序:7話
☆
現在、九月一日の十四時。来週の月曜から小学校の二学期が始まる。
俺と海夏はいつも通りコートで練習中。
レイアップを繰り返す海夏を見つめる。だが俺はどこか指導に集中できていない。
なんとかして来週の二学期始業式に出られるようにしてやりたい。その方法を頭の中で模索するが、アイディアが降ってこない。
ー一方で悪魔の囁きも聞こえる、「このまま海夏が不登校の方が、こうやって二人きりでいられるんじゃないか?」と。
……だがそれは、「海夏に好意を抱いて貰う」という目的にそぐわないし、「小学生時代の俺が出来なかった事」を成し遂げる事にもならない。
夏海がクラスメイトに虐められていた時、俺が何か彼女の為に行動を起こしていれば、この現在は何かが変わっていたかもしれないのだから。
今、俺の隣に夏海が居てくれたのではないか? ……等という、ありもしない「もし~だったら」というパラレルワールドの妄想。
俺の隣に今、夏海はいない。だが、海夏がいる。俺は今度こそ、好きな人の為に何かをしてあげたいんだ。
二人きりのコートで、スクープ・シュートの練習を繰り返していると突如、
「ねえ、アレ、ウミカじゃない?」
国道側から、少女らしき声が海夏の名を呼ぶのを聞いた。
声の方に俺と海夏は向く。
道路側に、自転車に乗る、バスケットウェア姿をした少女が四人。
あの中の一人は、身長百七十センチの長身小学生女子、野原真子だ。
四つの自転車がコート内に踏み入れる。
「み、みんな……」
海夏の顔を見ると、怯えている。
「君らは、もしかしてウミカと同じ、中種子南小学校のバスケクラブ?」
「ええ、そうですけど……アナタは?」
「その人はウチとウミカの塾の先生だよ」と、真子が割って入る。そのまま続けてー、
「今日は午前中、西之表市側の小学校との練習試合だったから、その帰りだよ、先生。……てか、なんでウミカと二人きりでバスケしてんの?」
「ウミカの家庭教師になったからだ」
「あ~……最近塾にも顔見せなかったのは、そういう理由だったんだね」
この真子という少女は、他の生徒達より精神的に早熟している感じがする。大人の俺相手にも、臆す事なく気軽な口調で話しかけてくる。
「学校にも来ないで何やってるのかと思ったら、家庭教師とマンツーマンレッスンとはね。ボンボンは家庭教師雇って貰う余裕もあっていいねぇ」
真子が冷ややかに海夏を見下ろす。百四十センチしかない海夏からしたら、百七十センチある真子による高見からの睥睨は、相当な威圧感だろう。
しかし……海夏の家は多分金持ちなので、ボンボンという表現は正しいのだろうけど……敢えてそこを突っ込む当たり、この子の家の経済事情はあまり良くないのだろうか?
「ウ、ウミカは……」
「ま~だ一人称直してないワケ? あれだけ強めにぶりっこ止めろって言ったのに。それじゃあ、学校来たってクラスの皆と上手くやっていけるワケないね」
鼻で笑って見せる真子。すっかり萎縮してしまっている海夏。
(俺は……海夏の家庭教師としてどうするべきだ?)
いっそ、かつて夏海が虐められていた小学生時代、俺達のクラス担任だった熱血漢女性教師、小木道子先生が取った方法のように……子供の不当な虐め行為に対し大人として、強い口調で真子を叱るべきか?
(……俺に、そんな資格があるか?)
