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街の本屋の泥棒猫  作者: 蒼碧
Side:人
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Side:人1

原案:クズハ  見守り:蒼風 雨静  文;碧 銀魚

 河瀬修一が会社に行けなくなったのは、入社から三年目のことだった。

 ゴールデンウィークが終わって三日経った、五月八日のこと。

 朝、ベッドから起き上がろうとしたところ、なぜか体が起き上がらなかった。

 初めは四肢か腰を痛めたのかと思ったが、ベッドの中で体を捩らせると、それぞれの関節は恙なく動くし、痛みもない。

 だが、起き上がることだけはできない。

 わけがわからないまま、取り敢えず会社に休みの連絡を入れ、しばらく様子を見たのだが、昼前には急に起き上がれるようになった。

 昼からは特に体に異常はなく、とりあえずいつもの休日と同じパターンで過ごしてみた。

 ところが、翌朝になると、また起き上がれなかった。

 これはいよいよおかしいと思い、会社に二日連続の休みの連絡を入れた後、病院へ行った。

 だが、下りた診断は、現段階ではよくわからないというものだった。うつ病かもしれないが、睡眠に異常がないので、断言できないらしいが、ストレスが原因の可能性が高いので、取り敢えず休むことを推奨された。

「マジか……別につらいとか思って生きてなかったけどなぁ。」

 修一は家に帰ってから、呟いた。

 確かにこれまでの人生、楽しく生きてきたわけではなかったが、かと言って、つらい人生だったというわけでもなく、その経緯はごくごく平凡なものだった。

 両親は一人っ子だった修一を普通に可愛がって育ててくれたし、厳しく叱られることはあっても、虐待らしきことをされてはいなかった。

 学生時代は、友達と呼べる存在はほぼいなかったが、逆にいじめを受けるようなこともなく、小中高大学と無難に過ごしてきていた。

 大学卒業後は、新卒で今の会社に就職し、これまた一緒に食事に行ったり遊びに行ったりするほどの同僚や先輩後輩はいなかったが、人間関係のトラブルを起こすこともなく、無難な会社員生活を送っていた。

 それなのに、である。

「無意識でストレスがたまってた、ってことなのか?」

 ネットやテレビを見ていると、家族や友人知人と積極的に交流できる人は、精神的に病むことはあまりないという。もしくは、没頭できる趣味が必要だとか。

「……陽キャで生きるか、頑張って趣味を持たないと、人は心を病むのか。この世の中がそんなにハードモードだったとは、知らなかったな。」

 それを頑張る方が、余程ストレスになりそうだと、修一は思った。


 結局、修一は休職ではなく、そのまま退職を選んだ。

 自分の体調の都合で会社に迷惑をかけたくはなかったし、質素で交友関係がほぼないおかげで、しばらく生活していけるだけの貯金はあったからだ。

 取り敢えず、会社を辞めると、途端に起き上がれなくなることはなくなった。

 ただ、次の仕事に就いたら、途端にまた起き上がれなくなるかもしれない。かと言って、このまま無職を続けていれば、いつか生活費が底をつく。

「親に頼るか……?」

 と、一瞬は思ったものの、修一はすぐにその考えを打ち消した。

大学入学と共に、このワンルームマンションで一人暮らしを始め、今年で七年目になるが、実家はそれなりに遠いのもあって、帰るのは年に一、二回だ。

両親は二人とも健在だが、それなりに年ではある。ようやく子供が手を離れ、第二の人生を楽しみ始めたところだから、ここでまた心配をかけたくはない。

 それで職を辞めたことも、まだ伝えられていない状況だ。

「これは、厄介なことになったなぁ……」


 取り敢えず、極力生活費を使わないよう、自炊をしながら休むだけの生活が始まった。

 朝起きて、朝飯の支度をして食べ、昼飯のメニューを考えて支度をして食べ、夜飯のメニューを考えて、支度をして食べ、必要があれば、たまに近所のスーパーに買い物に行き、あとは風呂に入って寝る。

 そんな単調な生活が二週間ほど続いた。

 起き上がれなくなることはなかったが、何かが回復している実感もなかった。

「このまま、どうなるのかな……」

 修一は変に板についてきた食事の用意をしながら、呟くのが日課になりつつあった。


 そんなある日だった。

 買い物をしようと入口のドアを開けたら、それはいたのだ。


「みゃー」

 動物を見慣れていなかった修一は、それが黒い子猫だと認識するのに時間がかかった。

「……猫!?」

 呆然と見つめていると、子猫はずかずかと玄関に入ってきて、そのままリビングの方まで進んでいった。

「あっ、おい!」

 リビングまでの侵入を許したところで、修一はようやく我に返り、慌てて子猫を追ってリビングに戻った。

 子猫はリビング内をくんくんと嗅ぎ回っていて、床だけでなく、家具や落ちている小物など、漏れなく匂いを嗅いでいく。

「お、おい、ちょっと、」

 修一は焦りながら子猫を捕まえようとするが、生まれてこの方、動物を飼ったことがない彼は、猫をどう触っていいものかもわからない。

 あたふたしながら後をついていくばかりで、結局、部屋内すべてを嗅ぎ回られてしまった。

「みゃん」

 全て嗅ぎ回ると、子猫は満足そうに一鳴きし、座卓の前に置いてあった座布団の上にゴロンと寝転がった。

「えー……ちょっと待ってよ……」

 修一がそう言っても、子猫は座布団の上で丸くなり、ゴロゴロ喉を鳴らし始めた。

 超リラックスしている。

「嘘だろ、どうしよう……」

 かと言って、このままにしておくわけにはいかない。修一は恐る恐る手を伸ばすと、背中の辺りを掴もうと手をかけた。

「みぎゅあ!」

 途端に、子猫は鋭く鳴き、修一の手を猫パンチで払いのけた。

「うおっ!?」

 魂消た修一は、そのまま部屋の端まで飛びのいた。

 大の大人の男が、小さな子猫にビビッて飛びのく様は、如何にも滑稽だったが、そんな体裁を保つ余裕は、修一には微塵もなかった。

「どどどどど、どうしよう、どうすればいい!?」

 本気で、どうすればいいのかわからない。

 咄嗟に、修一はスマホを手にし、誰かに助けを請おうとした。

 だが、電話帳を見て、親や親戚、そして辞めた会社の人間以外に連絡先がなく、修一は愕然とした。どちらも、こんな理由で電話をかけられる間柄ではない。

 なぜか、起き上がれなくなった原因が、形となって突き付けられた気がした。

「みゃん?」

 スマホに気を取られている間に、子猫がいつの間にか、修一の足元に寄ってきていた。

 上目遣いで修一を見上げ、短い尻尾をフリフリ、小首を傾げている。

「……」

 修一がキャパオーバーでフリーズし、立ち尽くしていると、

「みゃー」

 突如、子猫は修一の足に頭をスリスリしてきた。

 右の足首辺りに、頭を何度も何度も擦り付けてくる。

「……かわいい。」

 修一は思わず呟いた。

 ゆっくりと屈むと、子猫の頭に手を伸ばす。

 今度は抵抗することなかった。

 子猫は頭を撫でられると、

「みゃん」

 と、嬉しそうに一鳴きした。

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