ある男が、ゾンビパニックの果てに孤独に苦しみ、夢オチと似て非なる結末を辿る話
ゾンビパニックが文明を蝕み始めてから、早いことで15年が経った。
大規模な経済活動は崩壊し、社会は歪み、人間にとっての混沌が世の中の根本となった。
各国の抵抗も空しく、人類は衰退の一途を辿った。
先日概算した限りでは、恐らく世界人口は千万人を切っている。
今日もまた、トタンが挙げる悲鳴で目を覚ます。
シンバルの様に張り上げられるそれは、俺に用事のあるゾンビ達が、入り口のバリケードで居留守に腹を立てていることを意味する。
しかしこれも慣れたもので、この近辺のゾンビは俺がここで籠城していることを知っているので、毎日毎日その城を落とそうと、バリケードの最外郭を守るトタンを叩くという形で日夜精進しているのだ。それが半年も近く続けば、その感情が恐怖であっても、移ろう季節のように順応していくものだ。
部屋のカーテンを開けると、硝子のはめられていない枠だけの窓から朝の陽光が差し込む。
小高い丘の上にある洋風の屋敷から眺める景色は清々しいものであるが、こちらもやはり長く続くと飽き飽きするもので、毎度目に飛び込む荒れ切った住宅街に苦言の一つでも呈したくなる。
それでも澄んだ青空と遠くに見える太平洋は、目覚め後の呆けた脳に幾らか充足感を運んできてくれる。
この屋敷は本来俺のものではない。
パンデミックでこの一帯の住人は避難し、そしてそのほぼ全てが死んだ。
その恐らく唯一の例外である俺は、人里から幾らか離れたこの立地と、洋館に住んでみたいという庶民的な好奇心の二つの理由から、もう誰のものでもなくなったソコへ住むことにしたのだ。
幸いにも周囲に資材は多く、聞き齧った程度のDIYの知識と混ぜ合わせて、屋敷の破損した箇所を軽く補修するくらいは出来た。
しかし、こんな広い館に俺は一人で住んでいるのだ。
愛を語り合う恋人もいなければ、共にバカ騒ぎをする友人も、支え合う家族すらいない。
皆、今ではゾンビ達の仲間入りをしている。
ましてや、彼らは俺を視界に入れた途端飛び掛かってきた。
それは勿論抱擁のためではなく、血肉を抉るためである。
もう10年ほどは、誰とも口を効いていない。
正確には口を効く相手がいないのだ。
「あーうー」と呻くゾンビに無理やり言葉を投げかけて、それが会話だというのであれば事情は変わるが、そんなわけがあるまい。
俺は飢えていた。
体の栄養は十分であるが、心の栄養が尽きようとしていた。
孤独というものは耐え難く苦しい。
人は、他者を知ることで自己を確立する。
他者がいなければ、自己とは何であったかすら霞み行く。
俺の身を蝕む孤独は、俺とは何なのか、俺は存在できているのか、生物学的なものとは別の抽象的な死を誘っていた。
俺は一際、他人よりも人の温もりを求める人間だ。
そんな脆弱な人間にとって、人類の衰退の中を生き延びているという環境は、あまりにも厳しかった。
しかしそれでも、俺は生きている。
いつか人に巡り合えるだろうと信じて。
コートを羽織る。
季節は真夏である。
その装いは倒錯しているようであるが、これは防寒のためのものではない。
布地と布地の間に針金を張り巡らせた、言わば防刃コートである。
これによって、万が一ゾンビ達に襲われ噛み付かれた時の保険としているのだ。
俺はバリケード近くのそれを作動させる。
「グギッ!!」
「バギャッ!!」
人体が破壊される音に交じって、呻き声を挙げていた声帯が詰まることによる短い断末魔が聞こえる。
バリケード前のゾンビ達を、重機のアームが薙ぎ払い押しつぶしたのだ。
屋敷から繋いだ機構によって動作するようにしてあるそれは、外出時にゾンビ達の掃除をするために作った外敵排除機構である。