言ってしまえば、俺はこの島の部外者だ。
それどころか、海夏に好かれる為だけにこの島に滞在し続けている俺は、不審者、あるいは犯罪者予備軍の類だ。
背徳者、と呼ばれて然るべき男だ。そんな背徳者である俺が、小学生に「人としての道理」を説くというのか? ……そんな資格ある訳が無い。
小学生に「人としての道理」を説く資格は、俺に無い。だがそれでもー、
小学生に「生きる自信」を与える資格くらい、あると思う。
そう、思いたい。
海夏に、「自分は社会に立ち向かえるんだ」という自信をー。
「マコ、俺からのお願いなんだが」
「あ? 何よ、先生?」
「ウミカと、バスケで一対一をしてくれないか?」
俺の提案に、真子が反応するより先に海夏の顔が青褪める。
「な、なに言ってるんですか先生……」
「俺は、この一ヶ月近くでウミカを一流のミニバス選手に育て上げたつもりだ。ウミカの為に、種子島最強ミニバス選手である君がこの子と戦ってくれないか? 今のこの子なら、君と良い勝負をすると思うんだ」
数秒の沈黙。マコは無表情で俺の顔を見る。だがすぐに沈黙は破られ、
高笑いへと変わる。
「バッッッカじゃないの? ウミカがウチに勝てる訳ないでしょ? 先生、よく聞いて?
その子、下の学年の子にも負けちゃうくらいのクラブ部内のお荷物だよ? その子に出来る唯一の事と言ったら、男に媚びを売る事くらい?」
人差し指を海夏に向かって指しながら、真子にとって最大限と言えるだろう嘲笑を見せる。
「悪い、言い方が悪かった」
真子を宥めるように、俺は青年らしく爽やかに微笑して見せ、
「ウミカの為にじゃなくて、俺の為にウミカと戦ってくれないか? 俺は、種子島最強のプレイヤーの育成に成功したっていう自信があるんだよ。俺がウミカに施した教育は、君を倒す事が出来るくらい優秀だったって、自負しているんだ」
爽やかな微笑から一転、傲岸不遜を含む笑みを真子に向ける。なるべく、狂気的に伝わるように。
俺の不気味な笑みに一瞬、真子が怯んだ。俺は昔から、誰かに嫌な思いをさせられたらーあるいは敵と見做した相手には、恐怖心を与えられるような笑みを作るように努めている。
顔芸を使った喧嘩、と言えば良いのだろうか? 二十歳の大人が小六の女児相手にやるのは明らかに大人気ないが。
「先生って、そんなキモイ笑い方出来たんだ。あんま絡み無かったから知らなかったよ」
キモイという言葉で俺の心に矢がグサリと刺さった。だが動揺は相手に見せないよう努める。
「どうだ? やってくれるか? それとも他のチームメイトの前で、雑魚である筈のウミカに敗北するのが嫌だから、日を改めて欲しいか?」
「そんなに他人を煽れる人だってのも、今日初めて知った。先生って、何か裏表激しそうだね」
当たっている。逐一、この子は勘の鋭い少女だ。精神年齢は既に高一くらいの域まで達していそうだ。
「いいよ。受けるよ、その勝負。……二度と学校に来れないくらい心折ってあげる」
交渉が成立し、三十分のアップ後に勝負を始める事になった。
ルールは先に六十点取った方の勝ち。リバウンドは、後から真子に言い訳させない為にアリにした(リバウンドは、大きい選手に有利)。
バスケには二十四秒ルール、八秒ルール、五秒ルール、三秒ルール等、色々な時間制限のルールがあるのだが、「三秒ルール」だけアリという事で交渉がついた。
三秒ルールは、ゴール下の長方形エリア内に選手が長く滞在出来ないようにする為のルールだからだ。三秒ルールが無いとバスケは、長身プレイヤ―による無双ゲーと化す。
タイムアウトは一回だけオーケーという話し合いが付いた。
「先生、何でこんな勝負申し込んだんですか……」
不安で染まりきった表情で、海夏が俺を咎める。
「俺は、マコに勝つ事がウミカの人生に大きな意味をもたらすと思っている」
「ウミカがマコちゃんにバスケで勝つなんて無理に決まってますよ……」
