急:1話
■第三話(急)
現時刻、十二月二十四日十六時。学生達は冬休みに入った。
俺は海夏の家の前にいる。沈みかけの夕日が俺を照らす。
インターフォンを鳴らすと、
『はーい、小橋です!』
「ウミカちゃんのお母さんですか? 渡です」
『あ、渡先生! 少々お待ち下さいね!』
しばらくして通話が切れる。一分程してー、
ガチャリと、扉が開かれる。
現れたのは、初対面の女の子だった。
長い黒髪の少女だ。艶やかなストレートのロングヘア。
白いダウンを着て、マフラーを首に巻いた少女。スカートの中にレギンスを着込んでいる。
海夏の姉? いや、妹? その少女は後ろで手を組んだまま、ニコニコと俺を見つめている。
ー少しして気づく。その少女が誰か。
俺の想い出の中のどこにも存在しない少女。小学校の卒業アルバムにも、集合写真にも、記憶の中にも存在しない少女。今まで、初めて会う子だと気づかなかった少女。
黒髪ショートの少女を十年追ってきた俺が初めて出逢う、今の俺が恋している少女。
そうか……この子が……この子こそが……、
「君が……小橋海夏ちゃん?」
少女が笑顔で首をかしげー、
「初めまして、ハルちゃん! 小橋海夏です!」
初めましてー。確かに、俺は今、初めてこの子と出逢ったのかもしれない。
この「初恋の形をしていない」少女に対し、俺は間違いなく、心臓が高鳴っていた。
俺の中の「二度目の初恋」がー「二度目の恋」に変わっていくのを、感じた。
「エクステ、付けてみたんです! 長い髪のウミカを見たら、先生どう思うかなって?」
照れくさいけど、俺は気持ちを素直に伝えてー、
「可愛いよ。とても、可愛い」
初恋の少女より可愛いーそこまでは流石に恥ずかしすぎて言えなかった。
初恋より可愛いは、俺の願望かもしれない。そもそも初恋と二番目の恋をー恋と恋を、比べ合うものじゃない。どちらが可愛いか、だなんて。
でも確かに、確実に……俺の中の、小五から十年も癒える事のなかった初恋の傷は今、二度目の恋によって、塗り替えられていった。
ー俺が今好きな人は、小学生の時の高木夏海ではなく、小橋海夏だー。
俺達はバイクを、種子島東側、海沿いにある「恵美之江展望公園」近辺へと走らせる。そこはロケット打ち上げ時に、種子島で一番ロケットを間近で見る事の出来るスポットらしい。
ロケット打ち上げ時は、ロケットから三十キロ圏内が立ち入り禁止区域となるのだが、そのラインをギリギリ避けている。
木々に挟まれた国道を時速四十キロで走る俺達。夕日は没しかけていて、夜風が俺達の肌を撫でる。
「ウミカ! 恵美之江展望公園は人気スポットだ。当然人でごった返していると思う。ウミカの言っていた『秘密の場所』までの道は分かるんだよな?」
「はい、二年前なので覚えています」
バイクを走らせ、走らせ、走らせー、
T字路が見えた。直進か右折しか選択肢は無い。右折すれば、恵美之江展望公園へ向かう事が出来る。
「ハル先生! 直進して下さい!」
言われるがまま、右に行く道を通り過ぎると、
「ここです!」
すぐに右側に、古びた家と木々に挟まれた砂利道が現れた。車一台通れるか通れないか程の小さな道。
「ここからは歩いて行った方が良いです。けもの道がありますので」
バイクから降り、茂みの隅っこに停める。
「行きましょう」
左手を差し出す海夏。俺はその手を、握る。
小道を行く、行く、行く。
傾斜が上がっていく。高い場所に向かっているようだ。
そして、奥に行けば行くほど、道が狭くなっていく。
最終的に海夏が言っていたように、木々の生い茂るけもの道に入る事となった。
人の歩幅程の土道が出来ている。道に従っていけば、目的の場所に行ける筈だ。
「ウミカ、怖い?」
「全然怖くありません。ハル先生がいるから」
夜闇のけもの道には、木々の隙間から射し込む、空に輝く星々の僅かな明かりしか無い。それでも右手に握る、海夏の左手の体温のお陰で、微塵も不安を感じなかった。
ひたすら、歩く、歩く、歩く。少女の手を引っ張りながら。
すると、奥から光が射し込んできた。目的地は、もう間もなく。
ひたすら、歩く、歩く、歩く。少女の手を引っ張りながら。
そしてー光の先へ、着く。
そこは、崖だった。
木々によって遮られていた星々の光が、一気に俺達を照らし出す。
崖の遥か先には、発射台に設置された大型ロケット。
