Side:人13
原案:クズハ 見守り:蒼風 雨静 文;碧 銀魚
退勤後、修一は家に帰り、クロに話しかけていた。
「クロ、ようやくここに慣れたところ申し訳ないけど、引っ越しだぞ。」
「にぃ?」
クロは首を傾げた。そこはかとなく、言っていることは理解しているらしい。
「もしかしたら、おまえは暮らしにくいかもしれないけど、御船さんのところに行くことになる。ごめんな、俺に甲斐性がなくて。」
結局、修一は結花の提案を受け入れることにした。というより、それ以外に選択肢がなかった。
御船家は数年前まで猫を飼っていた、というのは修一も聞いていたが、どうやら店舗二階の住居スペースで飼っていたらしい。虹の橋を渡って数年経つが、住居スペース内はそれほど変えていないらしく、猫が触って危ないものなども、殆どないそうだ。
二人掛かりなら、数時間あれば整えられるとのことである。
「俺がいなくても、御船さんと仲良くするんだぞ?もうちょっと、愛想よくしろよ。」
「みぃー……」
本当に言葉がわかっているのか、クロは渋い表情になった。
これは先行きが心配だ。
「本当にすまん。これしか手がないんだ。」
修一がそう言って頭を下げると、クロは渋い表情のまま、膝の上に乗ってきた。
引っ越しは二日後、客数が少ない日曜日にすることとなった。
店は十五時で閉め、それから引っ越し作業となる。
修一は時間より早めに御船書房を訪れ、閉店作業を手伝ってから、作業開始となった。
「では、まずは二階へどうぞ。」
結花に促され、修一は二階へ向かった。
修一がここに勤め始めてから二か月以上経つが、実は二階へ上がるのは初めてだ。階段脇のロッカーまでは毎日来ているが、そこから先は完全に未知の領域である。
同年代の女の子の部屋に入ったことすらない修一は、ちょっとだけドキドキした。
二階へ登ると扉があり、そこを開けると住居スペースが広がっていた。
入ってすぐはリビングになっており、左手にキッチンへ続く引き戸、右手は窓、奥に廊下へ続くと思われるドアが二つある。配置からして、奥の扉から廊下へ出ると、風呂やトイレがあるのだろう。スペース的にもう一つ奥に部屋がありそうだが、そこが寝室だろうか。
とにかく、修一が住むワンルームマンションよりは、かなり広い。
「とりあえず、荷物はそこにでも置いておいて下さい。」
結花に指示されて、周知は持ってきたカバンと、持てるだけ持ってきたクロの用品をリビングの片隅に置いた。
思ったより部屋内は簡素なデザインの家具しかなく、いわゆる『女の子女の子』した部屋ではなかった。まぁ、二年前まで父親と暮らしていたのだから、当たり前かと、修一は思い直した。
「しっかり片付いてますね。流石だ……」
「いえいえ、普段はもうちょっと散らかってますけどね。ここ二日でがんばって片付けました。あんまり物を置いておくと、クロちゃんが触ったり、下敷きになったりして、ケガしちゃいますから。」
確かに、猫は好奇心が旺盛な生物なので、やたら色々触りたがる。特に、ここ数週間は、成長に合わせて行動力も増してきて、変な悪戯をされることもしばしばである。
「ありがとうございます、ここまでして頂いて……」
修一は申し訳なさでいっぱいだったが、対して結花はウキウキである。
「っ全然大丈夫です!久しぶりに猫のいる生活なので、とっても嬉しいです。」
結花がこう言ってくれるのが、せめてもの救いだった。
それから、二人で修一の家へ向かい、残りのクロの用品を持ち出した。
結花と出逢った初日に買って以来、それほど物は増えていなかったので、手分けすれば全て持つことができた。
「みぃい?」
クロがずっと怪訝そうな顔で見ている。
自分が使っている用品を持っていかれるのだから、不安で仕方がないのだろう。
「ちょっと待っててくれな。」
修一はクロにそう言い残し、結花と共に部屋を出た。
そのまま御船家へ行き、トイレ等等、必要なものを設置していく。
リビングの奥の扉の向こうはやはり廊下になっており、左手にトイレ、洗面所、風呂場があり、右手に寝室と思われる部屋へのドアがあった。
「リビングのセッティングと、トイレはこれでいいですね。残りは寝室の方に置いておいてもらっていいですか。」
「は、はい。」
結花に言われて、修一は寝室のドアに手をかけた。が、
「あ、あの、寝室に俺が入ってもいいんですか?」
流石に躊躇われて、修一は尋ねた。
「別に大丈夫ですよ、見られてまずいものはありませんから。あっ、でも、タンスは開けないで下さい。下着とか入ってますので。」