「この一ヶ月を思い出してくれ。ウミカは、同学年の男子小学生相手にも負けてなかっただろ?」
「……でも……」
「それに、マコがやっているバスケは『体育館の中のバスケ』だ。『ストリートコートのバスケ』をマコは知らない。そこにウミカの勝算がある」
「? どういう事ですか?」
「耳を貸してくれ」
ゴールに向かって一人練習する真子の横で、ベンチに座る俺達は作戦会議を行う。
「ー以上、これらを頭に入れて戦うんだ」
「わ、わかりました……」
不安気な様子は変わらないが、僅かながら海夏の中に戦う意志が産まれたのを、俺は感じ取った。
空を見上げれば晴れ晴れとした青空。心地の良い風も吹いていて、今日は実にストバス日和だ。
☆
三十分経過。
真子と海夏がスリーポイントラインの外側で向き合う。真子のオフェンスからスタート。
「勝負開始!!」とチームメイトの女の子がコート全体に響く大声を上げる。
二人の決闘を、コートの外から立って見守る俺と三人の女子小学生。
ちなみに、小学生のミニバスではスリーポイントは存在しないので、長距離から打っても二点にしかならない。これは背の低い選手には不利な条件。
真子が「覚悟しなよ」と呟いてから、ドリブルをつく。タイミングを見計らってー、
クロスオーバードリブルー右から左への揺さぶりで、海夏の膝を崩しにかかる。
が、海夏は崩れない。真子のクロスオーバーからの左サイドへ向かうドライブに対し、スライドステップ(ディフェンス時の脚運び技術)を駆使し、喰らいつくように付いていく。「ウミカがマコに抜かれていない?」とチームメイトの誰かが叫ぶ。
それは、今までは抜かれていたという事だろう。やはり海夏は成長している。
「うっざ!」と殺意剥き出しの真子。しかし、
「なら、これならどうよ?」と、ゴールから近距離である長方形ーペイントエリアの線を踏むか踏まないかの外側で動きを留める。ラインの内側に入ってしまえば、三秒ルールが適応されてしまうからだ。
これは「ポストプレイ」を仕掛けようとしている。ポストプレイは、バスケにおいて長身プレイヤーに最も有利とされる戦術方法。一番よく使われる戦術としては、敵に体当たりしてペイントエリア内に押し込んでから、ゴール近くでジャンプシュートを打つ方法。
真子が背中を海夏にぶつける。ラインの内側に入った。
「三! 二! 一!」と審判役の少女が数え上げる。
時間切れ寸前で、ジャンプシュートを放つ。三十センチの身長差があっては、ブロックはまず不可能。シュートが外れるのを祈るしかない。……いいや、
(いいや、祈る必要は無いな)と、俺は心の中でほくそ笑んだ。
真子のシュートは、リングにぶつかるだけで、ネットの中に吸い込まれる事は無かった。
計画通り。
「な、なんで?」と真子が叫ぶ。その内に海夏がリバウンドを拾う。ディフェンス成功。
「そ、そうか。『ゴールの高さ』か!」
気づいたようだ。
そう、それが海夏に勝算がある理由の一つ。
ミニバスは、基本ゴールの高さが二百六十センチで設置される。
しかしこのストバスコートのゴールは大人用。三百五センチの高さで設置されている。
ゴールの高さはシュートを放つ際、距離感を測る上でとても重要な要素。
普段真子が体育館で打っている感覚でシュートしても、距離が足りなくなる訳だ。
逆に海夏は一ヶ月間、この大人用ゴールで何度もシュートを打ってきた。得点確率において海夏の方に大きくアドバンテージがある。
……ズルいかもしれない。
だが、俺の目的はあくまで「海夏に自信を与える」事。その為には、「海夏が真子に勝った」という事実さえ残れば良い。
極論、虐め問題が解決しなくても……海夏が真子や他の友達と和解できなくても、海夏本人が希望や自信を持って生きていけるならば、それで良いのではないか? と俺は考えている。
