序:8話
☆☆
ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない。
ウチが……種子島で一番バスケが上手い小学生のはずのこの野原真子が、最弱なんかに。
フローター・シュート? ダブルクラッチ? そんな技、ウチだってまだ使えないのに。
客観的に見ても、ウチにはバスケの才能がある。身長は高いし、速く走れるし、ジャンプ力も凄いある。女子なのにミニバスのリングに触れる事が出来る。
勿論、小二でバスケを始めてから今日まで鍛えてきたからという理由もあるけれど。
ウチは小二の頃から既に身体能力に恵まれていた。他のスポーツも出来る子供だった。
そんな「体」のあるウチには、「技」なんか必要無かったっていうだけ。別に怠けてたワケじゃない。練習する時間すら無かったってだけ。
ていうか、ウチの人生、「スポーツが出来る」くらいの才能が無いと割りに合わないし。
小一くらいの頃だったかな? ママとパパが離婚して、パパが種子島から居なくなったのは。
離婚理由を一年前くらいにママに聞いてみたけど、よく覚えていない。「くだらない喧嘩で別れたんだな」って思った事だけは辛うじて覚えているけど。
それからはママとおばあちゃんの二人に育てられた。
お兄ちゃんと妹と一緒に。ウチは、真ん中の子供だ。
おばあちゃんもおばあちゃんで、若い頃におじいちゃんと離婚したのだとか。「血は争えないんだな」って思った。
そのおばあちゃんはウチが小二の時に死んじゃった。ママ一人でウチらを育てる事になった。
ママはコンビニで正社員として働いている。
でも女手一つで三人を養うのは並大抵の事じゃない。だからおばあちゃんが死んでから、ママは夜にスナックバーの仕事を掛け持ちし始めた。
ママは今、三十二歳だ。十六歳の時、高校の先輩だったパパと結婚したのだとか。
お兄ちゃんがお腹の中にいるのが分かったから、高校を中退して。
ママは若いし、綺麗な方だ。だから、離婚した後もママに言い寄る男の人は多かった。
半年に一回は、家に連れてくる彼氏が変わっているようなママだ。人様が見たら「ビッチ」呼ばわりするかもしれない。
でもウチとしては、ちゃんと経済力のあるパパが出来るならママが苦労せずに済むし、ウチも六歳の妹の面倒という負担が減るから良いと思っている。下手に経済力無い人と再婚されるよりは男遊びして貰ってる方が良いかなって。お金持ってる人と結婚してくれれば、ウチの時間の余裕も出来て、今以上にバスケと勉強に集中出来ると思うし。
だけど、お兄ちゃんはそんなビッチなママが大嫌いだった。だから去年の三月、中学卒業と同時に種子島を出て行った。今は何をしているのか分からない。
ウチはお兄ちゃんと違って、ママが男と遊んでばかりのビッチだろうと構わない。
でもさ……家族旅行ぐらいたまにはして欲しいワケ。種子島の中だけの旅行でも良いからさ。
男の人と二人きりで遊んでないでさ。新しいパパは必要かもしれないけどさ。
ウチと妹は、ママにとっての何なんだろう? と思ってしまう。新しいパパが出来たら、ウチらはママに捨てられてしまうんじゃないか? なんて考えてしまう。
だからー自分が恵まれている事にも気づかない女が、大嫌いだ。無自覚に男子をオトすような女は、尚更。
海夏は、自分が如何に恵まれているか自覚していない。お金持ちの親、可愛い容姿。
恵まれ過ぎているから、心に余裕がある。心に余裕があるから、クラスの友達にベラベラ自分の家庭内の事情を話す事も出来る。とてもじゃないけど、ウチには出来ない。
ウチはカッコいいとよく人に褒められるけど、可愛いなんて誰にも言って貰った事が無い。それでもー、
それでも頑張っていればいつか、好きな男の子に好きになって貰えると思っていた。
「可愛さ」なんて、努力で覆す事が出来ると思っていた。だから勉強もバスケも頑張った。
努力の甲斐あって、学校の成績優秀な子に対し、塾に通う学費を援助してくれる市役所の補助金まで貰えるようになった。自分の力だけで塾に通えるようになった。
海夏ーあの子は何? 可愛い以外何も無いじゃん? 塾だって親のお金で通わせて貰って。
「可愛さ」だけで、ウチの好きな人の心を獲っていった。あの子の「無自覚な優しさ」は、どんな男でもオトしてしまう。ああいう子を男は「無垢」だとか「純粋」だとか思っちゃうワケ?
ウソだ。
無自覚に男をオトす海夏は、自覚的に男をオトすウチのママ以上のービッチだ。
自分の可愛さを自覚している女をビッチと呼ぶなら、無自覚な女の事はー「魔性」。
そんな「魔性」であるあの子が、ウチからバスケまで奪うワケ?