「こんな場所があったのか。グーグルマップにもネット検索にも出て来ない……」
「危ない場所ですから」
崖の下は森。落ちれば無事じゃ済まない。
三人で来るにしても足場が無い。二人が限界だ。
逆に言えば二人で見るなら、最高の景色。
頭上の星々による、自然の光。正面のロケット台から発せられる、人工の光。
草むらの匂い。崖という危険地帯。森林によって外部から遮断された、二人だけの空間。
それらが合わさったこの場所を、「最高の景色」と呼ばずして何と呼ぶのだろうか?
許されない恋をしている俺達が見るのに、この場所は、うってつけの場所。
暫く待ち、発射時刻十九時が近づこうとしていた。
「ハル先生、ロケット発射までもうすぐです」
海夏の声に合わせたかのように、ロケット台の方からカウントダウンのアナウンスが日本語と英語で響き渡る。
『打ち上げまで五分前』『Five minutes before launch』
寒かろうと思い、「ホッカイロ、使う?」と言って取り出す。
「大丈夫です。代わりに、先生の体温を下さい」
俺の両手を、彼女の両手が、強く握る。
顔が、近い。
長い髪の少女は、「初恋の顔」を残しつつも、知らない顔に見えた。
海夏が俺の両手を引っ張り、俺の顔を自分の顔の位置まで持ってこようとする。俺は流されるように膝を落としていく。
逆に彼女は、つま先を立てて背を伸ばし、足りない高さを補おうとする。
顔と顔が、唇と唇が、距離を縮めていく。
(許されない、許されない、許されない、許されない、許されない……)
小学生とのキス。小学生同士なら許されても、大人と小学生では許されない。
《違うね、嘘だ。俺は、「法律で許されないから」この子とキスしたくないんじゃない》
間近に迫る少女の唇を前に、俺が俺に話しかける。
《俺はただ、海夏に大人になって欲しくないんだ。大人の階段を登って欲しくないんだ。
俺は、まだ誰とも恋をしていなかった、アイドルのような夏海が好きだったんだ。クラスのアイドルだった夏海に。純粋無垢で、誰にも穢されていなかった夏海に。
怖れているんだ、海夏を俺が穢してしまう事を。男を教えてしまう事を。
男を知れば知る程、海夏は今の夏海に近づいていく》
男を知った、初恋の少女。
ふと、俺の中で、ドス黒い感情が蠢いて、湧き上がってくる。
夕暮れの中で心配そうに俺をー「無邪気な気遣い」を含む瞳で俺を見つめる小五の少女と、暗闇の中で幸せに満ちた顔を知らない男に向ける中三の少女の顔が、同時に。
オレンジ色の甘酸っぱい記憶がー黒で塗りつぶされた、生きた虫を食すより苦い記憶に、呑まれる。小学校の玄関で見た夕暮れのオレンジが、夜闇の路上のブラックへ、呑まれる。
あの中三の三月の夜、彼女は間違いなく男とキスをしていた。
あの緑色の封筒に入った手紙の文面を、俺は何度でも思い出す事が出来る。
《私もようやく見つかりました。
今思っているだけかもしれないけれど、本当に一生に一人の人だと思っています。
これから先、変わるつもりはありません。》
初恋の少女に、選ばれたかった。
選ばれたかった。
選ばれたかった。選ばれたかった。
選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかったーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。
選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。
選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。
「ハル先生、どうしたんですか?」
選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。
選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。
選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。
「センセイ? センセイ?」