ゾンビ達が行動不能になったのを確認して、俺はバリケードの外側に着地する。
あまり悠長にしていると他のゾンビか寄ってくる可能性があるので、足早にその場を離れる。
目指すは、丘の下の住宅街である。
時折遭遇するゾンビは、駆除が必要な場合は手にしている鉄パイプで脳天を殴りつけて殺す。
果たして彼らに対して殺すという表現が厳密であるかは疑問であるが。
どうやら彼らの正体は人間の脳のコントロールを奪って動かす細菌であるようだから、脳の破壊が有効なのだ。
ただ、かつて俺は疑問を持っていた。
ゾンビと化した元の人間の意識は、如何様であるのか。
意識が残っていたとして、感覚は鮮明であるのか。
目に映る景色や耳に入る音は、彼らの意識まで届いているのか。
それとも真っ暗闇の中、ただ意識が存在しているだけなのか。
意識の永続的な消滅を死とするのであれば、俺は彼らの死を心から願う。
どんな形であれ、腐り爛れた身体の奥に押し込められた「生」の、その苦しさは途方もない筈だからだ。
そう考えるようになったのは、それこそ10年ほど前からである。
ただ、きっと俺にとって彼らの苦しさは重要なことではない。
俺が慮っているのは、恐らく大義名分なのだ。
彼らが生きていようが死んでいようが、俺が彼らの頭部を破壊することは悪ではない。
既に死んでいるのであれば死体を壊すだけで、生きているのであれば苦しみから解放するため。
俺が生きるために行うゾンビの排除が、単なる殺人であって欲しくないのだ。
俺の行為が、ゾンビになる前のその人に対する害でないと思い込みたいのだ。
そうやって内心で無理やり折り合いを付けてから、長い間多くのゾンビを殺してきた。
今では罪悪感も無ければ、妙な興奮も無い。
極端な言い方をするならば、血を吸いに腕に乗る蚊を叩くようなものなのだ。
ただ単に、害を排除しているだけなのだ。
そう、自分に言い聞かせる。
いつの間にか街へ降りていた。
相も変わらず荒廃しており、ひび割れたコンクリートと家々を這う深緑の蔦が、文明の衰退を象徴している。
俺も流石に、これからこの街にかつての様な活気が戻るとは思わない。
ゾンビがあふれて数年は、人類の復興を信じてやまない人々が心血を注いで文明を再築しようと躍起になっていた。
俺も暫くその活動に参加し、何の憂いも無く笑える生活へひた走っていた。
しかし終ぞそれは叶わない。
いつだったか人口動態学の本から知恵を借りて、また概算した。
この瞬間に全てのゾンビが駆逐されたとして、以前の世界人口まで戻るには少なくとも500年はかかるらしかった。
もし再興されたとして、俺はそこにはいない。
さて、俺が街に降りてきた理由は二つある。
一つは、食料の調達だ。
街の一角にある雑木林では、どこかの家庭菜園から漏れ出してきたのか、トマトなどの野菜が自生しているのだ。他にも鹿などの野生動物が緑化した街に下ってきており、それを狩るために罠を仕掛けておいた。
最近のマイブームは、焼いた鹿のレバーに胡椒を振って、大葉で巻いて齧り付き、赤ワインで流し込む。
これが、今の荒んだ世界で一番と言っても良いほどの贅沢なのだ。
想像するだけで涎が垂れて来た。
きっと目は血走って瞳孔が開いていることだろう。
昔であれば不審者と思われて通報されること請け合いであるので、今この瞬間だけは街に人気が無いことに感謝である。
もう一つの理由は、人を探すためである。
背中のリュックには手作りのビラが大量に詰められており、それでいて街中には先日同じように貼ったビラが溢れている。
内容は、満月の日の太陽の南中時に、街の中心の広場で会おうというものだ。
そして、今日がその日なのである。
とはいえ、これを始めてから5年間、一度として人に巡り会えたことは無い。
