Prologue7
十数秒ほど経ち、床に転がっていたホランドの眩んだ目と耳が完全に元に戻った時、目の前にはベリーが立っていた。
「助かったぜ、軍曹。」
「で、どういう状況なの?」
と、言いながらベリーがサングラスを外した。
「俺もよく分からねぇ、ガキが来たから説教して追い返そうと思ったら組み伏せられてーー」
軽蔑した視線がホランドに投げかけられる。
「待て待て! あいつの尋常じゃない膂力はお前も味わったんだろ!?」
視線を緩めてベリーは頭を掻いた。
「まぁね。
で、私と同じ質問をされた?」
「……あぁ、写真を見せられてこの女を知らないかって。」
「どう答えたの?」
「アニー婆さんの煙草屋に行け、煙草屋の元締めがそこにいるまでだ。
元締めの名前を伝える前にお前がきてくれたからな。」
安物のオイルライターの火をつけて、ホランドはタバコを燻らせた。
「……名前だけの娼館に行けって?
あんた場所バレてるんだから、戻ってきたら殺されるわよ?」
「だから、この店は今日で閉店だ。
シガレットさんによろしく言っといてくれ。」
ホランドがそう言いながら、店棚の金具を外すと、棚に置いてあったタバコが、下に置いてあった袋に綺麗に落ちて詰められた。
「メッセンジャーガールじゃないってのに、全く。
この貸しは高く着くわよ。」
そう言いながら、皮肉たっぷりに口角をベリーが上げる。
「分かった分かった、どこかでお前好みの少女を見つけたら写真送ってやるよ。
住所はイースタン邸でいいんだろ?」
タバコを包みなおし、レジに入っていた売り上げを乱雑に別の袋の中にねじ込むと、ホランドは巨大な布を取り出した。
壁にかかっていたコート、帽子、雑多な小物を布の上に置き、手際よくクルリと包む。
わずか数分立たないうちに、煙草屋の中はバーテーブルとレジや棚などを残して綺麗さっぱりと空になった。
「相変わらずの早技ね、『夜逃げ詐欺師』ホランド。」
「その仕事からはすっぱり足を洗ったんだよ、忘れてくれ、軍曹。」
タバコを咥えながら器用に喋るホランドに苦笑するベリー。
「もう夜も遅いし、明日の朝まで泊まる場所がいるならイーストサイドの路地裏、『端の端ホテル』に行けばいい。
『171号室を貸してくれ』って言えば最高の一室に通してくれる。」
「おう、ありがとよ……情報量はレジの中に入ってる。」
「あんたどこまでお見通しなんだか。」
「オメェが優しいんだよ、初から情報教えて手助けしてくれると思ってたさ。」
背に、荷物を詰め込んだ布を担ぎ、軽く手を上げるとホランドは足早に去っていった。
それを見送った後にレジの中身を確認し、薄い札束と葉巻が一本取り出される。
シガーカッターで葉巻の頭を切断し、火でゆっくり炙りベリーが一息吐いた。
「優しい、か。
…さてと、私もあいつらが私の偽物を追いかけてくれてる間に逃げないとーーー。」
刹那、木の扉が今度は人が飛び込んでブチ開けられた。
正確には飛び込まされた、だろうか。
「ゲッホ…ングゥッ……。」
壁に叩きつけられ、地面に落ち、その衝撃で内臓を損傷したのか口の端から血を流すチェルシー。
「なっ...!?」
叩きつけられたチェルシーを見て驚くベリー。
走る速度と逃げに徹すれば服の端すら掴ませない、隠蔽、逃走訓練においては隊随一だったチェルシーがこの短時間で捉えられた。
それはつまり、この場から逃げおおせる事が事実上不可能になったことを表していた。
後ろを振り向くベリーが見た先、壊れた扉の先に草食獣の頭蓋骨を被った少年、の姿を象っている何かがいる。
「なんだ……」
先ほどまでと変わり、化け物のように。
「それは、どうなってる……?」
頭蓋骨と皮膚の間から、自身の身長と同じ長さの舌が垂れ下がっている。
「啜っていいよ、ジャヴァウォッキー。」
その言葉とともに、長すぎる舌がチェルシーの頭に向かい勢いよく高速で伸びる。
のを、ベリーが懐から取り出した手持ちのナイフが舌先を裂いて止めた。
奇声、としか言えない何かがベリーの耳を劈くように響いた。
この世のものとは思えない、少年の喉から出るはずのない嗄れた声の叫声が店舗内に木霊した。
「お見事、よく止められたね。
でも怒らせた。」
叫声から怒声へと声色が変わる。
息を細かく刻み、犬の様に息を吐く。
ベリーの目の前にいるのは子供の姿をしているだけの獣だった。
太腿のナイフホルダーからベリーがもう一本ナイフを取り出し、両方を逆手に構える。
小さく息を吐き、ベリーの目がジャヴァウォッキーと呼ばれた小さな獣を真っ直ぐに睨め付ける。
ローブをきた少年がベリーの目の前から消える。
後ろを振り向きながら、首をちぎり飛ばそうとしていた足をナイフの刃で迎撃するも、刃が当たる前に少年が足を引っ込める。
そのまま、壁に向かって跳躍すると、狭い店内を跳ね回り始めた。
文字通り、壁に、床に、天井に足をかけ、店内を縦横無尽に跳ね回る。
見ているだけで目が回りそうなそれに対して、ベリーは目を瞑り耳をそばだてた。
ダンッ、ダンッ、ダンッと壁を、床を、天井を跳ね回る音を耳で追っていく。
一瞬の溜めによる音の空白。
大神なった場所と自分への直線にベリーはナイフを置いた。
地面に転がり、喉を抑えて少年がのたうった。
顎から喉にかけて大きく裂傷が出来ている。
「やりますね。」
「この子を助けなきゃいけないからね。」
息を小さく吐き、ベリーが少女を睨みつける。
「......私はやりません。
質問に答えてもらうだけで良かったので。
どうせ、貴方の知ってる内容もあの男と変わらないでしょう?
先程の男から聞けた情報で満足しておきます。」
ふぅ、とため息を吐きながら少女は背を向ける。
「起きなさい、ジャヴァウォッキー。
行きますよ。」
その言葉を聞いた少年は悲痛な声を上げるのをやめ、喉を押さえながら少女の後ろをついて夜闇へと消えていった。
完全に足音が消え去った後、大きくベリーは息を吐いた。
「…ごめんね、チェルシー。」
息も絶え絶えのチェルシーの方に向いて、彼女は謝った。
「......後で甘いの奢ってください。」
その言葉にチェルシーがそう返しながら薄く笑う。
頷き返した、ベリーがナイフを拭くためのクロスを取り出した。
「ん?」
ナイフを拭こうとしたベリーの手が止まる。
ナイフの先はかすかに濡れているだけで、何故か血は一滴も付いていなかった。