選ばれたかった。選ばれたかった。(好きだった、愛していた)選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。(嫌だ思い出したくない)選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。(ナツミ、どうして?)選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。(俺、頑張ったのに、頑張ったのに)選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。(陸上頑張ったのに)選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。(バスケ頑張ったのに)選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。(東大入ったのに)選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。(選ばれたかった)選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。(選ばれたかった)選ばれたかった。選ばれたかった。(選ばれたかった)選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。「選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれたかった。選ばれーーーーーーー
「大丈夫だよ。ウミカが、ハルちゃんを選ぶよ」
自らの額を、俺の額に合わせる少女。両手で、俺の両頬を包み込む少女。
俺はいつの間にか両膝を地に付いていた。足下の草むらは、濡れていた。
「泣かないで」
「俺、ダッサイな……ごめん」
嗚咽で、声が裏返ってしまう。声が、乾いている。
「キスが……怖いの?」
「許されない事だからね。……けれど、許されない以上にー」
「?」
「俺はね、ウミカに大人になって欲しくないんだ」
「……大人になったら、皆の前でハルちゃんと付き合えるよ?」
「自信がないよ。ウミカに相応しい男でいられる自信が」
「相応しくなんてならなくて良いよ。一緒に居られれば」
「……中三の時、ナツミに手紙で、こう言われたんだ。『私もようやく見つかりました。今思っているだけかもしれないけれど、本当に一生に一人の人だと思っています。これから先、変わるつもりはありません』って。そのナツミは、高三の時に彼氏と別れた。『一生に一人の人』と、たった三年で別れた」
「……」
「どんな恋にも終わりが来る。俺は、君との恋が終わる時に、『君にとっての幸せは、俺にとっての幸せだった』と言って、終えられる自信がない。むしろ、ウミカが別の誰かと幸せになる事を、俺にとっての不幸だと思ってしまうよ、きっと」
「……じゃあ、この恋の終わる日まで……」
「?」
「この恋の終わる日が来るまでだけで良いから、一緒に居てくれませんか?」
額を強く、俺の額に押し当てて来る。
『発射十秒前! 八! 七! 六ー』
耳元で、カウントダウンのアナウンスが響き渡る。ゴォォォという、エンジンの轟音も。
目を瞑っている今の俺には、彼女の額の温度と、俺の両頬を包む彼女の手のひらの温度しか感じ取れない。
『四! 三! 二! 一ー』
ゼロ、の合図と同時に、海夏が俺の唇を奪った。
轟音が、地から空へと、上がっていくのが聞こえる。
長く、長く、轟音が響き、空へと消えていく。
その間ずっと、少女は唇から唇を離さなかった。
唇の表面上を撫でるだけの口づけ。
「恋慕の口づけ」と言うよりは、まるで「親愛の口づけ」。
少女が大人になるのを望まない俺とは反対に、少女自身は大人になる方を選んだ。
俺が少女を選ぶのではなく、少女が俺を選んでくれた。
それを悟った瞬間、俺の中に、新たな目標が産まれた。
(この子が大人になるまでの後七年間、この子に相応しい自分で、あり続けよう)ーと。
轟音は雲の中まで溶けて消えたようで、完全な静寂が訪れた。
海夏が、唇を離そうとしたーその時、
パシャリッ
スマホのシャッター音。フラッシュライト。
「?」「?」
俺達は反射的に音と光の方を向く。
森の出入り口に居たのは、海夏の友達の島崎 秋也君だった。
顔面蒼白でこちらを見つめる彼は、すぐさま背を向け、逃げるように走り去った。