実を言えば、期待の灯もマッチ程度まで消し止められてしまっている。
それでも、手慰みに毎月広場へ向かうのだ。日課のようなものなのだ。
愛用のゼンマイ式腕時計に視線を落とす。
どうせ厳密な時刻ではないし、太陽の位置を当てにするのと大して変わらない。
だからこれは、人間社会に属していた頃の再現でしかない。親しかった故人の墓参りをするように、無くすのが惜しかった心の支えを思い出すための、細やかな儀式なのだ。
正午。
俺は広場へ向かう。
いつにも増して、電柱の腕金に腰を下ろす小鳥たちの機嫌が良い。
今時珍しく、警戒心の無い猫が足元へ寄って来たりもした。
適当に蹴った小石が、放置された空き缶の中へ綺麗に落ちていった。
妙な気分になりながら、道を進む。
この通りをまっすぐ進んで、かつて書店だった2階建ての建物に沿うように曲がれば広場だ。
噂に聞いたことしかない、人工衛星の残骸が昼の空に光の筋を作るという現象が目に飛び込んでくる。
長らく生きてきて初めての光景であるそれに驚きながら、やはり今日は不思議なことが起こると訝しんだ。
一歩進む。一歩進む。一歩進む。
なんとなしに、目を瞑って角を曲がる。
ゆっくりと、目を開く。
「あ!こんにちは!このビラを貼ったのって貴方ですよね?」
幻視でもしたのかと疑った。
目を擦っても消えないので、網膜に人型の痣でも出来たのかと疑った。
「久しぶりに人と会いました!昔のビラかもしれないって怖かったんですけど、安心しましたよ!」
「え、ええ、どうも…」
目を開くと、そこには溌剌そうな女性がいた。
20代の中頃であろう彼女は、その若々しさを前面に押し出したままこちらへ駆け寄ってきて、そのまま俺の手をひったくってブンブンと握手を交わしてきた。
俺はそのまま、驚きと混乱と喜色の間で浮つきながら、曖昧な挨拶を返す。
「俺も、まさか本当に人が来るなんて思わなかった……。ただ申し訳ないが、会って何かあるわけではないんだ。本当に、ただ自分以外の人を探していただけで」
「あはは、私も一緒です。目的があって来たわけじゃないんです」
「ふふっ、そうか」
「えへへ」
寂れた広場で、朗らかな笑い声が渦巻いた。
俺がそうであったように、彼女もそうだった。
この世界で、もう二度と会えないかもしれない、自分以外の人間。
それに会えるというだけで、炎天下の中を進む理由になるのだ。
そして次第に、お互いその渇望を叶えられた事実が心に染みてきて、目の下を赤くする。
俺がそうであったように、彼女もそうだった。
孤独は人の心を凍えさせる。
それだけに、繋がりというのは人の心に熱を持たせる。
寒い冬に、凍った夜道を雪に覆われながら帰ってきて、そして湯気の中で湯船に浸かる。
そんな瞬間に訪れる、達成感や安心感や解放感。
それらを最大限にしたような歓喜の暴力に、我々はたった今襲われているのだ。
社会の中に生きていて、見ず知らずの他人と顔を合わせただけでここまで感涙に浸れることがあっただろうか。
暫くの間、人と会うという単純なことで訪れたそれに、二人して身を委ねていた。
◆
聞けば彼女は、ずっと日本中を旅しているのだという。
15年前、彼女が10歳の頃にゾンビパンデミックが始まった。
それから暫くした頃には、家族や友人は彼女を遺して逝ってしまったという。
その時から、彼女は若くして人を探すため津々浦々を歩いているらしい。
女性の身ではゾンビと戦うのも負担が大きいようで、時に走り、時に忍んで、決して楽とは言えない旅を続けてきた。
旅先の書店で拝借した、希望に満ちた物語を心の支柱として、今この時まで歩いてきたのだと、彼女は語った。
その結果、最初に出会った人間が俺であったのだという。