「開けません!開けません!」
修一は大慌てで首を横に振ってから、何かに怯えるように、そろりそろりと、寝室に入っていった。
一通り、セッティングが終わると、今度は修一が一人でマンションに戻った。いよいよ、クロのお引越しである。
「クロ、それじゃ行こうか。」
唯一残してあったキャリーケースにクロを入れようとしたが、
「みぎゃー!!」
これまでになく、クロは激しく拒絶した。
短い脚を出来るだけ大きく開き、ケースに入るまいと踏ん張る。
「おい、わがまま言わないでくれよ。」
しばらく格闘したが、クロは頑としてキャリーケースに入らない。
仕方なく、修一はクロを自らの膝の上に乗せた。
「クロ、このままだと俺もおまえもここで暮らせなくなるんだ。」
「みっ!」
「だから、おまえを守る為には、ここを出るしかないんだよ。わかってくれよ。」
「みっ!」
「まぁ、悪いのは俺なんだけどさ。」
「みぃ!」
「御船さんが助け舟を出してくれただけでも、幸運だったと思わなきゃ、な?」
「みっ!」
「おまえの気持ちをわかるけどなぁ……」
そう言って撫でてやると、クロの体からようやく力が抜けた。
喉をゴロゴロと鳴らし、修一に頭をスリスリしてくる。
「まぁ、観念してくれ。」
次の瞬間だった。
修一は弛緩したクロの体を、素早くキャリーケースに放り込んだ。
油断していたクロは抵抗出来ず、そのままキャリーケースの蓋を閉められてしまった。
「みぎゃー!!」
慌てて叫ぶクロだが、既に後の祭り。
修一にキャリーケースごと持ち上げられ、住み慣れたワンルームを出ることとなった。
「クロちゃん、いらっしゃーい!」
御船家では、ニコニコ顔の結花が待ち受けていた。
「今日からお世話になります。」
クロに代わって、修一がそう言った。
キャリーケースの蓋を開けるが、クロはまったく出てこない。
「クロちゃーん、出ておいてでー?」
「クロー?」
結花と修一が呼びかけるが、クロは中で丸まって出てこない。こういう時は、気に食わないことがあって、不貞腐れている。
「出てくるまで待ちましょうか?」
修一が溜息混じりにそう言うと、結花は勢いよくキャリーケースを掴んだ。
「いーや、待てません!」
そう言うなり、キャリーケースを素早く解体し始めた。このキャリーケースは、上部を解体して取り外せるようになっているのだ。
あえなく、ケースは解体され、立てこもっていたクロは、結花に鷲掴みにされた。
「みぎゃー!」
クロはジタバタとするが、結花は離さず、リビングの真ん中まで連れて行った。
「はい、ここが今日からクロちゃんのおうち。よろしくね。」
クロはリビングの真ん中に降ろされ、不安そうに周りを見渡すと、すぐに修一の元に駆け寄ってきた。
「はいはい。」
修一は腰を下ろし、その膝の中にクロが潜り込む。
「慣れるまで、しばらく時間がかかりそうですね。河瀬さん、このまま夕飯を食べていきます?」
「あっ、すみません。そうします。」
結局、結花が夕飯の用意をし、食べ終わるまで、クロはずっと修一の膝から離れなかった。
夕食後、夜も更けてきたので、修一は帰ろうとしたが、そこでまた一悶着起きた。
「クロ、もう帰らなきゃ……」
「みぎぃー!!」
最近生えてきた爪を必死にたて、修一の膝から離れないのだ。
「クロちゃん、わがまま言わないの。」
結花も手伝って、ようやく修一の膝から引き剥がしたが、クロは尚も抵抗する。
「これは、河瀬さんの姿が見えているとダメですね。」
「わかりました、クロのことお願いします。」
修一は結花に頭を下げ、そそくさと御船家を後にした。
「ただいまー、って、もうクロはいないんだった。」
マンションに帰るなり、修一は思わず自分にツッコミをいれてしまった。
ほんの二か月余りだったが、帰ったら「ただいま」を言うのが、すっかり習慣になっていた。
カバンを下ろしてリビングに腰を下ろし、テレビを点ける。
いつもなら、クロがちょっかいをかけてきたり、膝に乗ってきたりするのだが、それがないのが、途轍もなく空虚に思えた。
「今日から、また一人なんだなぁ……」
御船書房に出勤すれば、もちろん会えるのだが、帰って誰も待っていないというのは、想像以上に寂しいものだった。以前はこれが当たり前だったはずなのに、一度誰かが待っている状態を経験してしまうと、それが耐え難くなってしまうものらしい。
「猫は麻薬みたいだなぁ……」
修一は誰ともなくつぶやいた。