「勝てば自信になる」ーそれが、俺が二十年の人生で得た唯一の教訓。
俺は、自分が「幸せな人間」じゃない自覚があるけれど、「自分に自信が無い人間」だとは微塵も思っていない。
だから、海夏に「幸せになる方法」は教えられないが、「自信を持つ方法」なら教えられる。
それにはまず、「種子島最弱の海夏が、種子島最強の真子に勝つ」ーこの事実を産まない事には、何も始まらない。
海夏のオフェンス。しかし真子の気迫に飲まれ、動きが固い。
ドリブルし、ドライブしようとするがー取りこぼし(ファンブル)。こぼれ球を真子が拾う。
「や~っぱ、全然ダメじゃん! 基礎がなってないねぇ!」
更に煽り、海夏を精神的に追い詰めていく。
再度真子のオフェンス、海夏のディフェンス。先程と同じく、左サイドへドライブしてから長方形のギリギリ外で止まり、ポストプレイに入る。
「二度も外さないよ!」
海夏に体当たりしてから、三……二……一……シュート。先程と全く同じプレイ。
だが前回より僅かにゴールから近い位置。
当たり前だが、シュートはゴールに近ければ近い程入りやすい。距離感が掴めなくても、より近い位置で打つ事で、まぐれでも決まってしまうという事はゴール下で頻繁に起こる。
俺は「これは決められてしまう」と予感する。
ーとその時、海夏の味方をしてくれる新たなブロッカーが現れた。真子のシュートを、海夏の代わりに防いでくれる存在。
それは人じゃない。とてもタイミングが良かった。
右コーナーから来る、強い「風」。
真子にとって、前方から来る「向かい風」。海夏にとって、後方から来る「追い風」。
空を舞ってゴールに向かわんとするボールは、風の抵抗を受けてあらぬ方向へ飛ばされた。
リングにカスってすらいない。そのボールを海夏が拾う。
「何で入らないのよ?」とイラついた様子の真子。自分のシュートが「風によって妨害された」事に気付いていない。
これが体育館バスケとストリートバスケの大きな違い。「風を読む必要の有無」。
ストリートで風の強い日は、絶対に向かい風の中で打ってはいけない。入る確率が著しく下がるからだ。追い風の中で打たなければ、真っ直ぐシュートが飛ばないのだ。
ちなみに俺がこの事実を知るのにストバスを始めてから半年間かかった。今日ストバスが初めての真子が、ストバスにおけるシュートのコツに気づく事の出来る可能性は低いし、仮に気づけても「風読み」を完全に身に着ける事は不可能。
一方海夏には、シュート時の「風読み」の方法を既に教えている。この勝負における、海夏にとっての第二のアドバンテージ。
海夏のオフェンス。再度ドライブを試みる。追い風となる右サイドへ向かって。
今度は取りこぼし(ファンブル)せずに、普段通りドリブル出来ている。海夏のドライブにスライドステップで喰らいつく真子。
だが僅かに真子を抜いている。そのままレイアップに持ち込む。シュートを放つがー、
「甘いよ!!」
バキンッ! と強くボールを叩く音。真子がバレーのスパイクのような動きでボールを弾き飛ばしたのだ。
百七十センチの巨体による、全力のシュートブロック。百四十センチしか無い少女の儚げなレイアップから放たれたボールは、「ボールを破壊してやる」と言わんばかりの強烈なビンタによって遠くへぶっ飛ばされた。
シュートを打った海夏自身の体も、真子の気迫で吹っ飛ぶ。接触は無いからノーファール。
「マコの十八番が出た!」「アレ、試合でやられると心折れるよね~」ーチームメイトの女子達の会話が横から聞こえる。
「まだやる?」
息を切らしながらも、煽る笑みを浮かべて海夏を見下ろす真子。
「ハーッ! ハーッ!」
大きく呼吸を乱す海夏。俯きながら、アスファルトの上に膝と両手を付いている。
(これはマズイな……)
強烈なブロックを喰らえば、誰でも強く殴られたような精神的ダメージを受ける。何故なら多くの場合、ブロックされたプレイヤーは敵の気迫で、弾かれたボールと一緒に自分の体まで吹っ飛ばされてしまうからだ。