それでは、日本にはどれほどの人間が残っているのだろうか。旅路ですれ違い、互いに気付かぬまま進んできてしまった可能性は大いにあり得る。しかしそれでも、十数年の旅の成果が俺だけでは、どうにも衰退の色が濃い。
いつか。
例え俺が死んだその後だとしても、人類の再興はあるのだろうか。
そんな疑念を抱かざるを得ない。
この悲しい報せを受けても尚救いと言えるのは、それを語る彼女の顔に翳りがないことだろう。
俺は今年で35歳を迎え、彼女とちょうど10歳の差がある。
彼女は、俺と違ってゾンビパニック後の人生の方が長い。
たったの十年しか、人間社会を知らないのだ。
だからこそ、この崩壊した世界をより深く受け入れられているのだろうと思う。
俺よりも遥かに、今を日常として扱っている。
まだまだ俺は、ゾンビが跋扈し人が消えた世界を、悪い夢か或いはドッキリなのだと思おうとしている。
この差異は、果たして彼女が大人であるからか、子供であるからか。
「へぇ…立派な屋敷ですね。特にバリケードがカッコいいです!」
「そうか…?バリケードが一番異質だけど…」
「何言ってるんですか!それが良いんですよ!」
俺は彼女を屋敷へ招いていた。
あの後、顔だけ合わせてさようなら、とは当然ながらならない。
互いに誰かへ話したい身の上話が、積もりに積もっていたのだ。
であれば折角なので、豪勢に宴でもしてしまおうという運びである。
彼女は、どこか少年のような印象が強かった。
屋敷への感想もそうだし、身なりもそうだ。
女性はやはり、男性と比べて自らを着飾りたいものだ。
今の世の中でも、スカートは実用性に欠けるとしても、何か女物の服を着たがるものだと思った。
しかし彼女は、作業着のような厚手のズボンに、クワガタの絵が描かれたTシャツを着ている。
加えて屈託のない笑顔を浮かべるその様は、さながら虫取り少年であった。
「さ、さ、早く入りましょう」
「ははっ、そうだな」
まるで家主になったかのように、冗談めかして彼女が言う。
それに俺は一つ笑顔を浮かべてバリケードをよじ登ると、その上から彼女に手を差し出す。
太陽は、早くも傾いて来ていた。
腕時計は、自信無さげに5時を指し示している。
広場で出会ってから、二人で食料の調達をしたのだ。
気運には流れがあるもので、人と出会った幸運に更なる僥倖が重なった。
鹿が罠に掛かっていたのだ。
それを絞めて血抜きして下処理して、解体を終えて廃墟から探し出したクーラーボックスに詰めた頃にはそれなりの時刻になっていた。
途中にゾンビが現れたが、その時には二人で殺した。
彼女もまた、ゾンビを殺すことに抵抗は無いようであった。
どうやら小学生に相当する年齢からそんなことをしていたので、すっかり慣れてしまったらしい。
この話を聞いて、この得体の知れない生物災害が奪っていった、本来訪れる筈だった未来と生まれる筈だった幸福が如何に大きかったかを再認識した。
しかし怒りは湧かない。
この現象に対して、激情を抱くような時間は既に過ぎ去っているのである。
「どうですか?このくらいで十分ですか?」
「ああ、問題なく食べられるよ。ここからは好みの焼き加減で…といったところかな」
「そうなんですね。どれくらいがおススメですか?」
「あと3分だ。それくらいが一番旨い」
「なるほどぉ」
丁度日が落ちた頃合いに、料理が出揃った。
食堂の窓からは、満天の星空の光と爽やかな夜風が迷い込んで来る。
人が消えて、すると代わりに星が現れた。
俺は未だ社会を渇望しているが、消えゆく文明に対比して色濃くなる自然を眺めていると、文明がとても業の深い、悍ましい何かに思えて仕方が無くなる。
だからか、美しい筈の星々は禍々しく、それでいて恐ろしいものに感じる。