結局さぁ、フローター・シュートだろうがダブルクラッチだろうが、アンタに「時間の余裕」があるから身に付けられただけだろ? きっとウチはその時間、妹の面倒見てたよ?
アンタのお兄ちゃんだって別に家出じゃないだろ? 頭が良いから、種子島の高校よりレベルが高い鹿児島本土の高校選んだってだけだろ? ウチのお兄ちゃんとは、全然違う。
遠く離れていてもお兄ちゃんと絆で結ばれているアンタと、お兄ちゃんに見捨てられたウチとじゃ、全然立場が違う。
ーマジでふざけんなよー?
恵まれた境遇のアンタに、好きな人を奪われたウチから、ウチの存在意義であるバスケまで奪わせてなるもんか。
お金も、男の心も、父親も……お兄ちゃんまで持っているアンタなんかに、バスケまでー。
無意識に、ウチの左脚はリングに向かう海夏の左脚の前に出ていた。
前のめりに転ぶ海夏。脚を引っ掛けた時、ウチは呆然と前だけ見ていたので、その後海夏がどうなったのか、背後でゴールの鉄柱に何かが衝突する音を聞くまで分からなかった。
衝突音を聞いて、ゆっくり後ろを振り向くとー、
「痛い、痛い、痛い……」
呻きながら、自身の額を右手で抑えて、仰向けで倒れている海夏。額からは、血が。
海夏の右手の隙間から彼女の血が滴っている。アスファルトを赤く濡らす。
「ウミカ!!」と叫ぶ渡先生。すぐさま海夏の元に駆け寄る。三人のチームメイトは青褪めた顔でウチを見つめている。ウチに対し、怖れを抱いている目で。
(ウチは、一体何を? そんなつもりじゃなかった。ウチが、やったんじゃない……)
自分のしでかした事に対する恐怖心が、沸々と内側から湧き上がってくる。海夏にこのまま後遺症が残ったらどうしよう? チームメイトのあの子らは今何を思っている?
ふと、渡先生に視線を戻すと、
仰向け状態の海夏をお姫様だっこで抱きかかえる。そのまま一歩一歩、歩き出す。
ウチの横を通り過ぎようとして、一旦止まる。彼の目を見るとー、
「憤怒」ー彼の目は憤怒で満ちていた。目で、ウチを殺さんと言わんばかりのー。
怖かった。産まれて初めて、大人を怖いと思ったかもしれない。
怒りの形相の彼を前に、ウチは数歩後退ってしまう。
教師なのだから生徒に暴力を振るう訳は無い。でも、罵倒されるのは間違いない。脚がすくんだ。彼の次の一言が怖くて仕方無かった。
ところが、身構えるウチに投げかけられた言葉はー、
「マコ、悪かった」
謝罪だった。
「え……なん……で……? ウチが……」
「この勝負を持ち掛けたのは俺だ。こんな事になってしまうのも考えた上で君に勝負を持ち掛けるべきだった。俺は、ウミカが傷つくきっかけを作ってしまった、俺自身の事を許せない」
彼の怒りの矛先はー彼自身だったようだ。
「この勝負、初めからマコに不利なのは分かっていた。普段ミニバスゴールで練習している君に大人用ゴールで戦わせ、普段体育館で練習している君にストリートコートで戦わせた。ウミカにとって充分過ぎる程の勝利条件が揃っていた事を、俺は分かっていた。ウミカに自信を付けさせる為とはいえ、彼女が君に勝利する事が、いかに君のプライドを傷つけてしまう事になるかまでは、考慮に入れていなかった。全部、大人である俺の責任だ」
先生は海夏を抱きかかえたまま、ウチに頭を下げた。
「たださ……」と続けて、下げた頭を上げー、
「たださ……ただ……ウミカがこの一ヶ月弱、滅茶苦茶努力した事だけは認めてやってくれないか? 正直、今でもウミカは君より全然下手だ。今回の戦いの結果は、まぐれだ。ミニバスゴールでやる体育館の試合だったら、君の圧勝だっただろう。でも、ちゃんと努力出来る子なんだ。『ただ恵まれているだけの子』じゃないんだ。『ただ可愛いだけの子』じゃないんだ」
その二つの言葉にウチは、自分の海夏に対する心象を先生に見抜かれている事を察した。
先生の怒っているように見えていた顔が、どこか自嘲的な物に変わりー、
「……俺は、人として君に説教できる程ちゃんとした人生歩んでいない。『虐めはいけない事だ』なんて正論、『どの口が言うんだ?』ってタイプの大人なんだ。だけどさ……少しで良いんだ」
海夏を抱きかかえた先生はウチの目だけを真っ直ぐ見つめ、悲しそうにー、
「この子に、もう少しだけ優しく接してやってくれないか?」
それだけ言い残し、先生は彼女を抱いたまま、コート隣のアパートの中へと入っていった。