地面に這いつくばる体が、脳の揺れる感覚を覚える。
仮に体を吹っ飛ばされなくても、耳元でボールを弾かれた時の衝撃音だけは、しばらく脳内で木霊する。二メートル近い黒人集団に、地元のストリートコートで手ほどきして貰っていた、高校生時代の俺の経験則。
今の海夏の表情からは、怯えや恐怖感といった類の感情しか読み取れない。
(気持ちを切り替える「時間」が必要だな)と判断。
「真子! タイムアウトを使わせてくれ!」
「え? はっや! もう使っちゃうワケ? まだ十分も経ってなくない?」
三分休憩を挟む。海夏が俺のいるベンチの方に戻ってきた。
「海夏、俺の渡したリストバンドは付けているよな」
「……はい」
右腕に付けた赤いリストバンドを俺に見せる。
「俺の力を借りている感じ……しない……かな?」
「そんな事ないです! でも……真子ちゃんが……怖くて……」
俯く海夏。彼女と小学生時代の夏海の違いが、こういった所で度々出てくる。かつての夏海は、腕を骨折するまで諦めないくらい勝気な少女だった。
この弱気で儚げな少女に、俺はどうやって勇気を与えようか? どうすれば与えられるだろうか? そこで思いついたのはー、
「……今年はロケットが飛ぶ年だよね?」
「……へ?」
「宇宙開発センターがロケットの打ち上げを発表してたよね? 俺さ、まだロケットが飛ぶ所、生で観た事ないんだ。どこから観るロケットが一番綺麗か、知らないんだ。ウミカにベストスポットへ案内して欲しいな」
「いい……です、よ?」
「この勝負に勝ったら、種子島の中で一番ロケットが綺麗に見えるベストスポットへ案内して欲しい。負けても、同じように案内して欲しい。どう? 勝っても負けても楽しい未来しか無くない?」
「……」
その言葉が、今の彼女の緊張をほぐす唯一の方法だと思った。
海夏は小学校という「小さな社会」を嫌いになってしまった。「社会に否定された人間」は未来に希望なんて持てなくなるだろう。
二十歳の俺は、すっかり社会を嫌いになってしまった。彼女と同類だ。十一歳の少女と同類。
そんな俺が海夏ー初恋の少女と瓜二つの少女とのロケット観賞デートなんて想像してしまえば、それだけで気持ちが舞い上がってしまう。高揚感とー背徳感もだが。
海夏はどうだろうか? 別に、俺と同じくらい高揚して欲しいとは言わない。それでも、彼女の中の心の負担を、俺なりの方法で減らして上げたいという気持ちは嘘じゃない。
「……ひ、秘密の……」
「?」
「秘密の……場所を知ってます。昔、お兄ちゃんと一緒に、ロケットの打ち上げを見に……行った事があります」
お兄ちゃん? お兄ちゃんがいたのか。
「この勝負が終わったら……一緒に見に行きましょう」
僅かながら、微笑を見せてくれた。彼女の中の緊張が解れたのを感じた。
とその時、風が更に強くなった。ビュービューと風音が聞こえる程。
頼もしい風だな、と思った。風音が応援団のコーラスかのように聞こえた。
海夏にそっと、小声で耳打ち。
「『敵を左へ、自分を右に』……だぞ」
「……はい!」
風は、海夏までも勇気づけてくれたようだ。強く吹けば吹くほど、海夏の力になってくれる。
絶対に、勝つ。
☆
タイムアウト終了。真子ボールから。
真子は、腰を落として自分をマークする海夏を睨みながら、
「な~に先生とコソコソ話してたんだか知らないけどさ、アンタ、本当に『男に媚びる能力』だけは持ってるよね。ある意味、羨ましいよ」
「……」
海夏は動揺していないようだ。よし、それで良い。敵のトラッシュ・トークなんか、バスケじゃよくある事だ。付き合う必要なんか無い。
確かに、真子はバスケの才能に溢れている。バスケは正直、身長が高ければ高い程、それがそのまま才能と呼んで差し支えない。プロならば二メートル越えがザラな世界なのだから。