あの煌々とした輝きが、俺の理想を否定するようだった。
夜は嫌いだ。
しかし、今日だけは例外だろう。
この夜のお陰で、卓上の蝋燭が照らす晩餐が際立つのだ。
しかもその晩餐の席に着くのは、独りではない。
「ワインかぁ…」
「ん…もしかしてお酒は飲まない主義だったか?なら悪かった…嫌なら…」
「あぁ!いえいえ!お酒は好きなんです!ただ旅をしているとあまり飲む機会が無くて…お酒も久しぶりなので悪酔いしてしまわないか不安で」
「なるほど、旅中だといつゾンビが近づいてくるかも分からないし、油断できないもんな。大丈夫、このワインは度数も低めだし、ゆっくり飲めば問題ないよ」
「確かに、それもそうですね」
そんな雑談をしながら、ワインの注がれたグラスを乾杯する。
野菜で胃を慣らした後は、今では贅沢品な白米を口に運ぶ。
空腹も少しずつ満たされてきた頃合いに、手を付けるのは鹿肉。
炎天下で疲れ切った体に染みるそれが、活気の在り方を思い出させてくれる。
そしてやはり、一番の期待はレバー。
胡椒を巻いて大葉で包む、最高の食べ方だ。
俺が一番美味いと思える食事に出会ったのは、自給自足するようになってからだ。
きっと、いつか食べたレストランの一押しメニューの方が、味としては良いのかもしれない。
しかし、自然の中で苦労して得た食事は、結局のところ何よりも美味しいのだ。
言ってしまえば、味なんて二の次なのだ。
一番「生きている」と感じることが出来る食事が、一番「染みる」食事なのだ。
「ぷはっ…!美味しい…ですね…!!」
「ああ!やっぱりこれなんだなぁ…」
気付けば、彼女も我を忘れて頬張っているようであった。
やはり人間なんて、こんなもんだ。
孤独でない食卓。
そこで、美味い飯を食う。
それだけで、いとも簡単に幸福を感じられる。
満腹に近づくにつれ、俺たちの主題は食事から会話へと移り変わっていった。
彼女は語る。
「やっぱりですね!そこにある街ですよ!それを眺めて、こんな風に暮らしていたんだろうなとか、こんな日常の一幕があったんだろうなとか、想像するのが楽しいんです!あーあ、憧れるなぁ…!」
「山奥で温泉を見つけた時は忘れられません!あの骨の髄まで染みる暖かい湯につかる瞬間は、いやー今でも夢に見ます!」
「それでですね、その猫にこう言ったんです。「鮎が食べたいなー」って。そしたらですね!なんと近くの小川の岸辺に寄って来ていた鮎を捕まえて、咥えて持って来たんです!もうびっくりしました!」
「……私のせいでお母さんも、お父さんも、お兄ちゃんも死んじゃった。だから、もういいかななんて。でも死ぬ勇気なんて無くって……ううぅ…」
「生きてればいいことある!!今日がそれを証明しました!!」
これまで話したくても話す相手のいなかった、出来事や心境の数々を、決壊したダムから溢れ出す流水の如く語った。
共感できることもあれば、安易にすべきでないこともある。
俺はそれらに、嘘偽ることなく正直な反応を返した。きっと、俺達に必要なのはそういうやりとりだと思ったから。
そして、その決壊は彼女だけのものじゃなかった。
俺もまた、語る。
「あいつは面白い奴だったんだよ!傘で空を飛ぶとか言い出して校舎の三階から飛び出してさ!当然飛べるわけも無くて生垣に突っ込むんだけど、それでなぜか無傷でやんの!」
「大学の時はなぁ、俺にも春があってなぁ、大事な恋人が出来たんだけどよぉ…。足が臭いって振られちまったよ…。その日からだな!毎晩消臭剤を染み込ませたタオルに足をくるんで寝るようになったのは!今となっちゃ笑いもんだよ!」
「え、最近の話…?そうだな、丁度今日さ、人工衛星が流れ星になって落ちてくのを見たんだ!とても綺麗でなぁ…。しかもそれが君と会う直前でのことなんだ!見逃した…?そりゃ勿体ない!」
