夢に名前はない
静寂の中で、誰かが目を開けた。
最初に視界に飛び込んできたのは、鉄のドア。閉まっている。周囲は薄暗く、壁には部屋番号のようなものが彫られている──B3 - ANA。
彼女──いや、“私”はそれが自分の名前ではないことを知っていた。ただ、それがこの部屋の名前だということは直感的に理解していた。
「ここ、どこ……?」
呟いた声が、自分の声ではない気がした。
口の動きと音が、わずかにずれていた。
“私”は、他者の夢の中にいる自分のように、壁に手を当て、廊下を進んだ
廊下にはいくつも扉が並んでいた。
「KAZ」「IORI」「S.L」「灰室」……名前とも記号ともつかない文字が、プレートのように貼り付けられている。ひとつひとつの扉に、異なる鼓動のような気配が感じられる。
どれも、自分が入ってはいけない気がした。けれど、見覚えがある。
──夢の中でしか出会えない、別の“私”たちの名前。
「知ってる。全部、私だ。でも、私じゃない」
歩くたびに、天井の光が少しずつ青から赤へと変わっていく。
それは時間の流れではなく、**“人格交代の兆候”**だと理解していた
ひとつの扉が開いた。
なにもしていないのに、勝手に、ゆっくりと。
中から出てきたのは、男の子だった。白い服を着て、顔には傷がある。その目は、夢の中の人間にはありえないくらい、現実的だった。
「君は……」
「僕は“夢の管理人”だよ。いつもここで、順番を守ってる」
「順番?」
彼は軽くうなずいた。
「夢は一人ずつしか見られない。君が“今、起きてる人格”なら、もうすぐ変わる。君の夢は、あと1分で終わる」
そう言った瞬間、部屋の奥から足音が聞こえてきた。ヒールの音だ。**“灰室”**だ、と“私”は直感した
その時だった。
視界がガクンと崩れ、上下左右の感覚が消えた。
空間が反転するように、“私”の目の前に無数の断片映像が現れた。どれも、見覚えのない過去。血まみれのカーテン。破られたぬいぐるみ。カッターナイフ。教会の天井。
これは私の記憶ではない。
だが、私の身体がそれを覚えている。
目の奥が焼けるように痛む。
名前が、わからなくなる
足音が止まり、長い影がこちらを見下ろしている。
「あんた、また勝手に夢見てるのね」
声の主は、“私”のはずだった。だけど、彼女は“私”を見下ろしていた。
そして、私の胸に手を差し入れるようにして、心臓の鼓動を吸い取っていく。
意識が薄れていく。身体が遠のいていく。
私という形が溶けていく
最後の視界の中で、私はかすかに見た。
開いた扉の奥で、誰かが静かにベッドに座っていた。目を閉じ、静かに夢を見ている。彼女の表情は、苦しみに満ちているようで、どこか安らかでもあった。
そして、彼女が見ている夢の中で──私がまた、廊下を歩き出す
終章:名前なき夢
目を覚ました“私”は、すぐに夢日記を開いた。だがページには、別の筆跡で短い一文が残されていた。
「これは誰の夢か? 私は誰の夢なのか?