急:6話
☆☆
「ハルちゃん!」
ハル先生が、急にどこかに走り去っていく。国道に沿って、どこかへ。
小さくなっていく先生の背中。
ウミカに似た女の人と、二人きりになってしまった。
「そんなに、あの人の事が大事なの?」
不思議そうな目で、ウミカを見つめる女の人。
この人が、ハル先生が好きだった、ウミカそっくりな人……。
「はい。とても、大事です」
「そう……」
気まずい静かさが、やってきてしまった。
その静かさを打ち破る為、ウミカの方から口を開いた。
「どうして、先生の事、好きになれないんですか?」
「?」
「ハル先生は、沢山アナタの為に頑張ってきました。十年間、凄い努力してきたんだと思います。その先生の事を、どうして好きになってあげられないんですか?」
「……アナタは、あの人がバスケ上手いからとか、頭が良いからとかって理由で好きになった?」
「……いいえ」
「そうでしょ? 恋って、理屈じゃなくて、心でするものでしょ? ナツミはー私はね、理屈じゃなくて、心であの人の事を好きになれないの」
「こ……ころ……」
「逆にアナタは、どうしてあの人の事を好きになったの?」
ずっと怖い表情だった女の人が、初めて優しい顔を見せた。
「……お兄ちゃんみたいに、優しい……から?」
「そうなんだね、アナタのお兄ちゃんに似ているんだね。多分だけど、私はあの人が、お父さんみたいに頼もしくないから、好きになれないのかも。私のお父さん、背大きいし、強面だし」
「そんな……理由?」
「そんなものだよ、恋なんて。恋は、理屈でするものじゃないもの」
その朗らかな表情と声色は、ウミカを何故か安心させた。お姉ちゃんがいたら、きっとこんな感じの人なんだろうな、なんて思った。
先生に向かって散々酷い事を言っていたこの人が良い人なのか悪い人なのか、分からなくなった。
「私だって、彼が私の為に凄く努力してきた事は知ってるよ。でも彼の声とか、見た目とか、顔とか、どうしても好きになれない部分はあるんだよ。それは、ただの『運』だよ。私があの人を好きになれないのも、『運』。アナタがあの人を好きになれたのも、『運』」
「運……?」
「『運』だけは、誰にもどうしようも無い。努力じゃ変えられないもの。身長だったり、声だったり、顔だったりなんて、誰にも努力じゃ変えられないでしょ? ……だけどね、初恋が叶わなかったからって、その人の全てが否定される訳じゃない。初恋に費やした努力が無駄になる訳じゃない」
「……」
そう、かもしれない。ハル先生は十年間もの間、ずっと努力してきたから、ウミカに勉強を教えてくれる事が出来たし、バスケを教えてくれる事が出来た……のかもしれない。
ハル先生がこの人を好きにならなければ、ウミカはハル先生の事を好きになれなかった……のかもしれない。
「初恋が叶わなかったからって、二度目の恋が叶わない訳じゃない……私とアナタみたいにね」
「さっき……先生にあんな酷い事言ったのは?」
「あれくらい言わないと、あの人私の事嫌いになれないでしょ? 私はあの人に冷たくしなくちゃいけない。あの人が前向きに生きる為には、私を嫌いにならなくちゃいけない」
この人は……やっぱり大人だ。ちゃんとそこまで考えていたんだ……。
「あの人の事、大人になるまで好きでいられる?」
子供をあやすような笑顔で、聞く。
「もちろん、です」
「……もしアナタの気持ちが七年経っても続くなら、彼は大丈夫かもしれないね」
とても、優しい人なんだ、この女の人は。
自分を好きになってくれた人の幸せを、望んでいる。
厳しい言葉でハル先生を突き放す事で、ハル先生を幸せにしようとしている。
右のポケットに手を入れて、赤いリストバンドを取り出す。
先生にお返ししていなかったリストバンド。
このリストバンドは、大人になってから先生に返しに行こう。
先生のエナメルバッグだけがポツリとベンチに置いてある。
ウミカは、左のポケットに手を入れる。