「はぁ…皆死んじまったよ…。昔を懐かしみながら酒飲もうって、同窓会では誰が一番かわいい奥さん貰ったか勝負だって言ってたのになぁ…。帰ってこいよぉ…みんなぁ…」
「ま、過ぎたことだ!そう思うことにする!!」
酒の入った俺の口は、べらべらと普段とはかけ離れたテンションで言葉を紡ぐ。
俺は酔うと呂律が回らなくなる体質の筈だが、過去に縋る言葉だけは詰まることなく出てきた。
しかし、浮ついた意識の中ではそれに気付くことも無い。
俺たちは、酒に飲まれながら夜通し語り合った。
間違いなく、仲間と呼べる存在に出会えたと思う。
それから、俺と彼女は同衾した。
互いに覚束ない身体の使い方にクスクスと笑いながら事を致して、穏やかに眠りに就いた。
ゾンビが現れて以来、最高の夜だった。
◆
俺と彼女は、あの日から2年と半年の間共に暮らした。
力を合わせて、食料の確保や拠点の維持に努めて、安定した生活を手に入れていた。
しかし、その充実の本質は、物質的な面ではない。
俺たちは、精神的な充足感を獲得していたのだ。
「孤独」同士が繋がることで、それは全く反対の性質である「愛」へと変化を遂げていたのである。
これは、荒廃した世界を生き抜くために、最も重要な要素の一つであった。
今の世界は、実を言えば満ち足りていた。
苦労はするが、美味しい食事が手に入る。
定期的な掃除は必要だが、豪華な屋敷に暮らしている。
自分で行動のスケジューリングはしないといけないが、時間に縛られない自由な生活が送れる。
そして最後の穴であった孤独が埋まったことで、俺の人生は幸せの最高潮にあった。
「それでは、今日も探索に行きましょうか!」
「ああ。山を越えた先の旅館だな」
「はい!以前に前を通り掛かったとき物音がしたんです!」
「そして…僅かに人の声がしたと」
「ええ、ゾンビではありません。人の言葉を話していました」
俺達は山間の旅館を目指した。
真冬だった。
向かう先の旅館の方向には、更に先から厚い雲が押し寄せてきている。
もしかすると大雪になるかもしれない。
そうなる前に、手早く確認しに行く必要がある。
俺はいつかのコートと、鉄パイプを装備する。
彼女にも、同じ特製のコートを渡している。加えて彼女は、1年ほど前に警察署だった施設から手に入れた拳銃を持っている。
ゾンビパンデミック直後の混乱期にその大半が持ち出されており、見つかったのがその一丁だけだったので、女性である彼女に託したのだ。
他にも幾つか道具を持って、準備は万全だった。
旅館に辿り着くと、何と入り口にバリケードの痕跡があった。
ただ、問題は痕跡であるという点。
現在は機能していないようなのだ。
もしかすると、拠点を他の場所に移したのかもしれない。
しかし、最近まで人がいたのであれば調査する理由はある。
そう考えて、二人で立ち入った。
細心の注意をしながら、古めかしい旅館の隅々を見て回る。
曇天の下で薄暗い建物内部は、むせ返るような陰鬱な空気が蔓延していた。
外はそれなりの風が吹いているのに、窓枠の無い筈のこの旅館の中は一切空気の流れが無い。
淀んでいる。
年季の入った造りが、一層不気味であった。
恐る恐る、重苦しい空気の溜まった廊下を進んだ。
そして、二階の大広間へ差し掛かった時であった。
「こ、これって…」
「…ああ」
血痕だった。
血痕を血痕として見て取れるのだ。これは間違いなく、ここ一週間でできたものだった。
滴り落ちたであろう血の跡は、大広間から三階の階段へ続いている。
或いは、逆だろうか。
肝心な大広間は、襖を閉じた状態でその内部はまだ確認していない。
――これは、立ち去った方がいい。
そう彼女に提言しようとした矢先であった。