しかも真子はデカいだけじゃなくて脚が速い。そんな選手はどこのチームだって欲しい。
しかし……俺は「才能がある事」がそのまま真子の弱点だと考えている。少なくとも、種子島という狭い世界しかまだ知らない、小学六年生である真子は、自分が「井の中の蛙」である事を自覚していない。この島のみで最強である事が、真子に慢心を与えている。慢心を持つ選手は、プレイングが感情に左右されやすくなる。
メンタル面において、「最弱の海夏」の方が「最強の真子」より勝っているはず。
「潰してやる……」と真子が呟いてから、
抜き(ドライブ)に出る。向かい風が起きている左サイドに向かってドライブー海夏の「方向付け」(ディフェンス技術の一つ)による誘導に、完全に引っかかっている。
海夏は足捌きで真子に付いていく。付き過ぎず、離れ過ぎない間合いのディフェンス。
真子が長方形の線ギリギリで止まり、海夏に背を向ける。三度目のポストプレイ。
真子の背中が海夏に強く、当たる、当たる、当たる。
そして、シュート。
真子の放ったシュートはネットに吸い込まれた。真子の初得点。
「フン、当たり前」と真子が鼻で笑う。
そんな敵のリードに対し、海夏は表情一つ変えず、集中した面持ちでオフェンスに入る。先程真子のブロックを喰らった時に見せたような怯えは一切見られない。心が安定した状態。
海夏のオフェンス。ドリブルを付いてー、
クロスオーバー! 敵を左右に揺さぶって抜き去るフェイント技術。左に行くと見せかけて、右へ。「ウミカのドリブル、上手くなってない?」とチームメイト達の声。
真子も、まさかあの海夏がクロスオーバーを使うなんて想定外だったのか、少し反応が遅れる。「チッ」と舌打ち。だがその遅れを、
クロスステップで大幅に後ろに下がる事でカバー。バスケにおけるディフェンスは、敵に付かず離れず、一定の距離を保たなければならない都合上、横か斜めに動かなければならない。後ろに思い切り下がるという行為は、ゴール下を守れるが長距離シュートを防ぐ事を放棄する動き。
ーではあるのだが、それはマッチアップの相手が自分と同じくらいの身長である場合の話。
身長差が三十センチもあれば、手の長さと跳躍力で遠くにいる敵をブロックできてしまう。
「打ってみなよ! ブロックしてあげるから!」と真子の挑発。
そんな挑発に乗る今の海夏ではないーと思ったのだが、
「……」
何と、海夏はシュートモーションに入ってしまった。ジャンプし、頭の上にボールを掲げる。
左手はボールに添えている。
(何やってるんだ? ウミカ?)
「バーカ」と笑みを浮かべながら、真子がジャンプ。
(高過ぎる! ブロックされてしまう!)
ー海夏が、「シュッッ!」という掛け声と共にボールを、手首を曲げずに浮かせた。
「打った」のではなく、「浮かせた」。
海夏のそのシュートは、「フローター・シュート」だった。
俺が教えた、低身長プレイヤーが高身長プレイヤーのブロックを避ける為の必殺技。
高いアーチを描いて、通常のシュート時より天高く舞うボールは見事、空中にいる真子の伸び切った腕の上を行き、
そのままゴールへ向かって、垂直に落ちる。リングに触れないままネットの中を通過。
海夏のー得点。
「ウソ……でしょ……?」
あっけにとられた様子の真子。
「ウミカが、マコから点獲った?」「ていうか今のシュート何? 前にテレビでプロの人が使ってたの見た事あるけど?」「ウミカ、ヤバいくらい上手くなってる……」
真子以外の三人は、ようやく海夏の成長を認め始めてくれているようだ。
海夏の方を見ると、彼女は両手の平を上に向けて震わせていた。目を丸くして、自分の震える両手の平だけを見つめている。最強から最弱が点を獲った事実を前に、震えているんだ。
(無意識……だったのか? 意図的にやったのか?)
