雨後の子
水そのものに良いも悪いもなく、見る人間が勝手に判断しているだけだと思いませんか?
「俺は藤立だ、短い間だがよろしくな!」
「そうだ、雨が降った後は気を付けろよ〜?雨後の子が出るからな」
前任の教師の怪我だとかで新しく赴任した男は、小学校生活最後の始業式を終え後は帰るのみとなった子供達の自己紹介が終わって自分の番となるや、教壇に立つと開口一番子供達にそう告げた。
途端、教室は喧騒に包まれる。子どもたちは何それなにそれと興味津々な者。全く取り合わず笑う者とに二分され、喧々囂々の笑い声が教室に木霊する。だが束の間の喧騒は、次の言葉でいとも容易くかき消された。
「静かに」
基本的に、子供とは騒がしいものだ。小学校の高学年といっても、その原則から外れるものではない。だが歴戦の教師の中には話術や飴と鞭、あるいは堂々たる威厳によってその子供たちを静かにさせてしまう者もいる。
だが、この藤立という男は違った。歳の頃はどう高く見積もっても三十前半といった風体で、しっとり濡れたような癖っ毛はくたびれた印象を見るものに与える。新たな隣人に浮かれはしゃぐ子供に自己紹介をさせるのに10分以上はかけていることから見ても要領の良い人間とは言えず、また教師としての経験も浅いであろうこの男の発言が、ならばどうして子供達の静寂を勝ち得たのだろうか?確かに真剣な口調であったことは確かだが、まだ小学生である彼らにそういった努力がどこまで通じるのかは甚だ疑問である。
しかし、実際教室に響いていた笑い声は今や残響と化し、子供達はこの静寂を破ることが罪であるかのように互いに顔を見合わせたり、親に本気で怒られた時のように俯き、彼の方を凝視したまま動かず、中には今にも泣き出しそうな者までいた。
教壇の上で子供たちの反応を見渡していた男は満足そうに頷くと
「それでは今日はこれまで。台風が近づいているので、皆早く帰るようにな!」
そう言って彼は教室を後にしたが、続くものは現れない。昨日雨が降っていたからだとでもいうのか。
先程までなんだそりゃと大笑いしていた小学生にしては体の大きい彼は、辺りを忙しなく見渡すのみで席を立とうとはしない。
クラスのマドンナ的ポジションの彼女は、隣に座る早くも友達になったのであろう女子と手を繋いで震えている。
比較的大人しい長身の彼は机に両肘を立て、まるで祈るように手を組んで俯いている。
やたら恰幅の良い少年は腕を体の横で力なく下ろし、机に突っ伏したまま窓の外の海へ虚ろな表情を投げかけている。
クラスの27名中26名が、まるで教室に閉じ込められているかのような異様な光景がそこにはあった。無論閉じ込められているというのは比喩表現であって教室の扉には鍵などかかっていないし、先程男が出て行った前方の扉などは開け放たれたままだ。にも関わらず、誰も出ていこうとはしない。恐怖に射竦められてしまっているかのように、教室に縛り付けられているのだ。
まるで牢獄のような教室で、ボロボロの椅子に座っていた一人の少年が立ち上がる。
彼は自分の机の上に置かれている花瓶からヤマユリの花を抜き取ると、花瓶を高く掲げ中に入っていた水をまるで可愛がっている植物の鉢植へそうするように、教室の床へと注いだ。
びちゃびちゃびちゃびちゃ
静寂を破った水音に呼応するかのように甲高い悲鳴があがり、先程までの様子が嘘だったかのように彼以外の全員が教室の外へと走り出ていく。彼が水の染み一つ無い床から窓の外へと視線を移すと、校庭で両手を高く掲げ手を振っている教師が目についた。
余程誰かに気づいて欲しいのか、はたまた感動の別れのシーンなのか……いや?恐らくは終業式ぶりに見るそいつは尚も激しく両手を振って、必死に何かを伝えようとしているようだ。
滑稽な眺めに緩む口元を必死で抑えていると、先程教室を出て行ったクラスメイト共がそれの様子に気づいたのか皆で近づいていくのが見えた。
今だ!いまだいまだいまだ!!
今までの人生でこれほどまで強く念じたことはないほど万感の意を込めて、校庭の27名を凝視する。
すると一人、また一人と先達に倣って両手を上げ、手を激しく振り始める様子に久しく忘れていた笑顔が戻る。
小学生にしては体の大きい彼は腹ばいになったまま藻掻いていたが直ぐに動かなくなり
クラスのマドンナ的ポジションの彼女は教室では隣り合い仲良く談笑していた女子の頭を乱暴に掴んで離さず
比較的大人しい長身の彼は既に動かなくなっている教師未満の大人に必死の形相で抱きつき
やたら恰幅の良い少年はまるで蟻に貪られる昆虫のように大勢からその体中を鷲掴まれていた。
体力のない者から順に動きを止めていき、やがて全員が腹ばいや仰向けの体勢で動かなくなると、連中は校庭の地面へと完全に沈み込んでいった。
あぁ、スッキリした。
この6年間で1度も感じたことのない晴れ晴れとした気分で廊下に出ると昇降口で靴を履き替え、家とは反対方向の校門へと歩き出した。
その海を望む校門には、男が悲しげな表情で彼を待っていた。
「本当に行くのかい?昨日も説明したと思うけど、君まで行く必要は無いんだよ。前回の子も君と同じ様な境遇でね、彼ならきっと分かってく」
「いいんです。でも、別に罪の意識から行くわけじゃないんですよ。けじめというか、なんというか……それにこのまま中学校に入っても、また嫌な目にあうだけだろうし」
「……分かった。だが覚えているかい?今行くということは」
「大丈夫です。でも、1つだけ聞かせてもらってもいいですか?」
「勿論だとも。何だい?」
「僕は天国や地獄は信じてないんですが、今行ったらさっき送った連中と同じところにいくんでしょうか?」
「ははは、大丈夫だよ。彼らが行くのは精々俺の腹の底だからね。だが君は違う」
「……」
「考え直してくれたかい?」
「……いえ、やっぱりいってきます。本当にありがとうございました、藤立さん。あんなに笑ったのは久し振りです」
「そうか……分かった。いってらっしゃい。場所は分かるね?」
「はい。いってきます」
遠くに突き出す崖から落ちた小さな点が一際大きな波に受け止められると、先程まで猛り狂っていた海面は幾分か落ち着きを取り戻したかのようにその波高を下げ、穏やかな表情へと変わっていく。
元より水には善も悪もない。それが形を変えただけのものでも同様だろう。
海にも雨にも意思はなく、ただ人間だけがそれを与える。故にこそ尽きることなど無く、人の望むままに全てを与え、受け入れる。
全てを見届けた彼は、少年が好きだと言っていたタンポポの花を村人の誰も知らないであろう波食窪にある小さな社に供えると、打ち付けてきた白波のあげる飛沫に紛れ、消えていった。
「聞いた?先生昨日転んで入院したらしいよ」
「ギャグじゃん、いつもあいつのことでうるせーから天罰が当たったんだよ」
「天罰ったらうちらのが当たるんじゃね?」
「ないない!俺らはただ友達の居ない可哀想なやつと遊んであげてる親切ないい子だろ?むしろ褒められて当然ってもんよ」
「そいや、先生居ないんなら今日はどうするワケ?」
「んー、確か別の学校から先生が来るとか言ってたけど……」
「へー!なんてーの?」
「えっとね、確か……」
「俺は藤立だ、短い間だがよろしくな!」