「きゃあああ!!」
大広間の襖が、内側から蹴破られた。
咄嗟に彼女を庇いながら退く。
大広間から現れたのは、やはりゾンビ。
そのゾンビは旅館の女将だったようで、ボロボロになった着物を身に着けながら、緑に変色した上に腐食した肌を晒しながらこちらへ寄ってきた。
一瞬の驚愕こそあったが、俺は冷静である。
鉄パイプを握りしめて、応戦の構えを取った。
しかし、気運には流れがあるものだった。
不幸は続く。
「ひっ!」
背後で何かが崩れるような、大きな音が鳴った。
反射的にそちらを見やると、なんと天井の床が抜けて三階から別のゾンビが現れたのである。
しかも一体ではなかった。その数三体。
狭い廊下の双方から、ゾンビに囲まれた。
絶体絶命であった。
絶望に襲われた。
しかし、土壇場になって頭が回転する。
入り口で見掛けた、旅館内部の案内図がふと脳裏に現れた。そこに、希望の光があった。
そう、薄暗い中では一見壁にしか見えない右手のこれは、別館へ続く扉である。
別館への渡り廊下には窓があるだろうから、そこから外へ脱出できるはずだ。
必ず二人で生き残る。
俺が持つその意志は固い。
孤独を埋めてくれた彼女と一緒なら、自分の底力が幾らでも湧いてくる。
それを今、ひしと感じていた。
この希望を彼女に伝えねば。
「この扉か―――――」
俺の言葉は、銃声によって遮られて届くことは無かった。
代わりに出たのは、小さな嗚咽。
彼女が撃ったのは、ゾンビではない。
俺の右膝は、真っ赤に染まっていた。
「ご、ごめっ……!」
言い切る前に、早く逃げねばと焦った表情を浮かべたまま、女将のゾンビの横を通り抜けていった。
女将のゾンビは、目の前で倒れ込んだ俺に夢中だ。
そのお陰で、彼女を追うゾンビはいない。
足を襲う激痛は、やがてゾンビ達の咬合で掻き消されていった。
体のあちこちが、欠けていく。
窓の外では、雪が吹き荒れていた。
と思えば、暴風が例の扉をこじ開けて、その極寒を俺の身に圧しつけて来た。
身体中が痛みで燃え上がるようだったが、内心は酷く寒かった。
間違いなく、俺と彼女は分かり合えていたと思っていた。
彼女も、きっとそう思っていた。
でも、俺にも彼女にも、それを証明することも確かめることも出来なかった。
孤独が嫌いだった。
孤独を恐れていた。
こんな世界でも、人と出会えば、笑い合えば、孤独は消えると信じていた。
でも、この結末は何なんだ。
肌が爛れて、動く死体になって、五感がはっきりしたまま身体を操られながら、ずっと答えを思案していた。
人は、本質的に孤独だった。
分かり合えることなどない。
分かり合えたとして、それを証明できなければ、「互いに分かり合えたことを分かり合えていない」のだから、やっぱり矛盾だ。
俺が恐れていた孤独という悪魔は、どう足掻いても俺の傍を付いて周る。
皮肉なことに、孤独こそが最も俺に寄り添ってくれる。
「あ…あ…」
もう、こんな声しか出ない。
笑い声なんて、出やしない。
◆
あれからどれほど経っただろう。
見慣れた丘の上の、屋敷。
一人の女性が、俺に背を向けて鹿を解体していた。
僅かに除く顔は、俺の知るそれより幾らか皺が増えている。
傍には、幼い子供。
なぜだか、その子供を他人とは思えない。
そんな、一つの家族。
そこに向かって、俺は牙を剥く。
身体の制御は効かない。
でも、その奥に意識として存在している俺は、それを止めようともしていなかった。
その気力すら、湧かなかった。
遺した僅かな幸せも、やはりまやかしだと思った。
それも、消えた。
血に濡れながら、地面の小さなひび割れを見つめる。
どうしろってんだか。
前作のゾンビパニック短編から、作風と文体をガラッと変えてみました。