海夏が自分自身に驚いている所を見ると、今のシュートは無意識に体が動いたシュートだった可能性はある。
それでも、結果は証明されている。海夏が、真子から点を獲ったという、揺るぎない事実。
それに……まぐれな訳が無い。今のシュートが、まぐれな訳が。
散々、散々一緒に練習した必殺シュートだ。スクープ・シュート、フローター・シュートの練習を、何度も何度も、何度も。
仮に無意識だったとしても、まぐれとは違う。頭では無く、体が覚えてくれていたシュート。
「ウミカ! ナイスシュートだ!!」
涙腺を抑える俺は、感無量のあまり思わずそう叫び、彼女に向かって親指を立てる。
「……ハイ!!」
汗でまみれたその顔には、疲労感を微塵も感じさせない希望一杯の笑顔。
そんなヒマワリのような笑顔を見せながら、幼い少女が俺に親指を立て返してくる。
ー立てた親指を、お互いの顔に向け合う俺と少女ー。
俺達二人で手にした得点ーおこがましいかもしれないけど、そう思いたくなってしまった。
その後の真子の調子の悪さは明らかだった。
打つシュートは悉く外れ、ドリブルすら何度も取りこぼし(ファンブル)してしまう。
反対に、海夏はかつて無い程調子の良い動きだった。あらゆるシュートが全て決まる。
二対二だった点数差は気づいたら、海夏リードで五十六対十二という圧倒的な点数差まで開いていた。
後たった二回シュートを決めれば海夏の勝ち。
☆
現在、真子のディフェンス、海夏のオフェンス。
「ハァ! ハァ! ハァ!」と息の上がった少女。
「……右……左……上……」とボソボソと何かを呟き続ける少女。
海夏の瞳は今、深海の底のような静寂さを秘めている。調子の良い時の真子の瞳をサバンナの虎のような「動」の瞳とするなら、今の海夏の瞳は大海原のイルカのような「静」の瞳。
熱量を表面に出さず、内側に溜め込んでいる「静」の力を宿した少女。
今の彼女の瞳には色が無い。だがそれは絶望しているのではなく、集中力による「色の喪失」。移り変わる試合の流れを延々と分析し続ける、精密機械のような瞳。
「ゾーンに入った」のだ。
集中力が非常に高まり、周りの景色や音などが意識の外に排除され、自分の感覚だけが研ぎ澄まされた、特殊な意識状態。マラソン用語を使うなら、「ランナーズ・ハイ」の状態。
一方、真子の目は怯えで染まりきっている。敗北への恐怖、一色。
弱者だと思っていた相手に屈する寸前の強者が失う物と言えば。それは、群れからの信頼。
二人の戦いを三人の仲間が見守っているこの状況。勝敗の結果は、あっという間にクラブ内に広まる事だろう。もしあの中に海夏、真子と同じクラスの女子がいるなら、クラス内にも。
敗北への恐怖は、体の動きを硬くする。もう俺には、勝敗の結果が見えている。
「……右」
海夏がー動く!
真子はあっという間に抜かれた。海夏がゴールにダッシュ、レイアップ狙いだ。
ワン、ツー、とレイアップのステップを踏み、左脚で跳ぶ。この得点で、後一本ー、
「フッッッざけるなァ!!」
雄叫びを上げる真子。敗北への恐怖を怒りで誤魔化す事で体を無理矢理動かしたんだ。
既に跳んでシュートを放たんとする海夏の背後から、覆いかぶさるように真子も跳ぶ。
後方からのシュートブロックー試合序盤で海夏の心を折った技が、来る!
(後方からのブロックは、前方からのブロックと違って、視界に入らない! これは防げない!)
ー俺がそう諦めた次の瞬間、俺は信じられないプレイングを目に焼き付けさせられた。
海夏が、右手に持っていたボールを、空中で左手に持ち替えて、
ゴールの真下を通過してから、逆サイドのゴール下でバックシュートを放つ。「シュッッ!」という、ゾーンに入った海夏独特の掛け声と共に。
その技の名はー「ダブルクラッチ」。
スクープ・シュート、フローター・シュートに次ぐ、低身長選手の為の「第三の必殺技」。
だがしかし……俺はあの技を海夏に教えていない!
