ、噂を事実として認めるようなものだもの」
言い切ると同時に、自分の声がわずかに冷えているのに気づいた。
胸の奥でかすかな恐怖が渦巻いている。噂というものは、真偽にかかわらず「信じたい形」で広がっていく。
昨日までの観察者の立場は、もはや奪われた。舞台の中央に立たされてしまったのだ。
それでも、逃げる気はなかった。
「大丈夫よ、リリア」
振り向いて笑みを浮かべると、彼女の瞳は怯えを隠せないまま潤んでいた。
「お嬢様のご無事を……ただ、それだけを」
「ええ。それを守るのが私の役目だわ」
エリスは紅を引いた唇を鏡に映し、自分に言い聞かせるように頷いた。
◇◇◇
茶会の広間は、朝の光を受けて絢爛そのものだった。
透き通るほど薄い陶器、きらめくガラスの水差し、鮮やかに盛られた果実。
貴婦人たちの笑い声が重なり合うが、その調べは心地よい旋律ではなく、不協和音を孕んでいる。
エリスが姿を見せると、一瞬だけざわめきが止まり、次いで花が咲くように笑顔が広がった。
「まあ、エリス様」
「ようこそ。お変わりなくて?」
声の一つ一つに探る色が混じる。
エリスは完璧な笑みを返した。
「皆さまもお元気そうで何よりですわ」
──視線が刺さる。
あからさまに値踏みするものもあれば、仮面のような柔らかさに包んだものもある。
けれど、そのどれもが噂を知っている目だった。
(やはり……この場に答えがある)
エリスは裾を揺らし、軽やかに席に着いた。表面上は優雅に。だが心の奥では、狩人が弓を引き絞るように緊張していた。
◇◇◇
「最近、王宮も落ち着きませんこと」
「ええ、耳にするのは妙な話ばかり」
貴婦人たちの声が、遠回しに矢を放ってくる。矛先はエリス自身。
その中心にいるのは、薄桃色のドレスを纏った侯爵令嬢セリーヌ。
透き通るような笑みを浮かべ、手元のカップを傾ける。
「昨夜の夜会、とても華やかだったと伺いましたわ。
特にエリス様が、とても楽しそうにされていたとか……」
言葉は穏やか。だが花弁に潜む棘のように、確かに毒を含んでいた。
周囲が小さく笑い、ちらちらとエリスを窺う。
エリスは扇を口元に添えた。
「まあ。では、私の拙い振る舞いもお目にかけしてしまいましたのね」
軽やかに返すと、数人がくすりと笑う。だがその笑いは緊張に縁取られていた。
(……やはり、この方か。噂を『撒く役』は)
だが、それだけでは足りない。撒いた種に水を与え、根を張らせる存在が必ずいる。
エリスは紅茶を口に含み、視線を巡らせた。
頬を染める令嬢、あえて声を張る者、笑いを飲み込んでうつむく者。
そのひとつひとつが、噂の地図を描いていく。
(この輪の中にいる。──きっと)
◇◇◇
茶会が終わり、広間を後にした。
人の視線から解き放たれた途端に、リリアが駆け寄る。
「お嬢様……! あれは、あまりにも……」
声は震え、目には怒りとも涙ともつかぬ光があった。
「大丈夫よ」
エリスは落ち着き払った口調で応じ、扇を軽く閉じて床に打ちつけた。
「むしろ、思った以上に収穫があったわ」
「収穫……?」
リリアは目を瞬かせる。
「ええ。誰が糸を引いているのか──もう見当はついた。あとは証を手に入れるだけ」
窓の外には、白々とした陽が降り注いでいた。
噂は棘のように鋭い。けれど、その刃をも逆手に取る術を、エリスは見据えていた。
微笑を浮かべたその瞳には、もう怯えはない。
「仮面の下を暴くまで……私は決して退かない」
◇◇◇
こうしてエリスは、王宮の茶会を「観察の場」として終えた。
次に必要なのは、仮面の下に隠された素顔を掴むこと──。
日付が変わった時に今日の作品が刊行できてませんでした。申し訳ございません。
1日1本という目標を掲げていたというのに三日坊主すぎる…