どうやって……どこで、誰にあんな高等技術を?
海夏のダブルクラッチは、当然のようにリングの内側を通過した。
「ウミカが……ダブルクラッチ?」と、真子も驚愕を隠しきれていない。
俺だってそうだ。教えてもいない技を使ったのだから。
「ウミカ、どこでそんな技を?」と彼女に尋ねると、
「静の瞳」を持った、ゾーン状態の少女の色の無い瞳が、一瞬自我を取り戻し、
「先生の……プレイを見てましたから」
「プレイを見ていたって……?」
「高校生の方々や、色々な人とこのコートで一対一……してたじゃないですか。先生の動きを見て、ウミカも使えたら良いな~って思って。休憩時間に先生がご自宅に戻っている間とかに、こっそり練習していたんです」
見ていた? 俺の動きを? たったそれだけで……ほぼ独学でマスターしたのか?
何がスゴイかって、さっきのダブルクラッチが「海夏自身のジャンプ力に合わせた」ダブルクラッチだった事だ。
ダブルクラッチは、跳躍力が必要になる技。だから海夏に敢えて教えなかったんだ。彼女はお世辞にも身体能力に恵まれているとは言えない。
俺のようにダンクが出来る程の跳躍力を持つ選手なら、最大限活かしきる事が出来る。長い滞空時間でゆっくり打つ事が出来るからだ。レイアップに入る最初の一歩も、ゴールから遠い所から踏み出す事が可能。
反対に跳躍力の無い選手は、短い滞空時間で打たなければならない。なるべくゴールに近い位置から最初の一歩を踏み出さなければ、シュートが届かない。
海夏は今、自分の跳躍力が低い事を把握した上で打ったのだ。俺は普段、ゴール下である「長方形」の外からレイアップ時の最初の一歩を踏み出すが、彼女は中から踏み出した。
それが意味するのはつまり、跳躍力の高い俺のマネじゃないって事だ。自分の身体能力に合わせて調整したダブルクラッチ。自分の頭で考えて練習しなければ身に付くはずがない。
俺の生徒は誰かに与えられた努力だけでなく、自立した努力の出来る子だと認識させられた。
ー俺の初恋の少女も小学生時代、力強い努力の出来る少女だった。そんな所も好きだった。
小学校最後のマラソン大会で一位を獲った夏海の姿は、俺の憧れだった。
バスケの試合で骨折しても、教室内ではクラスの皆に微塵も痛そうな素振りを見せない夏海の精神的な強さが、俺の憧れだった。
海夏は夏海と比べて気の弱い少女……なのかもしれない。
だが夏海と同じく努力の出来る少女だ。海夏の中に、俺の「憧れ」を垣間見た。
俺はやはり、この九歳も年下の少女に、恋せざるを得ない。この子はあまりにも、俺の「初恋」に似すぎている。体、顔、形は勿論……心までー。
(勉強も、バスケも出来なかったあの頃の非力な俺は、こんな風に努力出来るアイツが好きだったんだ。そんなアイツに憧れて、中学で陸上を……高校でバスケをー)
「先生! どうされましたか?」
海夏の声で我に返った。
今は感傷に浸っている場合じゃない。首をブルブルと左右に振り、自分の気を整える。
真子にターンが渡ったが、覇気を失い、呆然と立ち尽くしていた。
ゾーン状態の海夏は容赦無く真子のボールを下でカット。そのまま海夏のターンへ。
海夏が茫然自失状態の真子を一瞬で抜く。レイアップに入ろうとする。
これで、決着だ。海夏の勝利ーー、
「ガンッ!」ー物が何かに引っかかるような音。
真子が自分の左脚を、既にレイアップモーションに入っていた海夏の左脚に引っ掛けた。
前のめりに転倒する海夏の頭部が「ゴンッ!」と痛々しい音を響かせー、
ゴールの鉄柱に激突した。